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第六部


アジアの枢軸国






第二十六章
真珠湾(1941)
(その2)



開戦公式決定(85)

 翌日の11月5日、裕仁は、招集した内閣の文民大臣に、機密の必要から内容を隠した形のまま、〔軍出身大臣と〕同一の責務を提示した。大臣たちは、最も信頼する文武両方の官僚たちとともに、その重大な秘密御前会議に臨み、数ヶ月にわたって練り上げてきた作戦計画と、何十年にもわたって温めてきた戦略計画に、最終的な同意を与えた。そしてこの日の審議では、裕仁と皇室が取り組んできたその危険な賭けに国民と宮廷記録が備えられるよう、用意周到に提起されて、あらゆる正当性が言及されていた。
 成立を求めて同会議に提起された文面による動議は、前日に軍事参議院にかけられたもの――米英蘭を敵とし、12月初めに着手――とほぼ同じだった。そしてそれには以下のような条項が加えられていた。「米国との交渉は、添付書類のように、実行される。・・・もし、米国との交渉が12月初めまでに合意に達した場合、軍隊の使用は停止される。」
 その添付書類には、米国に提示される二つの案が述べられていた。最初の甲案は、以下のように規定して、日米間の紛争の長期的な全面解決を目指していた。
 もし、この甲案が、米国に受け入れられなかった場合、乙案が提示されるとされた。これは暫定的決着、すなわち一時的妥協のためのもので、先の6月の時点――日本が南インドシナを占領し、米国が日本の資産を凍結、日本への石油供給を禁止した――以前に戻ることを基本とするものであった。〔当案は〕時間をかせぐための妥協として、両国は以下を確約すべしとした。
 参列者全員が、戦争決定と戦争回避を探る二案の外交的提案に目を通し終わる頃、裕仁が外宮儀式殿東謁見室に入室し、会議が開始された。東郷外相は、米国に甲案と乙案をできうる限り誠実に提示しうるよう協力を願った。企画院総裁、鈴木予備役中将は、国力の概要を述べ、その二つの外交的提案を米国が拒否した場合の開戦を主張した。彼は、鉄鋼生産の増加とその民間消費の削減、および、 「補助エンジンを備えた現在未使用の帆船」 の使用によって、通常貿易に投入できる商船の補完といった、見え透いた楽観論を提示した。
 そして鈴木はこう述べた。 「本戦争の初期段階での勝利の可能性は充分高いがゆえ、それにより、我々の確信する勝利はより有利となり、国民の士気を高めて、たとえ自らの命を犠牲にし、生産を高め、消費を削っても、国家的非常時を克服する覚悟を持つようになる。・・・これは、敵が我々に圧力を加えることを座して耐えるより、はるかに望ましい。」
 賀屋蔵相が次に発言した。1936年以来、国家予算は倍増し、国民への国債購入の強制割当てと重税が経済をインフレ暴走から救っていると指摘した。 「国民は、天皇の臣民であるがゆえに、あらゆる努力と犠牲に耐え続けるだろう」。そして彼は、国は、国民に餓死者が出始めるまでは、財政破綻せずに行けるだろうと断言した。だが彼は、 「もし、我々が軍事行動の実施と国民の生活維持に必要な物資を供給できない場合、国家経済は、いかに政府の財政および金融政策が完璧であろうと、崩壊に至る」、と警告した。
 さらに彼は続けて言った。 「軍事作戦の目標とされる南方方面はあらゆる種類の物資を大量に輸入に頼っている。もし、そうした地域が我が軍によって占領された時、その輸入は止まる。その結果、その経済を円滑に運ぶには、我々はそうした物資を供給せねばならない。しかし、我が国は、そうした目的のために充分な余剰をもっておらず、いつかの時点で、我々はそうした地域の人々の生活条件に充分な考慮を払えなくなり、しばらくの間、我々は、いわゆる搾取といわれる政策を実施せねばならないだろう」。
 永野海軍軍令部総長は、それに続いて、前日、戦争について行った議論の全てを繰り返した。
 東条外相は、ワシントン交渉での立場についての概要を以下のように説明した。
 そうした外交的行詰りについての議論では、東条首相が、 「我々は軍隊を(中国に)駐留させることでのみ、我が国の拡大を期待できる」 と率直な見解を表す場面があった。
 最後に、原枢密院議長が、天皇に代って、長文の用意周到に準備された声明を提示した。それは、裕仁自らが求め、前もって点検したもので、彼自身の独特な言い回しや要約の跡がまだ残っていた。
 誰からも発言はなかった。裕仁はうなづきいて満足を示し、退席した。かくして、戦争は決定された。


