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第二十二章
対ソ中立化工作 (1936-1939)
(その2)



日本の忠義なユダ達

 無線機を富士山麓の湖底に沈めてから三ヶ月後、ロシアのスパイ団は、今度は、カリフォルニア州のヨセミテ国立公園内のマースド川の風光明媚な第二の水域の畔で、さらに安全な位置を発見することとなった。というのは、そこで、1936年8月15日から29日まで、太平洋問題調査会――アメリカの慈善団体が後援する組織――が主催して、日中間の問題をつっこんで議論する学術的会議がもたれたからだった。その会議への日本代表は、日本の隠れたスパイ機関の所長である坂西利八郎予備役中将で、彼は、1932年の三件の政治的暗殺の直前、裕仁と協議した人物である。(13)
 坂西は、世界に向けて日本のもっとも自由主義的一面を示すために選ばれた、人受けのよい知識人の一群を配下に置いていた。その知識人のうちの一人が、首相奏薦人の孫、西園寺公一
〔きんかず〕、三十歳で、大兄の木戸侯爵は学習院での1933年の赤騒動以来、あらゆる共産党問題に関しては、常に彼に相談をもちかけていた(14)。その西園寺が、新たな友人として面倒をみていたのが、三十五歳の尾崎秀実 〔ほつみ〕 で、彼は、1930年以来ゾルゲが開拓してきた二人の日本人左翼を率いていた。尾崎は、後の1944年に東京で、売国奴の罪で憲兵によって絞首刑に処されるが、見識ある貴族階級の間では、彼はその当時の秀でた愛国者の一人と受け止められていた。(15)
 尾崎は、裕仁に一年遅れる1901年5月1日、台湾にある南進論をかかげる日本人急進派の一風変わった商館で生まれた。この商館は、大正天皇時代の首相、桂太郎と、木戸侯爵の義父で明治の権力者の一人、児玉源太郎によって創設されたものであった。そうした人物たちの後だてをえて、一文無しのジャーナリストである尾崎の父親でも、彼を日本本土の最高の教育を受けさせることができた。その彼は、現地の南進論者の子供たちから選ばれた26人のために設けられた台北の予備校で学び、日本のハーバードである東京帝国大学への進学率の高さを誇る、東京の第一高等学校に進学した。
 尾崎は、18歳で東京帝大に入学し、ドイツ語を専攻した。そこでの二人の親友が、牛場友彦――後に近衛親王の秘書となる――と、松本重治
〔しげはる〕 ――後にやはり近衛の 「私設顧問団」# 1の一員になる――だった。彼ら三人は、東亜同文会の創設者、近衛親王の父親 〔近衛篤麿〕 の庇護を受けていることで知られていた。(16)
 尾崎は卒業後、心理学と社会学をさらに一年専攻し、その費用は、台湾での古い友人で、有力な医療官僚の後藤新平――1891年、日清戦争計画への批判者を毒殺することを自ら明治天皇に進言した――が負担した。(17)
 学研生活にできる限りとどまった後、尾崎は25歳で東京の大手日刊紙、朝日新聞社に入り、2年間、ジャーナリストとしての腕を磨いた。そこで彼は自ら、文筆家としては難解で、記者としては甘さがあることを自覚し、一時、週刊朝日に随筆を書いた後、1928年、上海へと海外派遣された。その地で彼は、ジャーナリストとしてではなく、多くの国のマルクス主義者を友人として獲得することとなった。そして自らもマルクスを読み、弁証法についての専門用語を学び始めた。(18)
 1929年、尾崎は、アグネス・スメドレイという、ミズリー州出身の過激で男のような政治的異端者と知り合いになった。彼女もジャーナリストだった。彼女は、虐げられた東洋の味方となることを、自らの任務としていた。1920年代の8年間は、彼女はベルリンでインド人革命家と同棲していた。だがいま、彼女は尾崎をアジアの民族主義者のアジトへと引き入れ、彼女の吹聴によれば、彼を愛人としていた。
