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第十七章
北進か南進か(1933-1934)
(その3)



一時休戦

 20世紀の日本の機械化された陸軍の指導者たちを暗殺しようと、日本刀を手にした武士たちが明治神宮を出発したとの話が伝わると、日本の伝統を重んじる伯爵や男爵たちの心は揺れた。それはまた、その対象者とされている荒木陸相も同じだった。その後の数週間、たとえ一時的であろうと、その解決法が模索された。そして事実上、天皇は自分の過ちを認め、また彼の敵対主義者も二度と問題を起こさないと約束した。かくして、北進か南進かの決定は、しばし延期されることとなった。
 神兵隊事件から6日後の7月17日、裕仁は、皇后良子が再び懐妊する一方、自分は退位を考えている(38)、との話を老西園寺に伝えた。そこで裕仁がにおわしたことは、皇位の地位は、人工授精で生まれたよちよち歩きの皇太子に代わりうるし、統治も彼の叔父や兄弟で代行しうる、というものだった。
 同じ頃、荒木陸相と各閣僚は、赤攻撃を収めることで了解した(39)。京都大学の近衛親王派の七名の機関説論者の先鋒、滝川教授はその職を辞し、同じく、マルクス主義講座を支援した学習院の学長や、また、学習院に関係する貴族階級教育の宮廷式部官も辞職することとなった。そして、新たな同式部官長には、牧野内大臣の秘書という従来の職務と兼任して、大兄の木戸侯爵が就任した。そして木戸は、その職務を全うして、宮廷からマルクス主義者を残らず刈り取ってしまった。さらに彼は、宮廷名簿に掲載する貴族夫人の扱い方についても取り決めた。そしてこれはその後、天皇がすべての御しがたい侯爵や伯爵を扱うにあたり、その侯爵夫人や伯爵夫人の助けを得るための道具となった。
 荒木陸相は、北進派の将校を陸軍省の有力な地位から前線司令官へと配置換えすることには黙って従った。そしてその後任には 「中国通」 の将校が就いた。さらに、東久邇親王も、仙台の第二師団長となって東京から転出した。三羽烏のトップ永田は、宿敵の第二烏の小畑とともに、一般幕僚から旅団長という実働部隊に移された。後の首相、東条少将は、調査委員会という陸軍の軍紀を扱う新たな監視組織を作り、荒木自身の陸軍省の管轄下に置かれた。(40)
 そうした東京での決着は、陸軍を政治から追い出し、同時に、満州での司令系統の予期せぬ変更
――ある突然の死あるいは自殺が荒木の陸軍内での影響力の支えの一つを奪った――を意図していた。今や裕仁の侍従武官長である本庄中将は、関東軍の司令官を、 「物言わぬ大将」 武藤信義に譲っていた。武藤は、1928年の満州軍閥張作霖の爆殺の前に開かれた東方会議で、国家政策をめぐって、裕仁に反対していた。1933年7月初め、神兵隊事件の直後、物言わぬ武藤――今や陸軍元帥の一人――は裕仁に手紙を書き、自分の管轄下にある満州人民への寛大で慈悲ある政策を懇願した(41)。裕仁の返答は記録に残されていないが、武藤は返答を受け取った後の7月21日、日本に居る最愛の次女、みさ子に、次のような短歌を送った。
 翌7月22日、武藤は私邸に引きこもり、病気との発表があった。それから5日後の7月27日、裕仁は、武藤が 「一般的腹部疾患」 で死亡したと知らされた。宮内大臣は皇位に、故陸軍元帥に男爵の称号が授与されるべきとの公式嘆願を提出した。
 裕仁の返答は、「武藤に男爵号を与えるのは穏当で適切だと思うが、子供たちにはふさわしいのだろうか」 と言うものだった。大兄の木戸は、今や内大臣の秘書、同時に、貴族階級教育の式部官長官として事情を調べ、数日後、武藤の継承者はその男爵号を維持することが経済的な重荷となるだろう、と皇位へ返答した。
  「武藤の妻はすでに自分を(その苗字でもって)未亡人と届けている。従って、彼女は称号を受け継ぐことを欲していないことは極めて明らか」 と、木戸は彼女と相談することなく〔日記に〕書している。