裕仁の隠密行動

 その時から一ヶ月と三日後の真珠湾攻撃まで、裕仁は戦争計画のあらゆる詳細を、昼夜にわたって検討を続けた。そして同時に、彼は、国民からの全面的支持を得、礼節の様式と後世への継承を保ち、そして敵をあざむくことの大事さを、自分の親交者に銘記させた。
 11月5日の会議が閉会されると直ちに、裕仁はワシントンに野村大使を補佐する特使を派遣する許可を与えた。その特使に選ばれたのは来栖三郎であった
(86)彼は生え抜きの外交官で、1940年にはベルリン駐在大使としてヒットラーとの三国同盟を締結させていた。彼に託された使命は微妙なもので、ルーズベルト大統領に、脅威を与えることなく、かつ、現実に、交渉期限を設けていることを示さなければならなかった。だが、もし米国が歩み寄らず、交渉期限を過ぎた場合、彼は、野村大使の対面に傷をつけても、見せかけの交渉を維持せねばならなかった。そして最終的には、機密を保持したまま、ワシントンの日本大使館の全員に、東京で下された決定を自覚させねばならなかった。
 一機のパンナム大型旅客機が、国務省の司令により、香港で48時間待機していた(87)。来栖が搭乗するためであった。その新大使は、ようやく11月16日、ワシントンに到着した。
 来栖の出発から着任までの11日間、裕仁は、おしのびと見せかけ、葉山の海辺の別荘へ出かけ、各三日、二回にわたり実施された全戦争計画の検討にみずから臨んだ。そうした動きは、杉山陸軍参謀総長が 「御前将棋」 と称した御前屏語
〔ごぜんへいご〕で完璧に秘匿され、それらが行われた場所すら明かされることはなかった(88)。そのうちでは、推測するに、真珠湾艦隊の旗艦、赤城艦上で実施されたものもあり、他は、沼津――葉山から海岸沿いに空路約40マイル、海路約100マイル〔160km〕――近くの陸軍基地で行われたものもあったろう。
 刊行された日記類には、こうした御前屏語が表わす、日本人の間の用意周到さの巧みさが示されている。10月末以来、裕仁は文官の家臣たちに、葉山に短期の 「休暇」 に出かける旨を話している。この時期がそうした目的には不向きな寒い季節であることからして、裕仁の性格を知る者たちは、日本の電撃作戦を前に、外国人観察者の関心を引かぬ行動を装って、その油断をさそったものと見られていた。
 そうした裕仁は、軍の上層部にさえ、自分が作戦準備に関わりたい理由を隠していた。両軍の大将たちが重要な任務で日本を離れる際、彼らに慰労の言葉をかけるのは、裕仁の特権であり、慣行でもあった。それがいま、大量の司令官たちが同時に日本を去ろうとしており、宮廷に呼ばれた要職軍人たちの姿が絶えないとなれば、外国人観察者の注意を引き、そのいぶかしさを呼び起こす恐れがあった。そこで裕仁は、秘密裏に謁見をもつ方法を両軍の参謀総長に問うていた。このような方法なら、部隊の出発への儀礼のためとして理解されるものであり、加えて、そのどれにも公式の許可はなく――すなわち、失敗に終わるかも知れない計画の責任は、天皇にではなく彼らの側にあると見せかけて――、なおかつ裕仁は戦争計画の全容を検討することができた。

 裕仁は、そうした理解と装い策を念頭に、11月5日の御前会議の直後、両軍の参謀総長と謁見した(89)
  「機密の観点で、いつ、我々は司令官やその他の地位のものを、現地任務に赴任させるのすすか?」、と裕仁は尋ねた。
 杉山は、 「統帥部は、7,8,9の三日にわたり軍事作戦について討議します。その後、各司令官に属する部隊が、同様な作戦統合会議を開きます。司令官をその部署に余り早く派遣するのは、計画の機密保持という観点では好ましくないと存じます。」
 杉山メモによれば、天皇は 「よく理解され、ただちに決断をされ、いくつかの質問をされた」 と記している。
 11月7日、午前10時、裕仁は葉山へと向かった(90)。その海辺の別荘では、彼は、お堀と石垣に囲まれた東京の住居にいる彼と違い、たいがいの儀礼だの警護だのからは無縁でいられた。彼の海洋生物学研究用のボートは、新聞記者からも護衛警察官からも、神聖不可侵の隠れ場所と見なされていた。そのボートには、船舶用無線機と夜間航行用の照明具が備えられていた。
 木戸は、裕仁に同行して葉山に行き、その 「休暇」 の間、すべての国務を代って引き受け、7日の朝から10日の朝まで、自分の主とは顔を合せなかった。そして、陸海総合部会の後、裕仁は自分の首席顧問との雑談のために、45分間、姿を見せた。そして彼は、11月13日に作戦別調整会議が終了するまで、再び雲隠れしていた。この間、彼は、赤城の艦上で真珠湾攻撃艦隊の連携検討作業に臨んでいたと理解されていた。
 11月14日、裕仁は再び姿を現わして、東条首相、東郷外相、および賀屋蔵相より、民政の上の最新状況の経過説明をうけ、15日、東京に戻った。
 裕仁は、 皇居に戻ると直ちに、杉山陸軍参謀総長と謁見した。そのメモによると、杉山は、裕仁が東京を離れている間、日本の現在と将来の軍需産業の能力を敵国のそれと比較し要約した、83ページにわたる無数の表と取り組んで過ごしていた(91)。杉山は 「11月15日、宮廷での兵士との将棋の後」 とその事後談を書き出し、裕仁が 「南方方面司令官は、どこにその司令部を設置するつもりなのか」 と問うたと記録している。
  「サイゴンです」 と杉山がそれに答えた。
 それに 「我々は、マラヤのゴム園を台無しにする恐れはないのか?」 と裕仁が問い、その質問に杉山は、 「解りません。いくらかの損害はあるでしょう。しかし、ケダ地方を除き、道路が狭いので、数台の戦車に率いられた単独連隊という小規模部隊で進攻するのが最適と存じます。そうした方法なら、ゴム樹林に損害を与える危険は少ないでしょう。」
 裕仁はうなずき、さらに杉山に、もし米国が日本の外交要求に同意する姿勢を見せた場合、軍事作戦はいつ中止されるのかと、新たな確約を求めた。たとえ日本が敵を攻撃する前に敵が日本を攻撃したとしても、陸海両軍は、天皇自身による開戦の命令が出ない限り、できるだけ戦闘に関わらぬよう命じるとすら断言した。
 杉山は、寺内や他の司令官に、「軍事的圧力を背景に外交交渉が成功した時は、それは軍部の強さの証明で、誇りをもって撤収することが可能となると説明した」 と記している。



艦隊出動(92)

