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第五部

第二十一章
鎮圧(1936)

(その2)


第三日(89)

 決起二日目の2月28日は、再び、曇天だった。侍従武官長の本庄は、午前7時、反乱事件の核心が変化したことを知らされた。すなわち、反乱軍は鎮圧されなければならぬ、というものとなった。ということは、本庄の娘婿、山口一太郎大尉が、いまや明白な反逆者と化した者たちに援助の手を貸したということで、刑務所送りとなることであった。それはまた、本庄自身の長年の忠義の経歴が恥辱にまみれるということでもあった。後に、彼の知人たちが語った話によれば、彼はその日一日で、一挙に、十年以上も年老いたということだった(90)
 午前11時頃、山口は戒厳令本部へ行き、叛乱軍を武力鎮圧する発令に対し、ほとんど一時間もかけて、それに反対する演説を行った。将官たちは、それに完全な同情をもって聞き入ったが、何も発言はしなかった。正午前、戒厳令参謀の石原莞爾大佐――満州作戦を立てた頭脳明晰な〔日蓮宗〕信者で、以来、対中和平を唱導してきた――は、長い会議机の端から立ちあがって言った。 「我々は、出来る限り速やかに、鎮圧せねばならぬ」(91)。 そして彼は部屋を出て、外の使いに、発令書を配達するよう命じた。
 第一および近衛師団は、一団となって鎮圧にあたり、叛乱軍のバリケードを爆破する計画に入った。叛乱軍士官は、 「降伏せよ、さもなくば鎮圧される」 とのラジオ放送を聞いた。それに対し、叛乱軍は、 「皇意を過させる機関説論者によって成された命令には従えぬ」 と返答した(92)
 この段階では、秩父親王の伝言が野中大尉に伝えられ、また、山下少将が妥協に持ちこむ最終案を持っていたため、包囲する鎮圧軍には、 「待機」 と命令されていた。バリケード内での交渉の後、山下は川島陸相を伴って、午後一時、宮中の侍従武官室に戻った。そして山下は本庄侍従武官長に、叛乱軍士官からの誓約――それが作法に則ったものであると天皇に伝える勅使の立会のもとで、全員が自決する――を伝えた。本庄は直ちにその提案を裕仁に報告した。
  「もし彼らが自殺したいのなら、勝手にさせなさい。そうした物たちに宮廷から立会人を送るのは、ともあれ、ありえないこと」、と裕仁は言った。
 本庄は、自分の娘婿が士官を勤める第一師団は、以前の同僚に対して行動をしかけるのを嫌がっています、と哀れっぽく訴えた。
 裕仁は声に鋭利さを込めて言った。 「もし第一師団の司令官が有効に行動できると考えないのなら、彼は自分の責任が何かが解っていないことだ」。
 本庄は 「陛下に、そのような厳しさと怒りを見たのはかってなかった」 と目を見張らされていた。陸軍の指導者たちは、自決提案への裕仁の拒絶に唖然とさせられていた。娘婿の山口は、悲嘆と不可解の中で本庄に電話し、再度、天皇に働きかけてもらうよう懇願した。本庄は山口に、天皇はすでにいかなる曖昧さも含まない決断をし、さらに表すものは何もないだろう、と説明した。それでも、なおも働きかけを求める娘婿に、本庄は、悲しげにその電話を切った。(93)
 午後3時、無頓着な参謀次長の杉山――その表情は 「まるで湯殿の扉のようにぼやけていて」 ――は、裕仁に謁見を求め、さらなる説明を願い出た。誤解があると彼は言い、叛乱者は、自分たちの自決に勅使の立会いを求めているのではない。ただ、ある家臣が、彼らの遺体を見届け、陛下に、決まり正しく腹切りの儀式を果たしているかを報告してほしいのみである。裕仁は、怒りを再燃させて、その新たな面子作り措置を見捨てた。この報が知らされた時、叛乱軍のある士官は、 「しかし、飛行機事故ですら、陛下には報告されるだろうに」、と嘆きながら言った。
 杉山参謀次長が天皇のもとに戻り、ほぼ一時間を要して、天皇をもっと慈悲深くさせようと、あらゆる手練手管の努力を行った。そして最後には、廊下に身を横たえ、天皇に、自分を踏みつけてもらいたいとすら訴えた。天皇はただ、彼をまたいで通り過ぎ、隣室で待ちうけている次の用件に取り掛かった。午後4時30分、結局、杉山と戒厳令軍