 1930年、アグネス・スメドレイは尾崎に、ジョンソンという名のアメリカ人シンパを紹介した(19)。彼とは実はリヒャルト・ゾルゲで、後に尾崎のスパイ活動の首領となる。尾崎と 「ジョンソン」 はたちどころに親近感を抱いて強固な知的交友関係を結び、相互のイデオロギーをしのぐほどのものとなった。物腰柔らかで、社交性に長け、かつ口の堅い両者の種々の証拠から判断すれば、ゾルゲはロシアを、あらゆる人々に平等と平和をもたらす世界的組織の発祥の地、と確信していた。また尾崎は、より偏狭だったが、同じくイデオロギー的で、日本こそが全アジアを、その貧困と西洋の搾取への隷属から救い出す解放者、であると信じていた。彼はロシアのみが、同盟国となりうる西洋諸国の中の最善のものとみなし、共産主義を、日本において数世紀にわたって唱導されてきた聖なる皇国思想と共通するものがある、共同体思想と見ていた。(20)
 ゾルゲも尾崎も、いずれも互いの個人的生活や思想を詮索したりはしなかったが、二人は、14年後、東京思想警察署の独房にあって、信頼できる友人同士のまま、共に死ぬ運命にあった。彼らの友情の最初の6年間、尾崎はゾルゲを 「ジョンソン」 としてのみ知っており、彼の命令がロシアの赤軍から出たものかどうか、あるいは、コミンテルンという国際社会主義組織の指導部からでたものか、決して知ろうとはしなかった。一方、ゾルゲは、なぜ尾崎が社会主義者であるのかとか、命令を自国政府の実在する諜報員から受け取っているのかどうかとかは、決して聞かなかった。(21)
 1932年2月、上海のソ連の諜報組織が動き始めた時、尾崎は自分の新聞社、朝日より日本に呼び戻された。それは、ゾルゲが日本に到着してから19ヶ月後のことだった。そして1934年の春、ゾルゲは米国籍沖縄人の仲介者を尾崎のところに送り、八世紀の日本の首都、奈良――京都から25マイル
〔40km〕 南に位置する――にある古い寺院の庭で、密かに会いたいと伝えた(22)。尾崎はその要請を了承し、邦文書の読書家であり、頭角を現わしつつあるジャーナリストとして得られる情報をゾルゲに提供することを、彼自身の言う 「二つ返事で同意」した。その後二年間、ゾルゲが運び人を通じて上海経由で密輸出した報告は、ほぼその全体が尾崎のジャーナリストとしての見識にもとづいていた。文筆家としてのゾルゲの能力がゆえ、赤軍の第四部を満足させたが、秘密のベールをあばいたものは少なかった。1936年の2・26事件についてのゾルゲ報告は、たとえば、事件に関する派閥、動機、そして宮廷の高度な関与の秘密については、いかにも無知を見せていた。(23)
 尾崎は2・26事件について、川合貞吉が――この先でゾルゲ諜報団に加わることとなる上海時代の友人で左派の一員――その事件の準備にかかわっていただけに、はるかに仔細に言及することができた可能性はある。川合は1932年、上海にゆき、1933年には、上海から、中国共産主義組織に浸透をはかるために北中国の天津に移っていた。彼は天津で、日本の諜報機関の道向かいに宿をとっていたが、彼の活動結果から判断して、彼が中国人共産主義者のために日本人の組織に浸透しようとしていたのか、あるいは、中国共産党組織のための諜報活動をしようとしていたのかどうかは計りがたい。1935年、彼は日本にもどり、藤田勇――1928年の張作霖の暗殺、1931年の三月事件、1931年の満州の奉天の占拠にかかわった日本の諜報機関員――の家に寄宿した。1935年中、川合は、2・26事件に加わってゆく若い観念的国家改造主義者と親しくなることで、藤田に協力した。ゾルゲが2・26事件についての報告――ロシアやドイツの諜報機関やヨーロッパの諸新聞が賞賛した――をまとめた際、尾崎は彼にその複雑な背景についての情報提供をしてはいなかった。(24)