 11月7日、天皇が葉山に到着した日、山本連合艦隊長官は腹心たちに、攻撃日は12月8日であると明かした(93)。そのおしのびの最初の3日間の 「御前作戦会議」 の後、11月10日に山本は、真珠湾攻撃部隊を率いることとなる南雲忠一中将に、艦隊の全艦長は 「戦闘準備を11月20日までに終わる」 よう命令を出させた(94)。同じ日、日本の27隻の大型潜水艦――イ号潜水艦で、全長320フィート〔105m〕、14ノット〔27km/hr〕で12,000マイル〔19,200㎞〕 の航続距離を持つ――の最初の一隻が、米国の偵察区域間をすり抜け、三週間後に真珠湾外で見張りに就くため、艦隊から姿を消した(95)
 11月11日、天皇とともに真珠湾計画に渾身の力を注いできた山本長官は、自分の恩師――退役大将で家族同士の友人――にこう手紙を書いた。 「家族をよろしくお願いします。・・・私は、なんとも不思議な地位にいる自分を発見しています。私は、自身の信念とは全く反対の決定を率いなければなりません。そして、私には他の選択はなく、全速力で進んでいます。」
 11月14日までに、真珠湾機動部隊のほぼ全艦が、九州北東角の佐伯湾の山本の旗艦周辺に結集し、出航の前に、各艦長に長官の最後の言葉が伝えられた(96)。南雲忠一の旗艦、航空母艦赤城は、まだ東京近くの横須賀軍港にあって、ハワイ攻撃のために用いられる特殊魚雷の最後の積込みを行っていた。それは、浅い深度で進むよう、9月の鹿児島湾での訓練での試用で開発された木製のひれを装備していた。通常の魚雷は、
〔投下されるといったん海中深くに沈んだため〕真珠湾の浅い海域では、海底の泥にもぐり込み無用となるおそれがあるために、その開発が急がれていたものであった。
 真珠湾機動部隊の他の五隻の空母は、日ごと夜ごとに、山本の艦隊から離れ始め、日本近海から、日本帝国の北限、千島列島の択捉島にあるヒトカップ
〔単冠〕湾の集合い地点へと向かった。そこでは、荒々しい海辺に冬のコートをまとったオットセイやセイウチに見つめられながら、小さなコンクリート桟橋わきの小屋に、山本が数ヶ月前、宮廷の許可によって受け取っていた、ドラム缶入り石油を積み込むこととなっていた。そのドラム缶は、北太平洋を横切る長距離航行のために、空母の燃料タンクを満たし、あるいは、甲板に積み上げられるはずであった。
 攻撃の二日前、真珠湾外にオオカミの群れのように集まることになっていた27隻の潜水艦先発隊の最後が、11月18日に瀬戸内海を出発した。それらの潜水艦には、補給艦と巡洋艦が目的地までの途中まで同行し、そこで見送るはずであった。そのうちの8隻の艦体には、二人乗りの 「小型潜航艇」 が乗せられていた。それら潜航艇は、真珠湾口の防御杭や網をすり抜け、その決定的場面に、魚雷を発射して混乱を助長させ、また反撃をかく乱させる任務が与えられていた。その開発と設計は、1933年以来、皇室の伏見親王の援助でなされてきたものだった。その乗組員は片道の特攻訓練をされており、その母潜水艦に回収される充分な準備が整わない限り、艦隊に戻ることは山本によって禁止されていた。
 山本の大作戦に参加する空母と潜水艦が錨を上げてから以降、彼らは無線沈黙――12月8日まで沈黙を継続――を維持した。山本は、自分の旗艦から、米国の暗合専門家がまだ解読していない新しい司令官暗号を用いて命令を送った。たとえ解読されても、彼の文面には 「音声暗号」 符合――多くは、日本の歴史からの取りとめのない引喩だった――が含まれており、艦船は出航以前にその意味を申合わせていた。最終的な機密保持法として、全ての攻撃艦船は新しい信号担当士官を置いていた。旧信号担当士官は、無線信号キーをそれが誰か判別可能なタッチで用いて、日本の陸上に配置され、あたかも日本南部の沖合に待機して開戦を待っている艦船にいるかのように、呼出し信号や偽の文面を交信していた。


日本の戦争目標

 山本の機動艦隊はヒトカップ湾から、11月26日になるまで出航しなかった。その一方、特使の来栖は、11月16日、自分の信任状をワシントンに提出し、ただちに、甲案――米国との総合的和解をはかる日本の最終提案――を提出した。これが即座に拒否されると、彼は、一時的妥協のための乙案を提出し、日本の南インドシナ占領と米国の資産凍結以前の段階に戻そうとした。この案は11月20日に公式に提示され、11月22日に拒絶され、さらに11月26日、米国の一般原則の対抗案により、公式に拒否されるものとなった。
 当時を専門とする研究者は別として、こうした外交文書上の無用の遣り取りは、米国政府の採用する執拗な路線の根拠を見えずらくさせていたかも知れなかった。その路線は、11月22日付のヨセフ・W・バレンタイン補佐官からハル国務長官へのメモに明瞭に述べられていた。すなわち、 「長官が(日本に)言うべきことは、アメリカ国民の感情として、自分たちの中国への援助に込められた目的と、その英国への援助に込められたものとは同じであり、アメリカ国民は、ヒットラーと日本の間に、両者で世界を分断しようとすることを狙った結託関係があると信じている」
(97)、ということであった。
 バレンタインの分析は、ある点までについては正しかった。その月に、裕仁の特務集団の若手メンバーが書き、直ちに彼の侍従武官室に送られた文書は、世界をヒットラーと分割することは、二次大戦での目的に過ぎない。それ以降は、最終的には別の戦争が起り、その半分をめぐり、ヒットラーと争うというものであった。
 この文書によれば、日本は、二次大戦において、インドの大半から東へ中央アメリカとカリビアンまでのすべてを取得すると計画されていた。 「(しかし)トリニダード島、英領および蘭領ギニア、そしてリーワード諸島の英国およびフランスの領土は、戦後、日本とドイツの合意に基づき、分割される」。アメリカの残りの領土は、彼らの協力度に応じて扱われる。 「メキシコは、もし日本に宣戦布告した場合、西経95度30分以東の領土(チアパスとユカタン)は、日本に割譲される。ペルーが日本の敵として参戦した場合、南緯10度以北(同国の半分)が割譲される。チリが参戦した場合、南緯24度以北の硝石地帯(人口密集する同国の7分の一)が割譲される。」(98)
 アメリカ合衆国については、その降伏の後は、名目上の独立は維持され、ロッキー山脈以東の主権は維持されるが、日本の共栄圏のアラスカ総督は、「アルバータ、ブリティッシュコロンビア、およびワシントン州を占有する」。また同 「総督」 は、南インドおよびアフリカ沖合諸島、香港およびフィリピン、オセアニア、カンボジアおよび南インドシナ、そして、ラオスおよび北インドシナを占有し、最終的には、独立の 「王国」 となる。
 以上は、二次大戦の目的で、その内のいくつかは、戦争の後、さらなる浸透と浸蝕によって掌握されるまで、〔戦いは〕延期されなければならない場合もあると考えられていた。しかし、最終戦争である第三次世界大戦がドイツとの間で起こり、その終末戦争は、単独の日本世界国家――調和的人々の日本的審美と大自然との一体化の実現によって統治される――の建国をもって終結するはずであった。生態学的にはその構想は完璧だった。だが実務的には、政治的詭弁にあふれ技術的に不洗練な日本人の思考では、あらゆる異質文化は問題とされず、その排除を意味していた。
 11月20日の連絡会議は、 「南方占領地域行政実施要項」 を考察した。その中で、おびただしい関連文書によって形成されたこの長期構想が許可された。それと同時に、ことに、日本が早急に占領することを予期している地域においては、陸軍と海軍の所轄の分離が天皇に推薦された。裕仁は、この推薦を、6日後の11月26日に承認した。このようにして、海軍は蘭領ボルネオとそれ以東のすべての占領獲得地域を、そして陸軍は、英領ボルネオ、ジャワ、スマトラ、フィリピン、および以西のすべてをそれぞれ統治することが合意された。(99)


