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第五部


軍紀の粛正





第十八章
機関か神か (1934-1935)

(その1)



懐柔と統制

 北進派の荒木が陸軍省から放逐されて以来、裕仁の権威がいっそう確固たるものとなると共に、大衆の黙した抵抗は蔓延し、その後二年間にわたる鬱屈した国内不安の口火となった。それは一方では、人々が警察国家の横暴に虐げられていると感じ始め、また、日本が危険な道を歩み始めていると気付き出すことでもあった。またその他方、裕仁の周囲の知恵者である大兄やその友人たち――みな四十代半ばとなっていた――は、明治天皇の時代から引き継がれてきた古い日本に取って代るべく、社会の責任ある地位に就き始めていた。そして同時に、1920年代末から1930年代初めの軍備計画は完成されようとしており、近代化なった日本の軍隊組織の統制は、いまや、大衆的人気を集める煽動家から、職業軍人や技術官僚によるそれへと移り変わりつつあった。
 北進派陸相の荒木が退陣して一ヶ月後、裕仁は、生後二ヶ月の皇太子明仁を誉れとして、3日にわたる祝賀会を宮中で執り行った。1934年2月23日のその初日、すべての親王と内親王〔皇女〕、全閣僚、東京駐在各国大使が、天皇、皇后とともに、午餐会の大テーブルに着いた。米国大使のグルーはそれを 「素晴らしいもの」 と表現した。料理とワインはおいしく、給仕はヨーロッパの給仕より、いっそう丁寧なお辞儀をした。楽団が金屏風の背後より穏やかに音楽をかなで、その前では、温室栽培の花々や松の盆栽が美しく飾られていた。グリュー大使夫人は、二人の内親王の間の席に着いた。各ゲストには、金の菊の紋が浮彫りとなった深紅色の杯と銀製の小さな兜が贈呈された。後の謁見の際には、グリュー大使は、天皇が 「前例になく誠心誠意」 であり、皇后が 「満面に喜びを表している」 ことに印象を深めた。(88)
 裕仁の身辺にはべる宮廷日記役の面々は、誰一人として、この祝典について書き残してはいなかった。彼らにとっての関心事は、軍服をまとった裕仁が、皇室図書館で机に向かって執務に精出す姿だった。荒木を追放した後、彼らは、十一人クラブに属す若者たちを日本政府のあらゆる要職に潜り込ませることに忙しく、また、北進派をなだめ、沈黙させておくことにも多忙だった。グリュー大使は、眼にとまる以上に事は考え抜かれており、また、日本人の 「大多数は、自分をあざむくことに驚くほどしたたかだ」(89) と鋭敏に見抜いていた。また、日本の新任の外務大臣は真摯であるかもしれなく、あるいは、彼の 「穏やかさ」 が 「実体というより、見せかけや演技」 であるかも知れない、とグリューは見ていた。その上でグリューは以下のように結論付けている。
 荒木大将は、1934年1月、陸軍大臣職は断念したが、北進派の指導者の二番旗手、ぶっきらぼうだが正直な真崎大将を陸軍教育総監の職に着かせることに成功した。教育総監は、陸相および参謀総長と並んで、陸軍三役のひとつと見なされていた。しかし、彼の職は、その三役のうちでもっとも非力で、裕仁との繫がりという意味でも、最も遠い関係のものであった。
 北進派の面子を立てるもうひとつの工作として、裕仁は、真崎大将の最良の友人として知られる林銑十郎大将を新陸相として受け入れた。彼は、1931年の奉天占領の際、正式な許可無く、果敢にも部隊を動かし満州国境を越えさせた忠順な関東軍司令官であった。だが、こうして新たな地位に就任して、林は、旧友より皇位に対する忠誠の方がはるかに重要であるかに動き始めた。彼がその職に着いてまず行ったことは、陸軍のあらゆる印刷物や演説に、北進派のスローガンである 「1936年危機」 という用語を使うことを一切禁じたことだった(91)。さらに彼は、北進派の人物を、関東軍の将校ばかりでなく、憲兵の高官からも排斥した。
 林の粛清人事と禁止令は、新聞読者の関心を呼び起こそうと、北進派と南進派間の初めての隠れた抗争を引き起こした。だがその当時によく見られたように、問題となっている実際の争点が、表面上の記事に表されることはなかった。北進派と南進派という名は、それまで戦略家や官僚の上層部のみで用いられてきたが、それも変わり始めた。北進派は、天皇の支持がないにもかかわらず 「皇道派」 と称され、また南進派は、天皇がその導きの灯明となって、 「統制派」
――天皇による統制との意味――と呼ばれた。(92)
 むろん、いずれの派にとっても、天皇の表立った支援を求めることはタブーだった。その代わり、皇道派とその海軍内分派
――艦隊派――は、伝統的武士道を信奉し、武装部隊の数の力を重視するほか、海外では革命派による皇帝制の転覆を、国内では共同組合式の分権的社会主義を、それぞれに忌み嫌った。統制派と海軍航空隊のその追随派は、軍部の機動部隊化を重視し、厳しい軍規そしてファッショ的で中央集権的な国家社会主義を信奉していた。
 1934年3月、裕仁は、いずれのタイプの社会主義が望ましいかについて、皇后良子の年長の従兄弟で、六ヶ月間のヨーロッパ視察旅行中の賀陽親王に、それとなく考えを与えた。賀陽少佐とその妻
――裕仁の母親の姪――は、ほとんどの他のヨーロッパの首都は駆け足でめぐり、その大半の旅程を、ヒットラーのいるベルリンに落ち着いて過ごそうとしていた。そこで夫妻は、ヒットラーとムッソリーニの初期の会談のひとつに接し、賀陽親王は、「二人の英雄が一緒にモーターボートに興じているのを見て、深く感じるものがあった」 と報道陣に語った。(93)