# 5司令官、香椎浩平〔かしい こうへい〕中将は、その日の鎮圧行動はすでに遅すぎ、翌朝、一番に第一行動がとられると天皇に確約した。だが裕仁はそれを素っ気なく却下し、本庄侍従武官長を呼び、陸軍指導層のおしなべての不服従を非難した。
 裕仁は、 「陸軍は天皇に属すという話もあるが、陸軍は事件の重要さを意図的に回避しているとの話もある」、と言った。
 それに本庄は、 「軍事政府を樹立しようとの意図のもとで、目下、陸軍は陛下のご意思に従うことを回避していると、この数時間、人々は申しております。こうした声は天皇の陸軍を極めて侮辱し、事件を速やかかつ平和裏に解決しようとしている陸軍の真摯な努力を無視するものです」 と返答した。本庄は後に、日記に次のように記している。
 本庄は、軍事問題に関し、すべての天皇の見解に成り代わる公的責任を負う立場にあった。過去において、この両者の間に見解の違いがあった時、裕仁がその老将をなだめたり、自分が譲歩したりしてその違いを埋めてきた。だが今や、裕仁は特別に、その本庄をそうした責任から解き、〔軍事参議院にのぞみ〕その彼の異論を公式記録に残させようと求めていた。そして同時に裕仁は、本庄に厚く信頼をおいており、腹心としての任務から解こうとしていたのであった。
 59歳の荒木、60歳の本庄の二人の大将は、たがいに物悲しく見つめ合った。二人は、1989年に陸軍士官学校を卒業した同期生であり、それ以来、参謀本部において、さまざまの任務を共に果たしてきていた。二人は、過去において裕仁が、異なる意見の助言者の間から選んできたのを知っていた。また二人は、裕仁が、自分が欲する行動を提案している助言者を見つけるために、自分の道を外すことも知っていた。しかし裕仁は、それまでに決して、軍事参議院の助言を無視したことはなかった。だが今や、その35歳の現人神は、菊の御簾の内から出現し、専制的責任の全てを負おうとしていた。その二人の年長の大将は、互いに軽く礼をした後、その皇意に頭を下げた。その後、陸軍のすべての長老は、あたかも自らの責任はないかのように行動し、ただ、他の者に追随するようになった。それは歴史的瞬間であり、その二人の大将は、まゆをわずかに動かす以上の食い違いもなく、それを認めたのであった。
 軍事参議院は、裕仁を危険な地位にさらすことから予防するための一つの努力を行った。午後7時30分、一組の代表団――荒木陸相、前陸相の林大将、そして参謀次長の杉山中将ら――は、小田原からの列車で着いた閑院親王と会い、裕仁の考えを変えるよう彼に説得してもらおうと試みた。閑院親王はそれを断り、自邸へと引き上げていった。陸軍長老からなる代表団は戒厳令本部へおもむき、そこで将校との会議を開き、状況を説明し、 「陸軍の軍紀を破壊する武力制圧は、いかなる犠牲を払ってでも避けねばならない」 という意見を共有することに努めた。
 戒厳令軍参謀、石原莞爾大佐――満州作戦立案者――は、正午以降、自分の発した命令が遮られていることを見ていた。その意図は理解されておらず、石原はそこで立ち上って、その代表団を率いる荒木大将を凝視し、そして言い放った。「これは統帥権の干犯である。貴殿の名前と階級を名乗られたい。」
  「貴様は私が荒木大将とよく心得ておろう。貴様は上官に無礼を働こうとするのか。口を慎め。」
 それに石原は、 「できませぬ。皇軍を皇位に対して用いることは、断じて許さざることであり、常識を越え、軍紀どころの問題ではありません。貴殿は自ら大将と称されるが、日本にそうした愚かな大将がおられるとは、信じがたい」、と応じた。(94)
 この信義厚い憤激の表出がゆえ、石原は、数ヶ月後の大粛軍において、陸軍内に留まり得た。その後石原は、 「最後の北進論者」 と認識されるようになった。彼がつかつかと指令室から出て行った後、荒木やその他の大将たちは、翌朝に計画されている鎮圧行動を阻止する何の手だてもなかった。しかし、彼らは香椎戒厳令司令官に、武力によらず、叛乱軍を出来る限り説得するようにと説いた。その夜を通じ、ラジオ放送や叛乱軍の周囲を走るトラックが、 「降伏か、さもなくば鎮圧化」 と繰り返した。上空を飛ぶ爆撃機からは、下士官や兵卒は恩赦されると書いたビラが投下された。夜明けには、叛乱軍に、妻や子供たちのために降伏せよ、と示したアドバルーンが上げられた。