立場堅持の米国

 11月22日、南方方面軍の寺内大将は、彼の司令部を東京から台湾へと移すにあたり、木戸内務大臣を表敬訪問し、また、東郷外相はワシントンの野村および来栖に、さらに4日間の交渉の余地を与えた。外相はこう打電した。 「なぜ我々が(11月)25日までに日米関係を解決しようと欲しているかは、貴官の管轄を超えるものであるが、この先の3日ないし4日のうちに、もし貴官が米国との対話を終結することができ、29日までに(ある種の合意に)署名がされるのであるなら、・・・我々はその日まで待つことを決定した。しかし、今回は本気であって、交渉期限の変更は絶対にない。それ以後は、事態はおのずから進行するものとなる。・・・現在のところ、これは、貴両大使だけに与える情報であることを心得ておかれたい。」(100)
 東郷外相による、11月29日までに乙案への米国の同意がない場合には事態はおのずから進行するとのこの警告は、米軍情報部によって傍受、解読、翻訳され、その発信から24時間以内にルーズベルト大統領に提出された。ロバーツ委員会と議会の真珠湾公聴会によって収集された豊富な証拠によれば、この電文は、大統領と首席補佐官たちに、それが戦争への最後通牒であることを明瞭に覚らせるものとなった。彼らは、異論なく、日本に最悪の選択をさせることにした。彼らは、必要とする生活圏とアジアで望む優越した地位という日本の主張に関心を示しながら、数ヶ月にわたって時間を稼いできていた。フィリピンの防備が完璧からは遥かに遠いことを知りつつも、いまや彼らは、日本がもはや長くは引き延ばされないことを知るに至っていた。
 11月25日、火曜日、ルーズベルトは国務長官、コーデル・ハルの日本への拒否通告文案に目を通し、内閣顧問委員会を招集した。ハルに加えて、国防長官のヘンリー・L・スティムソン、海軍長官のフランク・ノックス、陸軍長官のジョージ・C・マーシャル、そして海軍作戦長官のハロルド・R・スタークが出席した。この6人は、事前に、日本との戦争は、11月29日土曜日かその頃と予想する、陸軍G-2のラフス・ブラットン大佐のメモが渡されていた。この会議の誰もが、ブラットン大佐は、陸海軍マジック・グループ――東京から各国日本大使に送られた極秘外交文書を常時傍受し英語に訳していた――の一人であることは承知していた。ただ、日本海軍が長官暗号――それまでのところ、解読に当たるマジック・グループの努力を無にしていた――を使用しているという未知の事実には誰もまったく気付いていなかった。
 ルーズベルトは、同会議の開会冒頭で、日本との交渉の決裂が近いことを議題とした。それにハルが、日本は 「攻撃態勢にある」 と付け加えた。スティムソンの日記によれば、続いて大統領はこう述べた。 「我々は、おそらく(早ければ)次の月曜に攻撃を受ける可能性がある。というのは、日本は予告なしに攻撃を始めることで悪名が高く、問題は我々がそれに何をすべきかと言うことだ。要は、彼らの最初の一撃が我々に危険過ぎないよう、いかにして我々が彼らをそういう立場に持って行くかにある。これは容易なことではない。」(101)
 この大統領の内閣顧問委員会は、ハル国務長官が、一般的道義的原則を再主張してすべての日本の提案を拒否し、日本の苛立ちを誤った方向に引き込むべきであることを決定して閉会した。その午後、スティムソン国防長官は、およそ2万5千の日本部隊が揚子江の停泊地で30から50の輸送船に乗り込んでいると、上海の諜報組織からの情報を受け取った
(102)。その報告は、それらの行き先は、インドシナ、タイ、ビルマ、あるいはフィリピンと述べていた。ワシントンは知らなかったが、これらは、日本の南進のための11個師団のうちのひとつだった。上海でのこのいかにも怪しげな乗り込みは、意図的なもの、つまり、日本のその他の攻撃艦隊の航海中、米国の関心をそらすための観測気球であった。スティムソンがこの知らせを持ってルーズベルトに会うと、大統領は、 「ほとんど躍り上がらんばかりであった」(103)。というのは、それは、交渉における 「日本側の背信」の明らかな現れであったからだった。
 スティムソンが上海からの情報を得て数時間後――ワシントン時間の11月25日夕、東京時間の11月26日朝――、裕仁は、外務省が米国よりの敵対的な文書をいまだ待っているとの報告を受けた。その文書はまだ届いていなかったものの、来栖と野村は、その文書がすべての日本の要求と最後通牒を拒否し、先の4月以来進められてきた解決を求める米国の暫定的要求をほぼすべて撤回するであろうと報告していた。裕仁はただちに木戸内大臣を呼び、そして告げた。
  「まことに残念かつ不安なことであるが、私は、我々がもはや引き返すことのできない地点に至っていることを認めざるをえない。しかし、我々が取り消すことのできない最終的決定をする前に、長老政治家(首相経験者)の見解を、最後の広範囲な議論において、伺ってみるべきではないか。」(104)
 裕仁がそう指摘するように、もしその決定が裏目にでた場合、成されようとしていることは 「決してやり返せない」 ことであるがゆえ、木戸はその提案に賛成した。東条首相は、それを相談された時、長老政治家はその決定に関わらなった事柄の責任は負えないと強く反対した。裕仁は3日後の11月29日、その東条を差し置いて、宮中において長老政治家を招いて昼食会を持った。
 裕仁が東条と話をしていたおよそ1時間に、真珠湾口に向かっていた潜水艦の先遣部隊は、ワシントン交渉は決裂に達したとの、長官暗号による信号文を受信した(105)。同じその日の午後、日没時の千島列島においては、また、ワシントンにおいては夜明け前、ヒトカップ湾より真珠湾艦隊の空母は、一隻々々と出航していた。ワシントン時間の午後5時、ハルが野村大使に公式の文書を手渡すまでには、同艦隊は北太平洋の霧の中に姿を消していた。無線沈黙が敷かれる中で、同艦隊は、米国空軍のアリューシャン列島の偵察空域の南縁と、グアム島およびミッドウェイ島の偵察空域の北縁の間の狭い海域を航行していた。
 ハル国務長官がその文書を野村と来栖に手渡した時、日本政府がとるであろう反応は疑いのないものとなっていた。二人の大使が東京に打電した時、 「我々二人は物も言えないほどだった(106)。・・・我々は猛烈に反論したが、ハルは岩のように不動だった」。二人は、ハルには取り付く島もなく、大統領に会いたいと申し入れた。ハルは、その日の午後2時にホワイトハウスでの会見を約束した。