 1936年の2・26事件の後、尾崎の日本内での地位がたちどころに上昇する結果となった。というのは、近衛親王の父の仲間らとの長らくの関係やら、中国や中国人についての彼の知識がゆえに、裕仁の中国に対する軍事的野心を合理的かつ冷静に進行させようと望む、近衛親王を取り巻く若手のグループから注目されるようになったからであった。その初めは、尾崎が、朝日新聞が設立した中国問題委員会の委員に任命されたことで、さらに彼は、西園寺公一と諜報機関の長である坂西中将とともに、中国における日本の地位についての意味を世界に示すヨセミテ会議に派遣されたことだった。(25)
 ヨセミテでは、尾崎は、中国における日本の動きを巧みに弁論し、日本の右派における彼の評判を大いに高めることとなった。ヨセミテ会議の後、彼は、裕仁の大兄たちによる11人倶楽部と同時に、ゾルゲ諜報団の正式の工作員として、取り上げられるようになった。1936年9月、東京の帝国ホテル――フランク・ルロイド・ライト設計のアズテック・ゴシック様式の建物――で催された、ヨセミテ会議からの帰国報告会の席上、尾崎は、 「ジョンソン」 を改めて紹介され、その尾崎の 「アメリカ人」 の旧友が、実は、その名をゾルゲというドイツ人であったと告げられた(26)。その二ヶ月後、尾崎は昭和研究所の設立メンバーの一人となった。この研究所は、近衛親王が必要な場合に用いるための政策文書やスローガンを事前に作成しておくために設立されたもので、その予期の通り、近衛は、1937年に首相に就任したのであった(27)
 その後、多くの著述家が記述しているように、尾崎は、ソ連の諜報員であるゾルゲのために、日本政府の情報の高レベルの提供者として働いた。しかし、西洋の研究者たちは、特定の日記や回顧録の完全な内容の閲覧が不可能なため、その後の三年間、日ソ間の危機がおころうとも、裕仁の重鎮、大兄の木戸侯爵が、欠かすことなく西園寺公一に相談を持ち掛けていたとうことに、関心を払うことがなかった。西園寺公一はそうした相談に対し、彼の尾崎に対する、そして、尾崎のゾルゲに対する印象を告げた。こうした情報網を通じ、裕仁は、疑い深いジョセフ・スターリンの疑念を晴らし、日本がソ連との戦争を避けうるよう、ゾルゲ諜報団を繰り返し利用したのであった。(28)



内蒙古
(29)

 尾崎という、ロシアとの新たな回路が裕仁の陣容に加わった時、満州の関東軍は、シベリアの南境界に沿う内蒙古への探りを入れ始めた。
 1936年11月、偵察機の翼にみぞれが降り注ぎ、ことに低空飛行をする時は、危険なほどたどたどしい飛行だった。田中隆吉中佐――日本人女性スパイ、東洋の宝石を情婦としていた――は、中国服を着て民間人を装い、自分の大きな膝を神経質そうにかかえながら、操縦室の窓から眼下の雪に覆われた平原をみていた。田中は平原に広がるそうした斑点を屈辱感をもって見やっていた。それらの斑点は、9日前の11月10日では、彼の命令で始めた侵攻にあたっている蒙古騎馬隊であった。だがいまや、その侵攻は成功せず、そうした騎馬隊は東にむけ、満州国の端の日本軍支配区域へと後退を始めていた。それまでの一週間、田中は、他の偵察機と無線連絡をとりながら、時には竹筒に入れた命令を落とすために急降下し、空からその作戦を指揮していた。