 その夜、山口大佐――本庄侍従武官長の娘婿――は、憲兵により大逆罪の嫌疑で逮捕された。


裕仁による解決 (95)

 翌2月29日、蹶起3日目の朝、第一師団の部隊は、叛乱軍の境界線の無防備な部分を通って移動し、予想される戦闘地区から民間人を非難させ始めた。また、叛乱軍側は、しだいに占拠地区の主要拠点へと集結した。午前9時、香椎〔かしい〕戒厳令司令官は、ラジオを通じて国民にこう通告した。 「若手士官たちは遂に、叛乱者と見なされる事態に至った」。午前10時、部隊と鉄条網によって彼らは閉じ込められ、動揺した叛乱軍兵卒が、二人、三人と、彼らの占拠地点の回りの雪の積もった芝生や広場を横切り、脱出を始めた。正午、秩父親王の友人の野中大尉は自殺した(96)。2時過ぎ、すべての部隊が降伏し、憲兵隊によって拘留された。
 裕仁は、最後の最後まで、疑念を頑固にも解こうとはしなかった。朝8時30分、陸軍の行動開始が最初に明らかになった時、内大臣の木戸は、裕仁に、 「新内閣を指名して、国民を安心させては」 と助言した。だが裕仁は、 「制圧が完了するまで待ちたい」 と返答した。そして、制圧が終わった時、彼はそれでも満足していなかった。午後2時、彼は、興津に公式の使者を出すのではなく、電話でもって、西園寺親王に従来の要請――上京して首相を奏薦――を行った。腰痛を理由に、西園寺は、上京するまでに少しの時間が欲しいと返答した。午後4時、裕仁は西園寺に再び連絡し、組閣は緊急に必要で、出来るだけ早く上京するようにと告げた。
 西園寺が気持ちを整理している間に、一日が過ぎて3月1日を迎えた。この日は日曜で、東京はこの日曜ばかりは、、西洋伝来の休日を楽しんだのみならず、本当に疲労回復と休養の一日となっていた。だが、裕仁は例外だった。彼は朝早くに起床し、軍服を着け、夕方遅くまで机に向かっていた(97)。それは、その先の数週間に自分に課すつもりの日課だった。彼は毎日一時間の運動を断念し、3月18日には、主要家臣の代表がやってきて、掛け替えのない身体に配慮するように懇願しても、なおも格別な注意は払わなかった。裕仁は、最後の兵が降伏するまで容赦なく攻め立てない限り勝利は危うい、という軍事的金言をそのまま実行していた。
 3月2日、老公西園寺が東京に到着した時、裕仁の大兄たちが整えていた段取りは、ジュリアス・シーザーよろしく、彼らの指導者、近衛親王に、最初は首相の座、次に内大臣の座への就任を、それぞれ拒否するよう準備したものであった。それは、いざ中国との戦争が開始された時、その首相を近衛にする準備としての、手の込んだ芝居だった。近衛はそれまでいかなる公職にも着いたことはなく、ただ貴族院の指導者としてのみ知られていた。つまり国民には、彼が首相にふさわしい器であるとの考えが浸透する必要があった。そして、従順な人々は彼を受け入れたかも知れなかったが、陸軍が厳しい粛軍に面している時、彼はそれを受諾するわけにはいかなかった。だが、このことは、戦争中、彼の陸軍に対する指導性を弱めることにもなった。
 西園寺は、近衛の首相受入れの不誠実を明らかにさせようと努めた。近衛が各方面の有力政治家から推されているのを知って、西園寺は近衛と会い、彼がその気でないことを知った。新聞報道では、近衛の奥ゆかしさと称賛されたが、西園寺は近衛の辞退をよそに、それでも公式に彼を天皇に推薦した。裕仁は自ら、近衛の健康が充分でないとして拒否することで、前例をくつがえした。だが西園寺は、なおも自分の推薦を繰り返して主張したため、裕仁は慣行上やむをえず、3月4日、近衛を呼んで組閣を求めた。
 天皇との謁見を終えた近衛は、内大臣秘書の木戸に、 「まったく困っている」 と打ち明けた。一晩たった翌日、近衛は西園寺に再び会い、容赦を求めた。彼はその時、自分の医者の診断書を持参していた。それは、少なくともあと三ヶ月、その健康は職務を成し遂げ得るものではない、と述べていた。三ヶ月後とは、陸軍の粛正が完了する時だった。