真珠湾の警戒

 翌11月27日は、伝統的なアメリカの感謝祭の木曜日だった。ハル国務長官は朝早く、自分の文書への日本大使の反応を報告するために大統領を訪ねた。さらにハル長官は、電話でスティムソン国防長官と話し、こう告げた。 「私の番は済んだ。それはいまや君の手にある。君とノックス、つまり、陸軍と海軍の番だ」(107)。 午前中のその後は、ホワイトハウスにせわしく出入りする電話により、陸海軍の指導者たちは、取るべき対策をめぐっての決断に追われた。電話会議で、二つの行動が浮上した。ひとつは、全航空母艦と空軍の半分の航空機が、真珠湾から出るよう命令され、もうひとつは、太平洋の全米軍司令官に、戦時態勢に入る命令が発せられた(108)
 スティムソン国防長官が、戦時態勢の許可を求めて大統領に電話を入れた時、ルーズベルトは、それを許可したのみならず、スティムソンに積極的に 「最終警告」 を出すよう命じた(109)。スティムソンとスターク海軍作戦長官――大統領からはいつも 「ベティ―」 と呼ばれた――は、即座に緊急声明をパナマ、サンディエゴ、ホノルル、そしてマニラに発した(110)。そのうちスティムのものはより強いもので、その一部は、 「この発令は戦時態勢を考慮したものである。・・・日本による挑発的動きが今後数日の内に予想される」 と告げていた。
 そしてこの警告は続けて、その動きはおそらく 「フィリピンかタイ、もしくは、カラ半島(マラヤ)、もしくは、ボルネオへの水陸両面作戦」、と述べていた。
 この警告がハワイに届いた時、ハズバンド・E・キンメル提督と当地の陸軍司令官ウォルター・C・ショート中将は、届いたばかりの指示――全ての空母と航空機を出払わせておく――について、すでに互いに協議をしていた。そして二人は、航空機と空母をウエーキ島かミッドウェイ島に補充部隊として送る計画に合意していた(111)。だがその合意は、彼らの司令権を無力にするばかりでなく、陸軍機を海軍の管轄下におくことを意味していたため、達成することが難しかった。それでも、ウィリアム・F・ハルゼー副提督は、空母エンタープライズ、重巡洋艦3隻、駆逐艦9隻、海兵隊のグラマン・ワイルドキャット戦闘機12機、そしてショート中将指揮下の陸軍爆撃機数機を、翌朝にウェーキ島に出発するよう命令を発した(112)。J.H.ニュートン副提督は空母レキシントン、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻、そして海兵隊の戦闘機を15機を、12月5日にミッドウェー島に出発させた。三番目のキンメルの空母サラトガはサンディエゴに送られ、オーバーホールにされようとしていた
# 5
 キンメル提督は後に、海軍省の 「はっきりとした指示」 を、ハワイを攻撃の危険から救うべく、すべての高速船と艦隊の上空掩護を除くことと自分は理解していたと証言した(113)。それが、その日の午後にハワイに届いた戦時態勢の警告に、彼とショート中将が対応して取った認識の範囲であり、警戒の消極性であった。その両者を代表し、ショート中将が直ちにワシントンに打電した(114)。その警告への彼らの対応の全容は以下の通りだった。
 この意味は、ショート陸軍中将は、海軍との協議の上、警告と準備について最低水準の命令――破壊行動の兆候やスーツケースの爆弾を厳格に排除――を配下の部隊に出したということだった。マーシャル陸軍長官は、取るべき予防策についてのショート中将の報告の写しを読んだと表現したが、明らかに不注意だったようで、自分に示されたその報告をそのまま実行させていた。
 ルーズベルト大統領の軍事顧問団は、真珠湾の空母や航空機を、それらが重要かつ移動可能であるがゆえに、移動を命じていた。欧州での戦争は、空軍力の支配性を明瞭に結論付けていた。空母は、大砲や装甲鉄板の代わりに航空機で守られ、当時のほとんどの米国の戦艦より、ほぼ二倍の速さで航海と作戦行動ができた。八隻の旧式戦艦と八隻の旧式巡洋艦は、他に使い道は乏しいとみなされ、真珠湾に残された。それらは、海上にあったとしても、逃げきることも守りきることも不可能だった。
 空母を守るために、太平洋に出して高性能の航空機、巡洋艦や駆逐艦を付けるという予防策がとられたものの、記録によるかぎりでは、真珠湾が攻撃されるとは、ワシントンのだれもが予想していないことであった。日本陸軍が、中国沿岸をマラヤやフィリピンへと部隊を輸送していることはすでに察知されていた。だが日本では、裕仁の顧問たちの用心深い広報操作がゆえ、陸軍が最高権威をもち、長く東京の公式見解として仰々しく扱われてきたことは、すでに自明のことであった。そうであるだけに、陸軍が南進作戦から海軍の中心部隊を振り向け、四千マイル
〔6400km〕も隔たった真珠湾の大胆な奇襲攻撃に当てることを許すとは、極めて考えにくいことでもあった。
 ただ、真珠湾奇襲攻撃が不可能なことと考えられていたわけではなく、むしろ逆に、ハリー・E・ヤーネル提督は、1932年の海軍机上演習の際、わずか二隻の空母によって、米太平洋艦隊は奇襲、沈没させられていた。1940年6月には、ハワイの米陸軍は、「可能な太平洋横断奇襲攻撃に備えた防御態勢を構築する緊急警告」を命じていた(115)。その後でも、1940年11月、タラントにおいてイタリア艦隊に対する英国の航空魚雷攻撃の成功の後、ノックス海軍長官はスティムソン国防長官にこう助言していた。 「英国の成功は・・・日米戦が生じた際に、真珠湾を奇襲攻撃から守る予防手段を緊急に講じておくことを示唆している」。スティムソンはそれに応え、真珠湾に対空砲火と新しいレーダー装置の特別に優先した配置を行った。その後の1941年3月、ハワイの空軍司令官のフレデリック・L・マーティン少将は、山本が当時まさに行っていたように、空母機動部隊が、真珠湾の北方より、航空機を発進させて接近する夜明けの攻撃が最適であるとの可能性と結論を述べた研究に驚かされていた(116)
 警戒措置をとれというこれらすべての命令や研究は、むろん、確信が持たれていたものではなかった。それらは偶発的事態への計画であり、それ以上のものではなかった。1941年1月27日、グリュー大使は、東京のペルー大使館からの情報をワシントンに伝えた(117)。曰く、 「日米間に難事が発生した場合、日本は真珠湾に対し、全力をあげた奇襲攻撃をすることを意図している」。〔しかしながら〕米海軍情報局はそのグリューの警告をハワイのキンメル総督に以下のような付記を付けて送った。 「真珠湾に対して、近い将来、切迫した、あるいは、計画された動きは不要と思われる」(118)
 というのは、米海軍の戦略家たちは、真珠湾攻撃に対し、1941年9月、山本が机上演習の際にその計画を提案した際、日本海軍の上層戦略家たちの大半に反対されたように、同じ理由からその可能性を過小評価していた。彼らにとってその敢行は、この場にいたってもなおその多くをして、日本自らにも何の利益をもたらさない派手な見せかけ行為としてしか映らなかった。万一に備え、数隻の艦船がしばらくの間、警戒の任務についたとしても、戦略的には、真珠湾基地はどうあっても攻撃さるはずはなかった。そして、日本が幾つかの奇襲による占領とその後の和平交渉をまさに望んでいる時、米国は、政治的に苛立たされていた。ある日本人の退役海軍将校は、 「それはあたかも、寝ている虎をおこすようなものだった」と〔後に〕語った。
 裕仁は、米国の指導者たちが本当に寝ているとは考えず、だからこそ、大半の日本海軍参謀将校による反対をおさえてでも、山本の計画をあえて後押しした。裕仁の力を何も知らずに、米国海軍の作戦本部は多数決で、東京の彼らと同等の立場の者たちの多数も真珠湾奇襲するどんな計画も否定するだろうと、誤った結論を下したのであった。