 したがって、裕仁は武藤にその死後は世襲できない男爵号を与え、この件は落着した。(43)
 生前の武藤の地位、すなわち、満州国大使および関東軍司令官に、裕仁は、海軍志向が強い薩摩藩出身で横暴、強気な菱刈隆大将を任命した。この選任には文字占い的判断が込められている。というのは、菱刈とは菱の実を刈り取るとの意味がある。菱の実は中国での珍味として日本人には知られ、中国支配階級の食道楽的堕落の象徴である。菱刈は、任命後の記者会見に、着物姿に家系に代々伝わる古刀を腰に差し、骨董の扇子で盛んにあおぎながら望んだ。
 翌日の新聞の報じるところによると、彼は、「もし誰か帝国陸軍に歯向かうものがあるなら、こうしてくれよう」 と叫んでその刀を抜き、それで空を切って、「高笑い」 をあげたという。(44)
 菱刈は、満州に赴任すると、裕仁の若い専門家たちがその植民地経営から利益を上げるためにすでに導入していたあらゆる悪弊を、合法化し体系化した。関東軍の北進派の将校たちは、満州における状況についての小冊子を作り、それを本国に持ち帰って、前司令官の本庄中将
――今や宮廷の侍従部官長――に渡した。1933年8月6日、本庄はそれを裕仁に提出し、 「満州国の平和維持の現状」 が描かれていますと述べた。本庄の8月8日付けの日記には次のような記録が見られる。
 「私は天皇にそれを呼んでほしいとお願いし、 『暑い盛りですが、お時間のある時に』 と申し添えた。二日後の今日、彼は私を呼び、こう言った。 『貴方が印した部分を読みました』。そして彼はその小冊子を私に返した。私自身はそれを読むのに長い時間がかかったのに、彼が余りに早くそれを読んだことに驚かされた。」


ガスペ誘拐
(45)

 菱刈は満州に新趣向のたくらみを持ち込んだ。誘拐である。多くの裕福な中国商人は、その死亡か倒産が確認される前に、二度も三度も誘拐された。西洋人たちも、その他の形の身の危険を領事館に訴えたが、誘拐の頻発には対抗のしようがなかった。誘拐に実施にあたっては、憲兵は常に盗賊と見なされれる一味――中国人の誘拐には中国人のをれを、白系ロシア人には白人のそれを――を利用した。誘拐犯たちは、日本の憲兵による保護扱いを受け、身代金が支払われた場合、その1パーセントに当たる報酬すら得ていた。いくつものケースで身代金が支払われ、被害者が自宅に帰された。それでも、彼らは、日本人からの報復を恐れて、その体験談をマスコミに明かすのはまれだった。
 菱刈大将の任命からひと月も経ていない1933年8月24日、ハルピンのスパイ機関の工作員は、満州で最も金を脅し取れそうな、ヨセフ・カスペという裕福なロシア系ユダヤ人の息子を襲った。ヨセフの父は、日露戦争の後の1907年に、ハルピンにやってきていた。その宝石商は、時計修理と質屋から身を起こし、今では、東洋でもっとも富裕な宝石と銀の商人となっていた。そうした家業とともに、彼はハルピンの主なカフェとモデルヌ・ホテル、そして、北満州の映画館のほとんどを所有していた。彼の商売敵たちは、彼のその富は、ロシア革命の際、白系ロシア人貴族から押収された宝石や美術品の買取商売のゆえ、ソビエト連邦に感謝すべきだと影口をたたいた。このソビエトの盗品の密売の容疑のため、カスパは、彼のまわりに暮らす白系ロシア人からは徹底して嫌われていた。それは、ハルピンのユダヤ人社会でも同じだった。かくして反ユダヤ主義が白系ロシア文化に染み込まされ、近年、多くの白系ロシア人がアドルフ・ヒットラーの賞賛者となっていた。