 そうした日本の装備や命令にもかかわらず、蒙古の騎馬隊は使命を果たせなかった。すなわち、内蒙古を中国から切り離し、再度、タタールの独立国家を設立しようとの試みは失敗していた。彼らは、百霊廟で、以前の満州軍閥の張学良の率いる国民党軍を相手に一週間にわたって戦ったが、敗北した。田中中佐は、地上の撤退部隊と苦難を共にするのではなく、奉天に飛行機で戻れとの命令を受けていたため、内心、苦悶していた。関東軍の同僚将校たちは、彼をあざ笑うかも知れなかった。東洋の宝石は落胆、立腹し、彼を見下すかも知れなかった
# 2最悪な場合、彼が蒙古人における面目を失ってしまうことであった。何年間もの苦労が、大草原の彼方に消え去ろうとしていた。これも、勇敢ながら規律のない蒙古騎兵を支援する日本正規軍の数大隊を欠いていたためだった
 蒙古王子の卓――東洋の真珠の血縁者――は、1933年3月、田中に協力することに同意していた。それ以来、百霊廟において、卓王子は日本と結託して、密かに蒙古政府を代表していた。そして次第に、彼は内蒙古の77を数える部族や 「旗印」 のうち、59からの忠誠を得るようになっていた。1936年1月、関東軍の陰謀課――西洋の研究者の多くは、婉曲的に戦略企画課と訳している――は、田中に、内蒙古のすべてを卓王子の配下に入れるように指示した。裕仁や東京の参謀本部も、ひとつの条件のもとに、即座にそれを承認した。その条件とは、数百万円以上の費用をかけない限り、というものであった。
 東京の目で見れば、中国の北で横に広がる独立した蒙古国は、いかにも有用なものと見られた。それは、ロシアから中国へと至る、古代からの通商路を遮断するもので、南京の国民党中央政府に対して、日本が計画している戦争の間、蒋介石を孤立させることができた。戦争計画の全体を知らず、士官学校以来、蒙古問題を専門としてきた田中にとって、 「中ソ間を引き裂く」 ことこそ、自分の生存の前提条件だった。それは、中国に共産主義が拡大することを阻止するものであった。またそれは、ふさわしい時期が来れば、ロシアに対する攻撃を用意させえるものだった。そして、最も重要なことは、日本民族の祖先である蒙古民族を蘇生させうると田中が観念的にも確信していたことであった。
 田中は、東京にいっそうの支援を要請したが、それは空しかった。田中はそれが期待薄と覚った時、満州でかき集められるものをもってそれに当たることを決心した。満州航空会社の 「独立義勇中隊」 は、13機の軽飛行機による支援を彼に提供した。満州電機は、双方向無線通信機を用意した。南満州鉄道は、150輌の貨車やトラックを供給した。関東軍は、3名の将校を配属し、180万ドル
〔現在価値で約90億円〕 の金を拠出した。
 だが今や、それらのすべてを失っていた。田中が乗る飛行機が、最後の命令の筒を投下するために高度を下げた。そして彼は帰還していった。その夜、奉天で、彼は上官のけちくささに当て付けて、二日間にわたって飲んで騒いだ。卓王子の大将のひとりが百霊廟を短期間、奪い返すことに成功したことを手柄に、彼は、卓王子に与える、いっそうの資金を獲得することに成功していた。だがその後、すべての蒙古騎馬隊は、雪原をひたすら退却していた。そしてそのうちの一部は、満州の日本の傀儡警察に加わった。だが12月10日、そのうちの一グループは、警察の任務が余りに不名誉であることを知り、日本人幹部を殺して草原へ逃げ去った(30)。しかし、12月12日、ついに卓王子が日本を見限り蒋介石への忠誠を誓約した時、大半の蒙古人は王子に従っっていった(31)



西安事件(32)