外交策略

 感謝祭の木曜日、必要と思われる命令が真珠湾と太平洋の他の米国基地に出されるやいなや、ルーズベルト大統領は、予定通り午後2時に日本のワシントン駐在大使、野村と来栖と面会した。大統領は、ハル長官より笑顔と親しさをもって対話に当たったものの、彼は米国の妥協の余地をみせることはなく、ハルの頑固さにならった。
 その夕、来栖は東京の外務省員の一人から電話を受け取り、その会見の報告を求められた。その部下とは、山本熊一という名だったが、山本長官の親戚関係者ではない。その時、東京は翌日の昼ころで、山本ははっきりと目を覚ましており、先に打ち合わせてあった符牒を用いて会話し、他方、疲れていた来栖には困難な遣り取りとなった。太平洋横断電話回線を傍受していた米海軍担当者は、以下のようなその会話に笑いをこらえられなかった。
 こうして、ワシントンの日本大使とその盗聴者は、ハル・ノートへの返答が開戦であることを知り、裕仁への伝言は事態を改善せず、それをもって、外交交渉は日本の最終段階の準備を隠す見せかけとしてのみ継続された。
 ルーズベルト大統領は、来栖・山本のやり取りを知って、その翌日の11月28日金曜、正午、戦時内閣――ハル、スティムソン、ノックス、マーシャルそしてスターク――を招集した。彼らはその週末、戦争の可能性について、取沙汰されている真珠湾については一度も触れることなく議論した(120)。ルーズベルトはいまだに、天皇裕仁に私的訴えを送ること――今やたとえ記録として残すためだけであるとしても――への望みを捨て切れていなかった。彼の顧問団は、それ以上に議会――記録を残すために――を意識していた。彼らはルーズベルト大統領に、日本との戦争がいまにも起こるかもしれないと警告する立法議会への声明を発するように要請した。
 スティムソンが日記に書いているように、大統領は 「別途に彼の書簡を天皇に送ることがひとつで、これは極秘のことだ。一方、これも別途に議会で演説を行い、これは合衆国の国民にはもっと理解できやすいことだ。これは時の最終決断となるもので、大統領はハルとノックスと私に、それらの草稿作りを依頼した。」
 その日の後になって、大統領と顧問団は、日本が南アメリカの大使館と領事館にあらゆる暗号と極秘書類を破棄する命令を発したことを傍受したと通知された。
 11月29日土曜、ハル国務長官は来栖と野村に、自分は日本が望むんでいる限り、交渉を続けるつもりであることを伝えた。だが彼が知人に内々に述べたところでは、それは記録のためではないとしても、少なくとも、 「記録に残そうと意図するもの」であった。
 ルーズベルトはその週末、北ジョージア山中のワーム・スプリングス――彼はここに小児麻痺患者仲間のための療養所を設立した――に引っ込み、事態の進展を見守った。しかし、その間には何事も起こらなかった。中国沿岸を南下している日本軍師団はインドシナに上陸し、最終命令を待っていた。後にマーシャル長官が、あっけない結末、と表現しているように、「我々がそうとう的確に把握できている中国沿岸で生じている動きの継続以外、何事も起こることなく、我々は12月に入った・・・」。
 一方、東京では、裕仁は、数週間前に承認された計画に従って、悠々とかつ時計のような正確さをもって、疾走していた。11月29日土曜の正午、東条の反対を押して、彼は以前の首相経験者と昼食を共にし、デザート後より始まる公式の長老政治家会議において、彼らの見解を発表するように激励した(121)。八人の元首相が出席し、うち四人は軍人で、四人が民間人だった。彼らのうちの7人はいずれも、戦争不必要見解には反対し、また、意見を述べるには最近の情報の不足を不満げに表した。八人のうちのただ一人、文官外交官の広田が戦争を承認し、米国の軍事力によって保有されている領土を獲得する用意と能力を表すことなく、米国との交渉に際する日本の立場は改善できないと感じるがゆえ、彼はそれに賛同すると述べた。天皇に代って木戸内大臣は、そうした意見に謝意を表し、見解の相違に関わらず、戦争はまさに開始されんとしており、その前例のない国家的危機にあって、その全員が日本の結束を助ける愛国者であることを求めた(122)
 長老政治家が宮廷を去ると直ちに、東条首相は閣僚と統帥部による連絡会議を開いた(123)。その会議には、三人以上の 「某人物」 が参加し、あたかも皇室メンバーであるかのように、権威をもって発言した。彼らは、ワシントンで交渉を続ける価値を検証し、機密性と奇襲性への配慮は、外交的背信や不名誉をはるかに上回って重要であると結論した。おそらく、閑院親王と思われる某人物はこう表明した。 「私は、我が国の外交は、戦争に勝つように実行されると考えたい」。
 翌日の午後1時30分、木戸内大臣は、裕仁の次の弟、高松親王邸に呼ばれた。末の弟の三笠親王の同席のもと、高松は木戸に、海軍一般幕僚の将官らは、海軍の能力は戦争に勝利することに自信をもてないと、天皇に訴えることに同意していると告げた。 木戸は2時30分に宮廷に戻り、天皇との機密の保持された謁見のため、一時間待機した。(124)
 裕仁は、高松の訴えを聞いた後に言った。 「海軍が意見の全員一致を得るに大きな困難があるのであれば、私は、日米戦争を避けるべきと感じるが、もしそれが厳密に可能としても、私がどう現実的にそう統率していけるのであろうか。」(125)
 木戸は答えて言った。 「皇位にとって、たとえ長い熟考の後であろうとも、もし陛下のお気持ちに何らかの疑いの影がある際に、一歩をすすめようとするのは正しいことではありません。これはことに、この決定が甚大に貴重なものである現在の状況においてはことさらの真実であります。したがって、私は陛下の申し上げます。まず海軍大臣と海軍軍令部総長を呼び、何が海軍の心底の感覚なのかと確かめになられてはいかがでしょうか。そしてさらに、この問題において、首相を埒外に置いてはならず、陛下は彼と相談なされてはどうでしょうか。」(126)
 3時30分、東条首相は裕仁に謁見し、木戸がそれに立ち会った。その後、島田海軍大臣と永野海軍軍令部総長は天皇と、およそ二時間にわたって協議した。木戸は、天皇の執務室の外で、侍従武官長と4時まで、そして、侍従長と6時まで話しながら、休みもとらずに待ち続けた(127)。ついに6時35分、木戸は天皇に呼ばれた。裕仁は言った。
  「東条首相に、計画通りにすすめるよう指示した。海軍大臣と海軍軍令部総長には、我々の戦勝のチャンスについての私の質問には、肯定的返答を与えた。」(128)
 木戸は日記にこう記した。 「私は直ちに首相に電話をし、上記について知らせた。周防家との夕食に立ち寄り、帰宅したのは夜中ごろだった。」(129)
 この夜中は、先に決められた期限の日で、それ以降、戦争は自動的に開始と動き、交渉は見せかけのものとなった。