 そこで西園寺は、近衛はこの危機の時にあっても、政府を引き受けるという天皇の命に従うことを拒否したと公表し、自分を後継する血縁者の経歴を台無しにすることも、不可能ではなかった。だが、長い議論の後、そうする代りに、西園寺は態度を和らげた。彼は、国のためとはいえ、自らの健康を犠牲にできない大政治家の苦しい立場を見たと、新聞記者に語った。そうする一方で、彼は謁見室に戻り、実に困惑させられることですが、自分の推薦を変えなければならないと報告した。そうして今度は、裕仁の側近集団のより下位の中年者、広田弘毅外務大臣を推薦した
# 6
 広田は、3月5日、裕仁より内閣を組閣するよう命じられたが、3月9日になるまでその職は与えられなかった。というのは、その4日間、軍および政界は、内閣の政治、人事の両面について、それぞれに無理な要求を突き付けていたからだった# 7。「広田の困難」、「政府を組めない日本」と、新聞の見出しを埋めている間に、裕仁は自らの強固な外交諸政策を押し通した。
 3月4日、裕仁臨席のもとでの枢密院は、叛乱軍の若手士官を非公開の軍法会議にかけることと決めた。ということは、その上告はできず、その刑の執行も直ちになされるということを意味していた。3月2日、陸軍の各大将は、 「最近の許し難い事件」 の遺憾の意を皇位に表わすため、その全員が職を辞任した。3月6日、裕仁はその大量辞任を受入れた。それは、単なる形だけのものではなく、4月23日付をもって実行されるものであった。さらに、裕仁は三名の軍規上の例外を残すという規定上のきまぐれを認めた。すなわち、粛軍派指導者、寺内大将とその同僚である西大将および植田大将は辞任しなかった。その寺内は陸相となり、西は教育総監に、そして植田は関東軍司令官となった。
 宮廷の廊下を満たした抗議の声と小走りする足音が静まった時、自身の義務的退職を前に面子を失った苦痛な二週間を待たされていた侍従武官長の本庄は、その例外は 「天皇の大権の行使」 とその日記に記している。同様な流れで、3月9日、裕仁は、軍事参議院と陸軍最高司令官のメンバー、閑院元帥、朝香中将、東久邇中将は辞職する必要がないとの措置をとった。
 3月9日、広田内閣がようやくに組織を固め、機能を成し始めた時、裕仁は国威の統一に専念し、朝から真夜中まで、反対派に対し、非機関説に立った教育をほどこした。そして彼は、国事文書の公式署名を、 「大日本帝国大権」 から 「大日本帝国神聖天皇」 へと改めた
# 8。彼は、その叛乱に加担した4連隊の廃止を考えていたが、天皇への忠誠に対する雅量を見せるため、連隊旗を残し、一部の部隊を維持することは認めた。
 それと同時に、裕仁は、国防のための新たな徴兵計画を案として承認した。それは、四つの部門からなるもので、その国防体制下にはさまざまな部署が設けられていた。その四部門とは、① 「憲法条項に従い」 国会に図られる財務部門、②内閣に報告される戦略と総合計画部門、③首相に報告される動員および人事部門、そして④天皇と少数の参謀将官のみが関与する詳細作戦部門であった。そしてこの1936年3月に組織された専門部署のひとつが、北京近郊での夜間作戦計画で、これは中国との全面戦争への口火となるもので、また16ヶ月後には実際にそうなった計画であった。
 この新国防計画の発足は、対中国戦に備えるというより、国の総合的戦力を構築するために寄与するものだった。日本は、中国戦に勝たねばならないだけでなく、西洋諸国からの介入を阻止せねばならなかった。広田内閣は、すでにその当時 「準戦時経済」 として知られた統制計画を打ち立てていた。そして軍事支出はその後の12ヶ月間に三倍以上に膨れ上がった。赤字予算――叛乱で暗殺された賢明蔵相、高橋によって最低限に抑えられてきた――は、いまや時代の要請となっていた。工場の生産割り当てから為替交換まで、経済のあらゆる部門は、安易なお金の増刷と政府の厳しい統制に隷属するものとなった。
 これと同時に、陸軍の規模を17師団から24師団へと拡大するため、詳細な秘密措置がこうじられた。新設された7師団は、予備役から徴用された。対中国戦が開始される先立つ数週間のうちに、余りに手際よく、供給物資、将校、そして再訓練施設が用意されたので、そうした新師団は、一夜にして戦闘準備を整えることができた。こうして、もし公式記録をそのままに信用するならば、第114師団は1937年10月に創設され、ひと月も経たないうちに、中国内にあって、南京にむけて進軍していた。(98)
