「エリート」の反撃:ハワード新保守主義の成功を解剖
The elites strike back: dissecting Howard's neo-liberal triumph
By Geoffrey Barker, Australian Financial Review, 13-14 March 2004
翻訳 松崎 元



ハワード政府の八年間が、オーストラリアの政治的伝統をいかに変貌させ、国益を新たに定義し直したかについて、ロバート・マン(Robert Manne)の著した『ハワードの時代(The Howard Years)』を読む限り、懸念といやな予兆を感じないではいられない。

ジョン・ハワード政権がもたらした成果は、躊躇なき強引なスタイルの政治的、経済的政策の成功のたまものであったが、過度に無批判かつ皮相的なメディアにより、その失政は過小化され、その成果は過大化されてきた。

ハワードの三選は、国民のムードを嗅ぎ取る彼の鋭い直感と、そのムードを政権への支持票へと結びつける能力の成果であった。

それに加えて、ハワード政府は容赦なく労働組合を攻撃し、民族差別と義憤の政治を展開し、救援を求める難民を忌み嫌って排除し、オーストラリアの伝統であった、官僚の能力、公共サービス、司法の独立を無力化してきた。

その社会、環境、高度教育政策は、社会の必要よりイデオロギーを優先させた観点で執行され、その外交政策は、あまりにも赤裸々に、無批判で追随的な姿勢をもって、攻撃的な米国政府にオーストラリアを接近させてきた。

こうした問題は、注目されるべきこのロバート・マンの論文集で取り上げられ、論じられており、ジョン・ハワードに牛耳られたオーストラリアの不気味な姿を浮き彫りにしている。著名でアカデミックな論者たちによるそれぞれの論文は、成功した国家とのイメージや満足感にひたる政府の別の面を描き出している。

ロバート・マンは、この『ハワードの時代』に著された見解は、「『エリート』という新たな疎外的レッテルを張られて見くびられ、政府支持者にはことごとく無視されてきた」者らになる少数意見であると、本書前文で認めている。

ハワード政府のイデオロギー優先のタカ派グループは、その批判者を、「生活苦にあえぐ者」や「普通の人たち」とはかけ離れた「エリート」と呼んで無視している。だがそれはネオ・リベラル派ファンダメンタリストによるいわれのない攻撃で、その特権的な存在である彼らこそ、まさに、生活苦にあえぐ人たちとは縁遠いものなのである。

だが、ハワード政府にとっては、その攻撃は有効だった。彼の耳障りなポピュリズムと外界者への懐疑とのミックスは、冷戦後のテロリストの世界的暗躍で、国家保安への不安に動揺した選挙民に強い共鳴をもたらしてきた。平和時の首相のなかで、国旗と軍事力にこれほど熱心に自らを投じた首相は、ハワード以外には見あたらない。

マンが論じるように、オーストラリアについてのハワードの見方は、ANZACの伝統、仲間意識、武勇、追悼、記念、西洋的価値の戦闘的防衛、そして英米との衷心な親交を中心としてきた。

それは、それ自体においては何ら問題ではない。ただ、この政府は、軍備を充実させ、経済的地位を高め、(国民の)生活苦を改善し、そして責任ある世界市民であろうとしているその政府である。こうした観点からみれば、、マンの論文集の執筆者が述べているように、ハワード政府は、雇用、賃金、家計収入の改善にもかかわらず、そうした生活困窮者への熱心な取り組みにおいて、ほとんど何も見せてこなかった。エコノミストのジョン・クイギンは、必要ではなかった苦難が、そうした人々を、争いと崩れやすさに落とし入れていると指摘する。

軽口的できわめて皮肉ったエッセイのなかで、マンゴ・マックカラムはハワードを、「ゲームに勝利することやあらゆる技巧やトリックを習熟することにもっとも巧みで、脂ぎったトーテムポールをよじ登るに取り立てて策略的な」、知りうる限り最高の政治家と表現している。

だが、たとえハワードを「めくら虫の視野の広さや、しおれたレタスの想像性」の持ち主と揶揄しても、マックカラムは、ハワードの影響の永続性に心配しすぎなのかもしれない。ハワード時代に形成された「危機感、外人嫌い、盲目的愛国心」とマックカラムが命名することを、他の指導者や他の政府は、いともた易く抑圧してしまうかもしれない。

極めて味のあるエッセイとも言うべきは、ジュディス・ブレットの著作で、ハワード版リベラル政治手法と彼の人々の意見への無関心を分析している。

ブレットは、ハワードの「主流の人々」への訴えかけや、「我々すべてのための」政治と語りかける彼の言質が、どのように、「かっての過激な国粋主義者による象徴的なレパートリーであったものが、普通のオーストラリア人の経験に裏づけされた豪州リベラリズムに再生されてきたのか」という、彼のすりかえの経緯を明らかにしている。

もっとも怒りに彩られたエッセイは、ウイリアム・マレイのもので、難民と保護を求める人々に対するハワード政府の取り扱いを分析した辛らつな告発となっている。

マレイは読者にハワード政府のもっとも醜悪な特性を刻み付けることに成功している。すなわち、「人々の善良な直感に訴えかける代わりに、人々の魂にひそむ最も暗い奥底を表わすことを、この政府は奨励してきた」と彼は書いている。これは疑いなく、ハワードの時代のもっともおぞましい部分である。

マンはその前書きの中で、期待は、『ハワードの時代』がハワード政権の支持者や唱道者に興味がもたれれた暁に、その彼らが考えた末の反応である、と述べている。マンは楽観主義者であるようだ。

この本はだが、そうした支持者には振り向きもされず、また「エリート」と呼称されれる人たちはタカ派グループに黙殺される可能性が極めて高い。これこそ、ハワード政府の手法を物語っている。


    The Haward Years (Robert Manne ed.) Black Inc. Agenda, $29.95)

(2004.3.19)
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