 1936年11月18日、百霊廟での戦闘が初めて田中の騎馬部隊に不利に転じた際、作戦を視察するため、蒋介石自身が飛行機で前線の背後に降り立った。蒋にとっては、満州と他の北部地方を日本に奪い取られていただけに、日本に対するその中国の勝利に自ら立ち会う機会は、満足に足るものであった。1936年の晩春、2・26事件が日本の中国侵略の計画に何らの後退をさせるものではないとの諜報部の報告を得て以来、蒋は、北中国側から彼を攻撃する行動に使われる恐れのある鉄道路線の防衛に力を注いでいた。それと同時に、北西部の毛沢東配下の共産軍に対する、第六次の撲滅作戦にも乗り出していた。
 1925年以来このかた、蒋が敵にそれほどまでに包囲されたことはなかった。彼の勢力域は、揚子江とその支流の渓谷にそった中国中央部
のみであった。ダライ・ラマ配下のチベットは、事実上、英国領インドの領土だった。外蒙古や西域の広大な新疆省は、経済的にロシアに依存していた。満州と北京地方は日本が支配していた。毛沢東の共産党勢力は、北西地域で税金すら徴収していた。南東部では、長年にわたり分派行動をとっていた国民党の広東派の将軍たちが謀反を構えていた。かくて孫文の統一中国の夢は往時の輝きを失い、その孫文の衣鉢を継ぐべき蒋介石は、ただの一軍閥にしか見做されかねなかった。
 前線に向かいながら、蒋介石は、張学良とその離脱満州国人たちの忠誠心を固める積りでいた。そこで彼は張に、共産軍撲滅の第六次作戦の重要な地位
〔副総司令官〕 を与えた。しかし、張は、共産軍に強固な攻撃を加える代わりに、自軍を塹壕を掘って構えるのみとし、余裕のある自分の兵力を、彼の最も弱点である内蒙古での戦闘に移動させてしまった。一方、南京では、蒋と共産党は共に日本と戦い、互いの違いはその後で解決するとの合意に達したとのうわさが流れていた。
 蒋介石はその前線視察に、国民党を統治してきた記録である日誌を含め、20万字にものぼる自国の重要文書を持参していた。彼はそうした文書を用いて張学良を説得し、自分が日本に譲歩することで貴重な時間をかせぎ、中国にとっての最大の国益をえるよう行動してきたことを示そうとした。そして、共産主義者との共同行動は長期的には日本への一時的譲歩よりいっそう危険であることを教え、張が政治家たるところを発揮するようさせなければならなかった。だが、張学良はそうした説得を頑固に拒み、おかげで彼と蒋とのやり取りは三週間にわたって続いた。そして1936年12月12日、張が言い含められるか、それとも自分の顔を立てるかのいずれかをめぐり、その合意が成立する以前に、張学良は、自分の指揮者、蒋介石を捕えてしまった。
 その12日の朝5時、蒋介石はまだ寝間着姿でいた。銃声を聞くと、彼は寝床から飛び起き、宿泊していた寺院の裏へと逃げ、3メートルの高さの壁をよじ登って反対側に飛び降りた。その際、彼は自分の腰を痛めてしまい、その後、彼は苦痛のあまり四つん這いになって丘を登った。後に彼が思い出したところでは、二匹の白い野兎に案内されて、彼は大きな岩陰に隠れ、そこで休養をとっていた。昼ごろになって、彼は、捜索して藪をかき分けていた叛逆側の兵士の一群に発見された。そこで彼は雄々しくも、自分を撃つか、さもなくば、自分を護衛して彼の兵営に連れてゆくよう命じた。
 叛逆兵の大隊長の一人が彼に丁寧に肩を貸し、寝間着姿の蒋をおんぶして丘を下った。張学良と蒋の部下の匪賊掃討司令官が彼を護衛のもとに寝台にねかせ、再び交渉が開始された。(33)
 その夜、上海では、蒋介石夫人