 陸軍の総体規模の41パーセントにもなるこの劇的な拡大が計画されている間、叛乱に憤慨していた裕仁は、それを指揮した士官の容赦のない粛清を命令し、それにより、その後の二年間、訓練将校に深刻な不足をもたらすほどであった。だが、その粛軍の必要に疑いはなく、また、3月3日の閑院親王と西園寺のスパイ秘書原田との会話に如実に語られているように、 「過日の暴動に喚起されなければ進められなかったように――即ち、それが誰であれ、自らの内の臭いものにはふたをせよとの傾向の除去について――、我々には、陸軍の粛清を、容赦無き水準まで、徹底して成し遂げることが求められている。」(99)
 大掃除という誰も嫌がる仕事を担ったのは、粛軍派の寺内新陸軍大臣であった。1936年の3月から8月の間に、陸軍の八千人余りの士官のうち、二千人をお払い箱にした(100)。北進派の拠点部隊とともに、陸軍の戦略的頭脳の優秀な半数が、ほぼ一掃された。この粛清は軍の上層部にもっとも打撃を与えたが、その見返りに、新しく若い人材に昇進の道を開く結果となった。
 この天皇の専制的対処の後に不可避的に噴き出した憤慨や新たな政軍連携に対して、大兄たちの11人クラブはひとつの策を編み出した。それは、裕仁がふさわしいと判断できない内閣には彼が拒否権を持ち、また、その件に一切の形跡も残さないでそれが秘密のうちになされるというものだった。どの内閣も、陸軍および海軍大臣を含めなければならなかった。1913年に改定された法律は、現役および予備役の陸・海両軍大将の中から、その両大臣を選ぶことができた。ところが、現役将校のみが天皇の命令による拘束をうけたので、理論的には、西園寺が推薦する首相候補者には、天皇の許可を受けなくとも、閣僚大臣の一人を指名することができた。天皇は、当然に、そうした内閣の承認を拒否することはできたが、それは儀礼慣行にそうものではなく、彼の偏狭性を見せることにもなりかねなかった。5月初め、枢密院は、天皇臨席のもとで、陸海軍大臣は現役軍人のみに限るという法律改正を広田内閣に推奨した。内閣はその改正に同意し、裕仁は直ちにそれに署名して改正法が成立した。5月18日、その改正は既成事実となり、ただそれがいつ発効するかのみが報道界と世間に知らされた。裕仁と宮廷内部集団は、その発効日議論を、望ましくない内閣の組閣を阻止したり、独自に
〔宮廷の意にそわない〕目的を進める内閣をつまづかせるための常套手段とした。かくして 「軍」 という正体不明の怪物が跋扈をはじめ、恐怖をいだき、敬虔で、タブーを避ける国民は、そうした――叛乱以降、裕仁が名実ともに軍の最高司令官となった――現実にしだいに無知であるようになった。# 9
 そうした重大な改変が日本の構造に加えられている一方、2・26事件の主唱者たちは、沈黙のうちに姿を消しつつあった。本庄侍従武官長は、最初、寺内陸相によってその職にとどまるよう勧められていた。3月8日、陸相は本庄に、 「私こそ、多くの問題をかかえる地位におります。どうか辞職はなさらんでもらいたい」 と留意を勧めた。
 しかし3月16日、本庄は日記にこう記している。 「寺内が来て、娘婿の山口の罪状についての詳しい情報をくれ、心配していると言ってくれた。・・・その日、山口の家族が私の家に引っ越してきた。彼らの家具は、山口の実家にあずけた。娘とその子供たちを私のところで暮らさせたい、というのがその実家からの要望だった。」
 翌日の3月17日、本庄は皇位に自分の辞任の意志を伝えた。 「陛下は 『どの程度、そちの家族は関与したのか』と聞かれた。私は、 『どの程度は存じませぬが、目下お状況において、優先事項は陸軍の粛正であり、もし事例を示さねばないらならば、辞任する責任を感じます』とお答えした。陛下は、 『それはそうであろう。よく考えておく』 と答えられた。」
 3月28日までに、その辞任は受理された。本庄には、お金、美術品、自身の机上の一対の文珍などが贈られた。 「これらを貴殿に贈りたい。私が長く使ったものなので」 と天皇は言った。皇太后は、プラチナのカフスボタン、鮮魚、そして、彼女がこしらえたお餅を贈った。4月22日、本庄は、南大将――満州事変時、本庄が仕えた陸相――と伴に、予備軍に着くことを命じられた。