一週間の不思議な静寂

 14時間後の11月30日、日曜のワシントン時間の真夜中、決着のつかぬモスクワ戦線は、引き続いて西洋諸国の注目を集め、他方、日米関係の危機的週末は何事も生じずに次の週に移りつつあるかに見えた。連合軍の情報局は、枢軸国は週末や休日によく攻撃をしかけると観測していた。クリスマスの買い物の時期にもなっていた。結局は、日本ははったりをかけているのかも知れなかった。
 だがまさにその時、東京時間の12月1日月曜、午後2時、裕仁は御前会議を招集する命令を出させ、開戦の最終司令を与えようとしていた。その会議は儀式以上のものではなかったが、その最中、いくつかの新たな見解が明らかにされた。東郷外相は、米国との八ヶ月にわたる不毛な交渉を総括した。永野海軍軍令部総長は、海軍が自信を取り戻した二日前の宣言を再確認した。東条首相は、ようやくにして、国家の道義について話した。(130)
 東条はこう述べた。「国民の見方を落ち着かせるために、世論を導くと同時に、むしろ厳格な統制をしく必要がある」。
 賀屋蔵相は、 「我国の長期的金融・財政的能力」 についての膨大な報告を披瀝した。その中で、彼は、政府は、全ての銀行、全ての基幹産業、そして全ての戦争被害者の負債を肩代わりすることを約束した。彼は、 「日本合同証券会社による無制限買付け」 の措置により株式市場買い支えることを請け合った。
 井野碩哉
〔てつや〕農相は、長期戦となった時の国の食糧事情について、同じように詳細で、空理的で、悲観的な報告を提示した。
 最後に、原枢密院議長が起立し、皇位に代って言った。彼は、内閣企画院の鈴木を、敵の焼夷弾空襲の恐れに対する不十分な準備について批判した。適切な防火装置を求める皇位の要望を代弁しつつ、なぜ裕仁が戦争決定に正当性を感じるかを歯に衣を着せずに説明した。
 皇位に返答して、東条首相が述べた。
 こうした議事の物悲しく空ろな響きは、裕仁には何の感銘ももたらさなかった。杉山ノートによれば、「本日の会議でなされた声明にうなずいて同意され、何らの困難の様子も見せなかった。彼は精神の高揚にあられたようで、我々はみな畏怖の念にとらわれた。」
 その日の後になって、杉山が皇位に、ちょうど出し終わったサイゴンへの 「南方方面部隊の責務に関して」 との命令の報告をした際、裕仁はこう述べた。 「我々は事態を避けることができない。陸軍、海軍が協力することを願う。」(131)
 杉山は裕仁の丁重さに深く動かされたことを表すと、裕仁は、「米軍の作戦配置に何か変化はあったか」 と尋ねた。
  「今朝の陛下への報告以後、米海兵隊の2中隊――各々約400名――が(補充部隊として)マニラに到着したと聞いております」 と杉山が返答した。
 裕仁は、 「たいへん満足です」 と述べてうなずいた。 
 その夜、日本海軍のすべての艦船は呼出し信号を変えた。
 翌12月2日、火曜日の朝、裕仁は杉山陸軍参謀総長に大海令第12号を発令する許可を与えた。これは、各日本艦隊の司令官に、攻撃の日は12月8日であることを告げるものであった。長官暗号によるこの電文は米軍情報部では解読されなかった。山本は、この命令を彼自身の文面にして、真珠湾に向かっている艦隊に伝えた。曰く、「新高山1208に登れ」(132)。新高山とは、日本帝国の最高峰だった。
 東京時間のその夜、真珠湾時間で火曜の朝、ハワイのキンメル提督は、日本艦隊の信号を傍受している海軍情報将校からの電話を受け取った。日本艦船の行動分析は、前日の呼出し信号の変更で混乱しているとの報告だった。その混乱は、入ってくる信号の多くが陸上基地からの発信によるにせのものという、一部の熟練分析者の疑惑を含んだものだった。結局、海軍情報部は、その前の週の日本空母からの信号は本物ではなかったと覚った。つまり、日本の空母は 「行方不明」 となっていた。
 キンメル提督は、「ということは、やつらがダイヤモンド・ヘッドあたりをうろついていても、お前たちはそれも解らんというのか」 と信じられんと言わんばかりに聞き返した。