古い話でもないむし返し(94)

 林陸軍大臣がその職務を開始するのとほぼ同時に、憔悴した老西園寺をよそに、その配下にあった民政党議員らは、裕仁の新国家体制のアキレス腱を捜し始めた。そこで彼らは、商工大臣の中島久万吉――大正天皇の寵臣である桂首相の秘書を勤めた皇位の腹心――の内にそれを発見することとなった。民政党は、中島商工大臣が、14世紀に南朝の正統天皇を退けた将軍〔足利尊氏〕をたたえた文書を著したと、告発を開始した。というのは、裕仁は北朝の血を引いており、〔その血族は〕この将軍の後押しがゆえに皇位についたのだが、同将軍を逆賊とみなすことは当時の定着した歴史観であった。その攻撃は裕仁を困惑させ、中島商工大臣の擁護に出ざるを得なくさせた。そこで裕仁は、南朝、北朝も同じ血を引いており、皇位に着くあたってはどちらも同等の継承権を持っていると、宮廷人たちに、また彼らを通して、広く説明した(95)
 裕仁が中島の擁護に取り掛かるやいなや、西園寺の狡猾な政治的陣笠たちは、いっそう効力ある告発に乗り出した。彼らは、中島がある大掛かりな株券詐欺に関わっており、帝国人絹の政府持ち株を操作して、数百万円を稼いだと暴露した。さらにその詐欺は、大正天皇の寵臣であった桂の前妾、「鯉子」の料亭で仕組まれたというのであった。その告発によれば、桂の前秘書の中島商工相ばかりか、桂の実の息子で大兄の一人、陸軍大佐井上三郎侯爵――彼が顔の広い鈴木を裕仁の取り巻きに加えた――関わっていた。こうしたスキャンダルが災いして、中島は1934年4月に商工相を、斉藤は7月に首相を、そして、8月には大兄の井上侯爵もその大佐の地位を辞任するはめとなった。
 中島商工相への攻撃が功をそうしているなかで、老西園寺は出し抜けに上京し、5月9日、幼少の皇太子を遅ればせながら表敬訪問し、かつ、ほとんど二年ぶりに、裕仁との短い会見を持った(96)。その会見は、宮中の人目の多い侍従控え室で、お茶とお菓子を介して行われた。宮廷人たちのあまたの耳がそばだてられ、会話の中身を聞き取ろうとしていた。
  「陛下は、煙草もお酒も召し上がらないですね」 と、84歳の西園寺は、輸入煙草のポールモールに火を着けながら言った。
  「そうです。四歳か五歳の時、お酒で酔っ払ってしまい、それ以来、飲む気には決してなれません」 と、裕仁は返答した。
 西園寺は、 「陛下は、臣民にひと言も発することなく、自然な態度でよい行いを示していらっしゃいます」 と、集まった侍従たちの前でさりげなく言った。 「しかし、それは、国民には機微するぎるものであります。おそらく、陛下の人徳をより広大な形でお示しになった方がよりよいかと存じます。」
 彼らのかたわらに付いていた侍従武官長の本庄は、その日記に、注目させられたままに、西園寺の態度は、「忠誠と尊敬に満ちていた」 と記していた。