〔宋美齢〕 、夫人の兄 〔宋子文〕 、夫人の義兄 〔孔祥熙〕 、そして、蒋のオーストラリア人顧問のウィリアム・ヘンリー・ドナルドは、蒋が逮捕されたニュースを、ニューヨークタイムスのハレット・アベンドへ特ダネとして与えた(34)。彼らはそこで、その知らせが、最初、中国人の消息筋からではなく、西洋の権威筋より、日本に届くようにさせた。報道がつねに厳しく統制されている中国では、これは異例な扱われ方で、予期された事件を広く知らせることの方が、突然に生じた不確かな状況を社会に知らせる懸念よりも重視されているといえる。
 一方、蒋が捕えられている北西部の都市、西安では、張学良が、蒋より会談を始める前に理解しておくようにと命じられた20万字の文書を読み始めていた。それから三日間、張はそれを読み、一方、蒋は寝台に入ったまま、食事も拒否して、中国が指導者を失ったらどうするのかと、自殺をにおわして脅しを与えていた。張は毛沢東が原因であると弁明させるため、周恩来――後の共産中国の外務大臣――を呼んだ。三日目が終わる頃までには、蒋介石は、日本に抗した全ての愛国的中国人派閥による統一戦線を作ることに 「原則的」 に同意した。そしてその後の10日間、彼はベッドで、孫文の共和国の原理を雄弁に講義し、彼が日本と結ぶかもしれない将来の合意のために、手の込んだ面子作りに精を出していた。
 蒋介石のオーストラリア人顧問、W.H.ドナルドは、1936年12月14日、叛乱側の拠点、西安に飛んだ(35)。その四日後、蒋の義理の兄、T.V.ソン
〔宋子文〕 が交渉に参加した。12月21日には、蒋夫人が西安に到着し、その交渉に彼女の威厳を加えた。蒋の腹心たちが妥協を繰り返している間、本人はベッドに入ったきりで、自分は面子を維持しながら、叛乱側による暗殺をにおわしながら、しぶとい頑固さと義憤でもって、彼が過去に下してきたすべての国家的決断の正当さを守ろうとした。
 1936年のクリスマスの日、蒋とスポークスマンは、南京に空路で帰ることを許された。彼らには、張学良が同行し、蒋の残忍な秘密警察に、自らすすんで捕えられた。これは、真の愛国心を示す張の中国国民への彼の見せかけであった。そして蒋介石もそれをよしと評価した。秘密警察も、張には指一本も触れなかったが、彼を南京のもっとも豪華な屋敷に軟禁した。そこで彼が優雅な生活を送らされている間、彼を捕えている蒋は、自分が捕えられている時に彼が約束した言外の公約を実現させた。つまり、共産主義者に対する第六次の掃討作戦をとりやめ、彼の山中の別荘において、彼に忠誠を維持するあらゆる将軍や軍閥たちの一連の会議を開いた。蒋は彼ら一人ひとりに、日本との全面戦争という長い試練の間、自分の側につくように求め、さらに、その各々に、そのための使命と義務を与えた。
 張学良は、その後の生涯を通し、蒋によって軟禁状態におかれ続けた。彼は、若い頃のアヘンの悪癖には二度と戻らなかったが、それに代わり、ブリッジ、ゴルフ、読書、美食美酒、絵描き、そして華麗な愛人生活といった無難な楽しみを享受した。1940年、彼が海外旅行を許された際には、その船中で、彼の辞任の態度やカードに興じる振舞いの良さで、彼は船客の誰をも魅了していた。戦後の1949年、彼は蒋の警護兵によって台湾に連れてこられ、1970年の72歳の現在までは、満足げな囚われの身として過ごしてきている。彼と最後の愛人、チャオ氏――ますますとその魅力を加えていると語られている――の二人は、台北の劇場に出かける姿を今も見せている。また国民党の秘密会議においては、張は、彼の83歳の主、蒋介石総統の良心の一端を果たす役を演じていると報告されている(36)


ヒットラーとの同盟(37)