  「愛着の情を禁じえない」 と彼は記した。
 他の被疑者は、はるかに厳しく扱われた。無骨だが誠実な北進派の二番手指導者の真崎大将は、一年半にわたり、憲兵によって拘束された。1936年の最後の週、あくまでも罪状を認めぬ彼は、一ヶ月のハンストを行い、その最後には、水さえ拒否した(101)。病院に担ぎ込まれ、薬品の効果で健康を回復させられた彼は、結局、友人の荒木大将――北進派の一番の指導者――が 「歴史上もっとも長文の法文書」 と言う判決をもって、無罪放免となった。その文書は、真崎の大逆罪へのすべての関わりを克明に指摘し、取って付けたような主文により、無罪を判決していた。彼の赦免は、近衛親王の努力――分派主義の傷を癒し、戦争に備える国民的一致を作ろうとする――が大きく寄与していた(102)
 山下少将――宮廷のために北進派の兵卒をスパイし、若手士官の叛乱にはどっちつかずの態度を示した――は、朝鮮軍の旅団司令官に再任命された。それまでの数ヶ月間、彼は、宮廷からの指示を余りに広く解釈し、叛乱を煽り過ぎたためにその沈静化を難しくさせてしまったのではないかと案じていた。彼の妻によれば、彼は落胆し、民間の仕事を探し始めていたという。そして1936年12月、彼の宮廷での接点であった元侍従武官の川岸文三郎が、彼の上司の司令官として朝鮮に赴任してきた。川岸はその際、天皇からの感謝と激励の文書を持参していた。それを読んだ後、山下は大いに元気付けられた。そして彼はしだいに裕仁からの信頼を得るようになり、1942年には、帝国のためにマレーを征服することとなる。(103)
 叛乱に加わった若手士官は、銃殺刑に処せられた。相沢中佐――一番烏永田を暗殺した――は、叛乱後は閉廷されていた軍法会議に戻され、5月7日、死刑の判決が下り、6月3日、執行された。9日後、生き残っていた叛乱軍の19人の士官のうちの13人が、相沢に続いて銃殺された。彼らは全員、法廷でその意志と意義の申し立てをしたいと希望していた。だが彼らは、開廷の一時間前、軍法会議法務士官より、それが完全非公開で開かれるのを知らされた(104)
 彼らのほとんどは、その死の直前、天皇に 「万歳」 ――天皇の永久の命を祈る――を献上した。うち何人かは、失望させられた友人、秩父親王に、せせら笑う万歳を加えた。 「自分の遺体は貴殿にお任せします」 と言い残した者もいた。ある一人は、 「自分はそうした特権階級者らの深い反省を願う」 と叫んだ。別の者は、もの静かにこう言い残した、 「天国行きを前に、皆が天皇陛下のために万歳を唱している。ゆえに自分も、天皇陛下万歳、皇国万歳を繰り返します。」 (105)
 また、他の者は、陸軍に関するいっそう困難なメッセージを発しようと試みた。 「日本人が皇軍への絶対的信頼をおこうとすればするほど、その信頼は裏切られる。ロシアは中央アジアでは無敵であり、それが日本に破壊をもたらすのだ」。北進派は、その東端のウラジオストックへのみ、ロシア攻撃を考えていた。 中国の主要都市と農業生産地帯の掌握の後、裕仁がモンゴル砂漠を横切って、ロシアの脇腹、中央アジアに攻撃をしかけるべきだった。だがそれは、試みないで終わろうとしていた。
 2・26事件に関わった民間人が銃殺刑に処された時、北一輝――北進派の老練理論家――は、その居並ぶ銃口を見下して言った。 「座らなければならんのか、それともこのままで構わんのか」。そこで銃殺班が座らそうとすると、彼は叫んだ。 「座らせたいのか。キリストや佐倉宗吾(1645年に磔刑にされた義民)のようには、立たせておくわけにはいかんのだな」。 だが、彼のこの皮肉に耳を貸す者はおらず、1937年8月19日、報道陣に注目されることもなく、彼の処刑は実行された。それまで、日本人は彼の苦難の運命論の精神を共有していた。それまで、日本人は自らを、隊列を組んで前進させてきた。そしてかくして、日本人は、中国との戦争開始を、あと一ヶ月後に迫らせていた。


 
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