第二次海軍内閣

 二週間後の1934年5月23日、西園寺のスパイ秘書の原田は、内大臣秘書で大兄の木戸と食事を共にした。天皇のこの二人の若い側近は、中島のスキャンダルが斉藤首相の立場を弱体化させていたとの見解で一致した。そこで新内閣は、老西園寺の眼鏡にかなったものでなければならぬとされた。原田と木戸は、次期首相の最適候補を、これも海軍大将の岡田啓介――西園寺の長年の友人で、新兵器の開発に長く関わってきた饒舌な元海軍大臣――にすることで同意した。原田と木戸がこう合意して一ヶ月以上も経過した後、斉藤内閣は、帝国絹糸事件の波紋がほとんど全部の大臣におよんで、やむない総辞職に至ることとなった。(97)
 1934年7月4日、内閣が総辞職した時、老西園寺は、すでに大兄たちよりその選任を認めるよう知らされており、次期首班として岡田大将を天皇に奏薦した(98)。スパイ秘書の原田は、唯一の代案は、裕仁の叔父か兄弟に率いられた皇室内閣以外にはないとほのめかしていた。そしてさらに手堅たかったことは、それまでに成された裕仁の手配であった。つまり、裕仁はまず最初、彼の政治顧問である、神経質で穏やかに語る内大臣の牧野を呼び、こう告げていたことだった。 「岡田は自分の閣僚メンバーを示すだろうが、その時にそれについて意見を付けるのは失礼にあたるので、問題になりそうな人たちはあらかじめ排除しておくように留意しなさい。」
 さらにその上で裕仁は、首相を奏薦するために上京するよう西園寺を召喚した。それを伝える西園寺への書信は、鈴木侍従長が自ら運んだ。それに裕仁はこう書いていた。 「西園寺殿、新内閣を準備するに当たって、憲法に従うよう貴殿にお願いする必要はないでしょうが、望ましくない結果を決して招かないように、心しておいていただきたい。」
 西園寺は、その翌日に上京すると、政治状況の一通りの調査を済ませた後、裕仁との五分もかからない堅苦しい謁見を行い、すでに固まっていた閣僚構成を追認することとなった。その後に、一人の友人が西園寺にこう告げた。 「君は、重い手術を避けるが余りに、腫れ物に軟膏を塗ることで済ました。今はそれでよいが、いつかはその腫れ物が破裂するのではないかと心配だ。」 (99)
 岡田内閣が発足するとすぐ、裕仁は新首相に、首相、外務、陸軍、海軍そして大蔵の五閣僚によってすでに7ヶ月前に成されていた決定
――外交で出来る限り早く南方へ進出し、そして、軍部の力を仰ぐ――を追認するよう求めた(100)。そして裕仁は、この再認証を求めつつ、海軍には、追求すべきいくつかの目標を特定し、認めるように要求した。海軍内の北進派、つまり艦隊派は、この南進決定を主要艦船増強と海軍の人員増の要求のための理由に用いた。だが裕仁は、海軍予算は、大型戦艦や多数の水兵服部隊を見せるためより、実際の攻撃力へと完璧に結びつくものであるべき、との意図を明解にしていた。