 1936年11月20日とは、蒋介石が固執していた彼の腰が治癒し始めた時であり、関東軍の大男の田中中佐が内蒙古の雪原での屈辱の敗北から立ち直っていた時であり、また、ソ連の新スパイの尾崎が近衛の身辺組織の高尚な雰囲気に親しんでいた時であり、さらに、裕仁が枢密院で、ドイツのナチと初めての暫定的同盟関係を結ぶことを許可した時であった。この同盟は、その五日後、ベルリンで、ヒットラーの辣腕外交官、ヨアヒム・フォン・リッベントロップが裕仁の家臣のひとりと会談し、日独防共協定として知られた文書に署名した時に発効した。この取り決めは、日本はドイツと協調して、共産主義の拡大を防ぐよう行動することを謳っていた。それに付随した秘密条項は、双方の締結国は、他の国がソ連との戦争に臨んだ場合、他国を経済的かつ外交的に支援することを規定していた。
 ヒットラーとリッベントロップは、最初、1933年に日本から訪れた著名な訪問者に、そうした同盟条約をほのめかしていた。そうした条約は、 〔ヒットラーの著作〕 『わが闘争』 に明言されているヒットラー初期のアーリア原則
〔アーリア人を中心にした民族主義と反ユダヤ主義〕 には反していたが、彼の政治的目的にはよく合致するものであった。そうした脈略において、ゲッペルス下のドイツの宣伝機関は、1934年、日本人を 「東洋のプロシア人」 と呼びはじめた。彼の人種深化局は、 「大日本民族の血には、純粋な北欧人血統に極めて近い美徳を含んでいる」 がゆえ、日独間の結婚は許しうると決定した(38)。ヒットラーの観点では、ドイツ軍がフランスや低地帯諸国に侵略した時、この条約はロシアを中立化させることに役立つものだった。裕仁の特使、賀陽親王は、1934年、に帰国した際、そうした条約は日本軍が中国に侵攻した時、ロシアの中立化を助けるものだと報告していた。
 1934年時点では、日本の代表は、ベルリンにあって、そうしたドイツの提案に、距離を置き、関わらない姿勢を維持していた。しかし、1935年春、裕仁が対中戦争を決定すると、精力的な交渉が開始された。ベルリンにおいてのそうした交渉は、日本の大使によってなされたのではなく、日本大使館付の駐在武官である、大島浩中将によって行われた。同じように東京でも、東京駐在のドイツ大使館駐在武官のオイゲン・オットがその交渉にあたった。1936年の夏、条約の署名の準備が整った時、オットは一時帰国し、ヒットラーと大島に私的に口頭で示した彼の見解が東京の裕仁に示したものと同じであることを説明した。
 オットは、ヒットラー政権前の最後のドイツ首相、クルト・シュライヒヤー将軍の私的秘書として有用な役を果たし、これがヒットラーに認められて、こうした特使に命じられていた(39)。1933年、彼はまた、名古屋の第5旅団指令部で、裕仁の叔父の東久邇親王との間の連絡将校をしていた際、よく気脈が通じるものがあったとして、裕仁の目にかなうものとなっていた(40)
 その条約の日本側の首席交渉人の大島は、これもまた東久邇親王の旧友であり、1934年3月、東久邇とオットの予備会談が終結したすぐ後、彼は海外駐在武官としてベルリンに派遣された。ヒットラーとリッベントロップが見るところでは、大島は、天皇と日本陸軍参謀総長の閑院親王を代弁しており、そしてそれは真実だった。1921年、35歳の大島は、ドイツ駐在副武官として、裕仁が設けた特務集団である三羽烏や側近が練る計画の全てに関与していた。こうして彼は、すでに大兄たちの一員であったので、特務集団の新メンバーとして任じられてのではなかった。彼の父親の大島健一大将は、1880年代、閑院親王とともにフランスに留学し、1899年の南アフリカのボーア戦争の際には、閑院親王に随行して前線視察にでかけ、1916年の閑院親王の不成功に終わった奉天クーデタの際には、陸軍大臣としてそれを後押しし、1921年の裕仁のヨーロッパ歴訪の際には、閑院親王と皇太子に―― 「手配をする」補佐として ――同行するまでになった。(41)


