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思い深まる「お墓参り」
いきなりですが、私にとって、お墓参りがだんだん大切になってきています。
ただ、この「大切」というのは、儀式や風習としてそうするというのとはちょっと違い、他に何ら強いるものがなくとも、自分の気持ちとして、そうしたいものがあるからです。
というのは、生というのは、おおむね、完成の頂点で終わるものではないようで、無秩序に、完成なぞとは程遠い、未成の道程の最中に、時には猥雑でもあるごたごた状態のなかで、「はいっ、幕」、となってしまうようだと、とみに思えるようになったからです。
ですから、人が亡くなったと聞いても、それはおそらく、「はい、これまで」と、唐突に、理由もさだかにはつげられず、本人の事情も考慮されずに、途中で終わらされてしまったのではないかと受け止められ、せめてそのお墓の前にたたずんで、決して聞こえたりはしないのですが、何か交信が生まれるのではないかといった気持ちで、心のアンテナを全開にした状態を持ちたくなるのです。
こうして、年を加えるにつれ、若い頃、義務感の外には、興味もわかなかったお墓参りが、私の心のどこかに、ある居場所を定めはじめ、しだいしだいの変化ではありながら、その大きな変わり具合に、自分でも不思議に思わされています。
この意外な変化のうち、はっきりしていることは (当たり前のことでもありますが)、私の身の回りに、旅立ってゆく人たちを体験するようになったことと関係していることです。精神分析的に言えば、「お墓参り」という行為は、どうやら一種の代償機制のようで、その存在が自分にとって大切であった人を失い、行方のないその人への思いを、そうした行為によって、代償しているもののようです。
また、これは、そうした行為をとる自分自身を体験してはじめて気付いたことですが、そうした、墓参に代表される物故者と自分をつなぐ行為にかかわりつつ、自分の中に一種の
《身体なき精神》 とでも言うような何かについてのイメージを持ち始めていることがあります。つまり、両親なり親友なりを亡くし、身体としてのその人たちはもはや存在しないのですが、私のうちの、思い出としての記憶ばかりでなく、その人の人格や価値観や道半ばで終わった志などの精神界は、身体がほろんだからといって消えるものではなく、少なくとも、それを知る私の中に、単なる記憶以上のものとして、生き続けています。
それを何と呼ぶかと自問した場合、それは、世でいう「魂」というものと、それほど違ったものではないのじゃないか、と納得しはじめているところです。
ただ、ならばそうした「魂」なるものが、どこに存在しているのかとさらに自問した時、あきらかに、その居場所は私の心の中で、それ以外の所に宿りようはありません。しかし、そのようにいったん名前を与えてしまうと、なにやらそうした存在が、どこかに実在するかのような感覚としておこってきたりもします。
心のうちの、そうした生き続ける死者の精神界が「どこかに実在するかのような感覚」として定着したりすると、あるおぼろげな想像上の行為者像といったようなイメージがさらに私の内に形成されるようになります。そして、それがさらに、私自身の世界観などと結びついたりするなどして昇華するにつれ、その「行為者像」が、究極的には、仮に「神的なもの」と呼称してもよいような、ある崇高な何かを形成するようになります(それを「闇」とか「狂気」とかと言う人もいます)。こうした体験をもって、私にとっての「宗教の起源」なのか、とも思ったりしているわけです。
ともあれ、こうした私的《宗教の起源》には、誰かの死にともなう、「身体と精神の分離」という思考体験が確かなきっかけとなっていることは疑いありません。
ただここで、念のために付け加えておきたいことは、そうした《宗教の起源》を体験したとしても、それをもって、いわゆる超自然現象を信じるというのとは異なります。むろん、ある苦しい時に、そうした昇天した誰かが、どこかで私を見ていて助けにきてくれないか、などと「神頼み」したくなることがなかったわけではありません。しかし、だからと言って、苦しい事態の奇跡的好転がおこったりした経験をしたことがあるわけでもありません。まして、結果的に苦難がうまく克服できた場合、それはいわゆる頑張り(プラス適度の運)の賜物と考えるほかなく、ただ、そんな手前勝手な援助の期待を抱いたりしたものですから、密かに、心中の皆さんに、感謝の気持ちをもったりはしています。
そうした折、ひとつの興味深い見解に接しました。米国、エール大学、心理学・言語学教授ポール・ブルーム氏が書いた「The Accidental God」という論文です。
ブルーム教授は、子供が成長する過程の研究から、乳幼児の認識にとっての(1)物理的現象と(2)社会的・心理的現象の二つに注目し、それらを理解する程度や速度の違いの発見(後者が遅れる傾向があり、自閉症児はそれが著しい)を通じ、乳幼児が<物質の世界>と<心の世界>を根本的に違う二つの世界として区別して理解しているといいます。
たとえば、幼児に、ワニに食べられるネズミの話を聞かすと、幼児たちは、ネズミが死んでしまったことは理解するものの、死んだはずのネズミがまだ、「お腹が空いている」とか、「お家にかえりたがっている」とかと答えることから、前者、つまり<物質の世界>の理解より、後者<心の世界>の理解が遅れる傾向を指摘しています。
そしてこれが、人間をめぐる身体と精神という<認識の二重性>を形成する起源となり、それがひいては、宗教的信念にむすびつく端緒となると主張しています。なお、本サイトでは、同論文の翻訳「偶然の産物としての神」を添付しましたので、詳細はそれをご覧ください。
私が子供の頃、ブルーム教授が主張するような<認識の二重性>をもっていたかどうかは記憶にありませんが、死んだはずの動物の「心理」がまだ生きているかに考えるような傾向を、子供らしい誤解として受け止めているようなケースは、私の周囲でも、少なくなく目撃してきたように思います。
幼児期に始まるそうした<認識の二重性>が、それだけで、神の信仰に結びつくものかどうかは疑問ですが、私たち人間にとって、教授の言う幼児期に発する<認識の二重性>を基盤に、愛するものの死が、宗教心へと発達してゆく可能性は十分ありうるものと思います。
その意味では、教授が結論する、「宗教の普遍的テーマは、・・・私たちの精神構造がもたらす偶然の産物なのであり、人間性の一部なのである」 という主張は、うなずけるものがあると思います。
そのようなことから、宗教について、昔、私が、さほどの抵抗なく受け入れた 「宗教アヘン説」 などは、それだけに頼るには相当無理のある見解だなと思いはじめている一方、そうした自然な発生根拠をもつ宗教心が、どれほどに悪用されてきているかについても、(世界を、悪の枢軸国かそうでないかに二分してはばからぬ程度の宗教心を、「神」を口にしながら披瀝しえるるブッシュ大統領を見ればなおさら)、いっそう注意して臨まねばならないな、と考えさせられています。
最後に、ひとつ言っておかねばならないことがあります。それは、そうしてイメージされつつある、その何か「神的なもの」ですが、それが何かは、完成されたものとしての表現は不可能なものです。有限存在としての一人の人間たる私が、永遠的存在であるはずのそれを、どうやって表しうるのでしょう。そういう意味で、私は、形ある宗教をもちたいとは思いません。
(松崎 元、2006年1月7日)
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