 海軍軍令部の将校たちは、艦隊派と折り合うために、微妙な立場にあった。というのは、艦隊派は、すでに、裕仁の計画には正確に合致しない建造総トン数を許可していた。裕仁は、ひそかに日本海軍力を構築するために、できる限り国際的海軍力制限を守る積りであった。だが建造中の艦船は、計画通りに1937年中にそのすべてを進水させるのは不可能となっており、1934年末の段階で、――少なくとも合法性を守るためには――1936年以降に海軍力制限を破棄するとの一年前の事前通告を、他の国に発するかどうかの瀬戸際にあった。(101)
 海軍軍令部の将校たちは、東南アジアの資源をねらう南進計画を実行するためは、計画通りの艦船建造が必要であると真面目に信じ込んでいた。それを裕仁は、彼らが北進派である艦隊派に合流し、裕仁へ反目しようとしているのではないかと疑った。そこで彼らは、裕仁の誤解を解くため、それぞれの意見書をつくり、皇后良子の従兄弟である大将伏見親王
――即ち海軍軍令部総長――にそれを託した。1934年7月12日、伏見は、そうした海軍の事情を説明しようと、事前の通知もなく宮中を訪問した。裕仁は、他の問題の考察に専念しており、その訪問でそれが乱されたと受け取った。そこで二人は言い争うこととなった。伏見はその意見書の束を裕仁の机上にたたきつけ、それを読みよく考えよと言い残して宮廷を去った。裕仁は怒って、その意見書の束に目も通さぬまま、侍従武官を使って彼を追わせ、それを付き返えさせた。
 その翌週、裕仁は自分の立場を考察し直し、海軍の侍従武官に逆に聞き返して、自分が誤っていたことに気付いた。7月17日、裕仁は、やや苦痛そうに、 「もし海軍力制限が破棄されねばならないなら、フランスが批判の矢面に立つよう、交渉を持ってゆくというのはいかがなものか」 と、ため息まじりで岡田首相に語った(102)
 その8ヶ月前の1933年11月、裕仁は、1934年の軍縮交渉会議への主席日本代表をあらかじめ選任していた。選ばれたのは、後に大胆不敵な真珠湾攻撃の主役となる、50歳の山本海軍中将だった。山本は、1934年2月以来、来る会議の要所を分析するために専念しており、その交渉では、先の1929年にフーバー大統領との非公式交渉の際に彼が用いた策を、日本の最強の武器とすることとしていた。すなわち、日本の主張として、航空母艦という攻撃的艦船をすべて廃棄する提案をすることで、軍縮交渉の内実を無化させる策だった。つまり、太平洋のアメリカ側半分には、島、つまり 「不動航空母艦」 はほぼ皆無で、〔太平洋の日本側半分には島が多いために、アメリカが航空母艦の全廃を飲めない以上〕、その提案は、アメリカをして、軍縮協定を自ら踏みにじる責任をかぶることを強いるものだった。
 裕仁は、従兄弟の伏見との悶着の9日後の7月21日、報告のために帰国していた駐米日本大使を謁見した。その大使の報告では、米国は、日本の熱望に敵対する法的姿勢をとってはいるが、適切な短期的政治姿勢しだいでは、数年間は対処が可能であった。そこで裕仁が、山本の航空母艦戦略について大使の意見を尋ねると、大使は熱意をこめてそれへの支持を表した。
  

 
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