ゾルゲの初情報

 そうした日独防共条約を、日本は最初、細かい注釈をつけることなく受け入れた。かねてから、ヨーロッパにひとつの同盟国を必要としており、ナチのドイツを同盟国とすることも、北進派に扇動されてロシアとの予防戦争を行うよりは賢明なことであった。しかし、西洋諸国においては、ナチとの同盟条約は、民主主義とは相容れない、危険なファシスト同盟だとして非難された。フランス、オランダ、英国、そしてアメリカは、その条約は公表された文面にうたわれた明白な外交的表現以外に、秘密の軍事条項を含んでいることを示す証拠を公表した。(42)
 ソ連は、その条約によってもっとも直接の脅威をこうむる国であり、それが締結される一年以上も前から、秘密条項についての危険性を警戒していた。しかし、スターリンは、それが何ゆえのものかを知っていたがゆえに、そうした条項を他国の反ファシスト指導者ほどには心配していなかった。ドイツと日本は、事実、互いに結んで、ソ連の軍事的脅威になるようなことはしなかった。条約締結国がロシアと戦争状態に入った場合、他方の国は、外交的支援を行うことを規定し、そして、その同盟国と可能な共同軍事行動をとることを 「協議」 することを定めていた。要するに、日本もドイツも、いずれも、友好的言辞以上のことは、相手国に対して何事をも約束はしていなかった。
 スターリンは、ゾルゲがこの条約に関する極秘文書を読み、それが東京のドイツ大使館に通知され、また、尾崎が、裕仁の周辺の人々に知られていたその解釈に遅れをとることなく掌握していたがゆえに、こうした事情を知っていた(43)
 この防共条約の交渉にたずさわってきた東京駐在のドイツ人武官のオイゲン・オットは、リヒャルト・ゾルゲの日本における主要情報源の一人だった。1933年9月、ゾルゲが東京に到着した時、ドイツの自由主義的新聞である 『テークリッヒェ・ルンドシャウ』の編集長からのオット宛の手紙を持参していた。ゾルゲは、名古屋を訪れた際、オットが名古屋旅団の司令官である裕仁の叔父の東久邇親王との最初の会談を終えたばかりのところで、自己紹介をかねた話を披露した。オットとゾルゲは、一次大戦の際、同じドイツ軍師団に属し、すぐに気心の知れあった友人同士となったというものだった(44)
 オットを通じて、ゾルゲは、満州における関東軍の強さのいくらかの秘密――その条約の交渉過程で日本がドイツに明かした――を知った。マックス・クラウゼンの無線機を通じてモスクワに速報されたゾルゲの見方によれば、関東軍の姿勢はソ連に脅威を与えるものではなく、北進論を即座に実行に移す意図を意味するものでもない、というものだった(45)。その結果、モスクワは、その条約の秘密条項についての宣伝を繰り広げたものの、赤軍は極東における展開を強化したわけではなかった。それどころか、条約締結の前日、ソ連政府は、シベリア沖の漁場における漁獲権と割当数量を規定した日露漁業協定の更新を、拒否すらしたのであった(46)
 この防共条約についてのゾルゲの報告によって、彼はモスクワにおける彼の優位を獲得し、過去二年間の諜報団を組織するための苦難の年月が無駄ではなかったことを立証した。彼のその後の報告は、その後五年間にわたり、ロシアと日本が互いに距離を取り合う重要な役目を果たすこととなり、それぞれ、対ドイツ、および、対アメリカとの戦争を準備させことに役立ったのであった。

 
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