 情報担当将校のエドウィン・T・レイトン少佐は、 「これまでに視界に入っていると望みます」、と返答した。(133)
 12月3日、水曜日、日本の真珠湾艦隊は、真珠湾の北西約2,300マイル
〔3,680km〕の、北緯42度、東経170度の何もない北太平洋の集合地点にあった。その海域は、少々波があり、薄く霧が立ち込めており、空母は、この歴史的航海に長々と付き添ってきた油送船から給油を受けていた。そこで、そうした油送船と随伴した短航続距離の駆逐艦は日本へ引返し、ハワイへの電撃的進撃を行う高速の軽空母を残して戻って行った。
 進撃を開始する前の空母が給油を受けている最中、裕仁は、前例のない連合艦隊司令官への秘密の私的謁見を与え、その命令を再確認していた。山本長官は、本国海域にあって、散在する彼の全艦船の動きを同調させることに余念がなかった。彼は今も裕仁に、日本は長期戦では敗れるとの恐れを繰り返していた。裕仁は、この戦争は正当で避けられないものであると信じる理由を繰り返した。山本は、最善を尽くし、己を忘れて戦うことを約束した。その電話、無線、長官暗号通しての謁見の後、山本は空母を発進させた。
 またその日、ベルリンとローマの日本特使は、日米戦が勃発した場合、日本の枢軸相手国がとる立場について打診を重ねていた。ベルリンの大島大使は、リーベントロップ外相に、何が起ころうとしているかは告げなかったが、彼から、日本が日米戦を開始するや否や、ドイツは米国に宣戦布告し、日本とドイツは、休戦条件に両国が満足しない限り、戦争を止めないという誓約を引き出していた。ローマの日本大使、堀切善平は、もっと直裁で、ムッソリーニの外交秘書、ガレアッツオ:チアノ伯爵は、その夜、自分の日記にこう記していた。
 12月4日、木曜日までに、日本と米国との間の戦争状態は未宣言であったが、事実上、戦争状態であるのは双方にとって明らかなことと理解されていた。ジャワのバタビアの米国領事、ウォルター・フーテは、自宅の裏庭で暗号表を燃やしており、隣に住む日本の同職者は、塀の向こうで、同じように機密文書を燃やしていた(136)
 その夜、日本海軍はその呼出し信号を変え、その艦船の従来の信号をごちゃ混ぜにしただけでなく、一時的に解読不能とさせた。米国海軍の暗合専門家は、自分たちの作業をその未解読の長官暗号に優先して取組み、数日のうちに新しい艦隊信号を突き止めた時には、真珠湾攻撃は終わっていた。
 東京時間の12月5日、金曜日の朝、「マレーの虎」こと山下中将とその永年の右腕辻大佐の日本軍機動部隊は、海南島のサマ港を出航し、マラヤの海岸へむけ、公然たる侵攻を開始した(137)。その日のその後、東京では、裕仁が、コーデル・ハルに最終文書を渡すための海軍日程に許可を与えた。彼は、それが、真珠湾攻撃の予定時刻のわずか30分前に、外交関係決裂を米国に通告するものであることは承知の上だった。

 絶対時間で言えばその後、米国の金曜朝のハースト紙は、特ダネとして 「ルーズベルトの戦争計画」 との見出しを掲げていた。その名はいまだに明らかでないのだが、軍部内の孤立した集団が、幕僚本部より、戦争が勃発した際に国民を動員する本物の緊急計画文書の一部を漏らしたものであった。アメリカ社会は、その後に生じた政治的告発とその逆告発によって、それからの二日間、大騒動となった。
 ワシントン時間ではその夜。東京時間では翌12月6日、土曜の朝、日本の一般幕僚と閣僚が連絡会議を開き、米国に提示される最終文書の期日について、責任をもtって何時とするかを討議した。さほどの遣り取りもなく、参列者は、同文書は日本時間の12月7日、午前4時――攻撃予定時刻の23時間30分前――に発信され、「日本時間の12月8日の午前3時に大統領に渡される」とされた。この時刻は、ワシントン時間では12月7日午後1時、真珠湾時間では12月7日の午前7時30分であった。(138)



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