 その頃、日本人もまた、フリーメースンやボルシェビイキと同じように、ユダヤ人を宣伝材料に使い始めていた。だがそれは、多くの西洋人にとって奇妙なことだった。というのは、日本人にユダヤ人と非ユダヤ人を見分けられる者はほとんどおらず、ユダヤ教徒に自ら進んで転じた者も日本中で一ダースにも満たなかったからだった。しかし、日本人の潔癖好き精神にとって、それが悪魔であるなら、馴染みの有る無しに拘わらず、大した違いはなかった。ハルピンのユダヤ人は、事実上、地位も自分を守る術を持たない人々で、神道による迫害は、キリスト教徒に負けず劣らず容赦のないものであることをやがて知ることとなった。1932年に関東軍がハルピンに侵入すると直ちに、地元のロシア・ナチ指導者の工作員で協力者を、 『ナシュ・プト』 という宣伝新聞の編集をするロジャエフスキーとの名のやくざまがいの知識人に仕立てた。
 大金持ちのカスペは、日本の政治状況の動向を察知して、自分のすべての財産を、フランス国籍の二人の息子の名義に移した。日本人の眼から見れば、それは日本人を無視する行為であり、1932年末に満州自活方針が実行に移された後、日本の統治当局は、カスペの財産を何とでも搾り取ろうと躍起になった。だが、カスペも、それに気付かない人物ではなく、彼がモデルヌ・ホテルの自室を後にする時は、必ず頑強な護衛を付けていた。
 しかし、カスペの息子の一人は、そういう用心が不足していた。1933年の夏、彼は、フランス国立高等音楽院を卒業し、コンサート経験を積むことを望む前途あるピアニストとして、ハルピンに帰国した。父親が彼のために、その機会を準備しようと東京や上海に行っている間、彼は、毎日のようにハルピンの夜を楽しみ、川端のゲイ地区や、タトスあるいはイベリア・クラブの中国人歌手、日本人ママさん、あるいは、ロシア人キャバレー女を求めて出かけて行き、その際は父親が用意した武装運転手を同行した。
 1933年8月24日、息子のセムヨン・カスペが、L. シャピロ嬢を自宅に連れて帰ろうとした時、日本の憲兵に雇われた二人の白系ロシア人ファシストがその車に乗り込み、車を町外れへと運転させて行った。そこで彼らは運転手を追払い、その女に手紙の秘密受渡し場所や電話番号を教えた後、彼女を身代金交渉の仲立ちにするために解放した。その後の彼女の陰に日向にの献身的な働きは、彼女は若いカスペを深く愛していたか、憲兵から金で操られていたかのどちらかを物語っていた。誘拐犯はセムヨンをハルピンの西、約 「55ロシアマイル」
〔約60km〕 の森の隠れ家に連れて行き、そこから毎日、電話や身代金通告や最後通牒を発した。
 セムヨンの父は、要求された10万ドル
〔現在価値で約5億円〕を憤然と拒絶し、本人と引き換えに1万2千ドル〔同6千万円〕を支払うと返答した。一ヶ月の交渉の後、彼には血にまみれた息子の片耳の半分が送られてきた。それでも彼は、徹底した倹約心と、脅迫に対する頑固な勇敢さから、その支払いを拒否し続けた。彼はフランスの副領事シャンボン氏とは非公式で関わりがあり、同氏の部下が手掛かりを探し始めた。さらに日本の憲兵の司令官自身は、その件に部下のすべてを配置していると言っていた。その部下たちは、誘拐犯からの身代金要求の電話を探知するため、ハルピン中央電話交換所に陣取っていたが、日本人の説明によれば、その巧妙な誘拐犯は、傍受している四つの回線全部にいつも同時に電話をかけてくるので、技術的理由から、その探知を行うのは不可能であるとしていた。
 10月、熱心なシャンボン副領事の部下は、コミサレンコという十代のごろつきを誘拐犯の一人として捕らえた。彼は共犯者の白ロシア人の名を白状した。日本の憲兵はコミサレンコを逮捕し、町から連れ出した。憲兵は、彼を南満州鉄道の敷設権内
