主催者
ミニアコンカ、松田宏也氏、そしてある労災事件
私にとって、このミニアコンカ山には、いわくがあります。
 
2002年12月、中国四川、雲南両省の旅の際、峨眉山を訪れました。
 
その時、この名山の西に、ゴンガ山、別称ミニアコンカ山と呼ばれる高山があることは知っていましたが、正直なところ、それが自分とどうつながっているかとまでは、思いがいたりませんでした。
 
しかし、仙境と呼ばれる峨眉山には雲霞がつきもののはずですが、その日、山頂では素晴らしい天候にめぐまれ、雲海のかなたに浮かぶミニアコンカ峰の雄姿を目の当たりにしました。その出会いに深く感動しつつ、しかし、自分との関係で「何かがあったんだが」と考えながらも、それが何かはその際には思いだせず、胸中のなぞ解きのような思いが去らないまま下山しました。
 
帰国後、古い資料を掘りだしながらそのなぞが解けました。

それは、むかし、建設技術者を組織した労働組合の仕事をしていた時のことでした。

1979年の夏のこと、組合員のひとりが自殺未遂にいたった出来事がありました。

 
当時、私の担当する部門のひとつが安全衛生でした。さっそく私はチームを組んでこの事件の調査にあたりました。

やがて私たちの達した結論は、その自殺未遂行為が、加重な仕事のストレスを原因とする業務上災害である、というものでした。だが当時としてはとっぴすぎる結論でした。
 
業務上災害としての補償を求めた運動は、その後5年間におよびましたが、84年2月、全国初の事例として認定が下りました。メディアは、「心の病に初の労災認定」とトップニュースで報じました(右記事参照)。
 
こうして被災者であるその組合員Eさんは補償された治療生活に入り、神奈川県のリハビリ病院に入院しました。そこで、重症の凍傷で両手指と下肢を失い、同じくリハビリを続けていた松田宏也氏と出会うこととなりました。
 
松田氏は、たがいの励ましにと、タイトルである「足よ手よ、僕はまた登る」との手書きのメッセージを添えて、その生還の手記をEさんに贈りました。
 
だが、十年後の95年、Eさんは事故の際に受けた大量輸血の後遺症である肝臓動脈瘤が破裂してこの世を去りました。
 
その訃報をシドニーで受け取った時、私は博士号修得の知らせをもらった直後で、その明暗を分ける運命のギャップに茫然とさせられました。

2002年、峨眉山にあって、もちろんこの労災認定やEさんのことははっきりと脳裏にありましたが、その山がいま自分の眼前にある山であるとはまでには繋がらなかったのでした。

以上、他人には牽強付会な話にしか聞こえないかも知れませんが、私には、こうした一連のつながりは、ただの偶然の連鎖とは思えない話なのです。無意識下の一種の因縁のようなものを発見したのでした。

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この認定を報じる1984年
2月24日の朝日新聞朝刊

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