――憲兵を見下す日本の鉄道公安官の管轄下にあった――に彼を隠すという失敗をした。鉄道公安官の責任者、大井深大佐は、いかにも、日本の武士の典型のような人物だった。彼は自分の権限を駆使して、コミサレンコの憲兵を解任し、その若い暴漢を自分の下に拘留した。憲兵は、シャンボン副領事の部下の全員をでっち上げの罪で逮捕し、ファシストのロジャエフスキーに、シャンボン副領事はユダヤ人ボルシェビイキであったと彼の新聞 『ナシュ・プト』 に書き立てるようそそのかした。大井大佐はコミサレンコをハルピンに連れ戻し、地元の満州警察に公式の自白を行わせた。やがて外国の新聞がこの事件に注目し始め、当惑させられることとなった。
 誘拐されたピアニスト、カスペはその間、しだいに弱っていっていた。誘拐犯たちは彼を飢えさせ、時に殴打し、そして、そのピアニストの柔らかい指から、爪を剥ぎ取っていた。少なくとも一度は、憲兵は彼と誘拐犯たちを別の隠れ家に移すために車を用意した。彼の最後に詰め込まれていた場所は、凍土の中に掘られた穴で、それが蓋で覆われていた。1933年11月28日、遂に、大井大佐が二人の誘拐犯を逮捕すると、その一味たちは混乱に陥った。その内の一人は、セムヨンを3千ドル
〔同約1200万円〕で返すと父親と話をつけた。その日の夜、 「勝利の手入れ」 と穏便に表現されながらも、憲兵がその隠れ家を急襲し、その最後の犯人を射殺し、護衛についていた者たちを逃亡させ、その不具者にされ壊疽に冒されていたピアニストを殺すか、あるいはそのまま埋めてしまった。
 数ヶ月の捜査と起訴手続きの後、彼らの裁判が満州の法廷で始まった。そしてその公判は、東京で行われた5・15事件や三件の脅迫事件の英雄たちのために行われた公判のミニチュアのごとく、外交的茶番への中国人の憤激をもって実行された。被告には弁護のための政治談義の展開が許された。彼らは、カスペの懐はボルシェビイキの黄金で満たされており、それは、ソ満国境に展開する白系ロ
 中国人判事たちは、二年間にわたって、丁寧かつ忍耐強くそれを聞いた。そして1936年、一味の6人に、 「三日以内」 の絞首刑、他の者には長期投獄の判決を言い渡した。だがそれに驚かされたのか、満州国の操り人形舞台の背後にいる日本人支配者は、不可解でとっぴな行動に走った。その判決の二日後、彼らは、その判事と検察官を連行し、 「汚職」 の嫌疑で取り調べた。それと同時に、その誘拐犯の一人の妻の上告について、関東軍参謀総長の板垣は、刑法の無法行為条項ではなく、
――日本人判事によって公判が進められるべきという――政治的理由でもって、新たな裁判を開始することを命じた。
 その再審において、検察は情状酌量の困難と被告席の 「清く若き愛国者」 の純粋な動機を力説し、10ないし15年以内の寛大な判決を求めた。法廷はそれに応じ、投獄は軽減された。しかし、日本国内では、他に役立つかもしれない者を監獄に遊ばせておくことをよしとはしなかった。受刑者たちは、その一週間後、再び法廷に呼び立てられ、自身でも驚かされたことに、恩赦が申し渡された。そして10日後、彼らは、判決と誓約に免じて釈放され、満州の他の都市においての特務機関の仕事が与えられた。
  『ハルピン・ヘラルド』 や 『ハルピン・オブザーバー』 の各紙は、その司法処置を茶番であると非難した。長い弾圧をなめてきた両新聞社は閉鎖され、編集者は国外追放された。大井大佐は日本に呼び戻され、シャンボン副領事は、好ましくない人物と宣告され、本国フランスに召還された
# 5。父親のカスペについては、彼が身代金に応じなかった息子の遺体が掘り出された時、とうとう気がふれたと言われた。彼は自分の金融帝国への興味を失い、その後、フランス人妻と共に身を引き、忘れ去られた。彼の映画館は満州映画協会によって買収された。この団体は、甘粕正彦の率いる独占組織で、彼は、1931年にヘンリー・溥儀を満州に招いたいわくつき憲兵であり、かつ、1923年の関東大震災の際には、社会主義者大杉栄、その妻、そしてその甥を絞殺した人物だった。
 
 
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