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翻訳
あやつられた幸福
出典: The Happiness Conspiracy by John F. Schumaker、The Australian Financial Review, 23-24 September
2006.
- John F. Schumaker は、ニュージーランドの臨床心理学者で、The Age of Insanity 〔狂気の時代〕 の著者。
1983年、カナダ人ギター・シンガーのブルース・コックバーン は、「普通 〔normal〕 でいることの問題は、常に悪化してゆくことだ」 と歌った。彼が言わんとしているのはこういうことのようだ。もはや普通であるだけでは不充分。そして今や、それに代わるご託宣は
「幸福」 である。今、社会には、「どうやって幸福になるか」 という本、記事、テレビ・ラジオ番組、ビデオ、ウェブサイトがあふれている。幸福についての研究所、宿泊セミナー、クラブ、教室、クルーズ、討論会、保養所などもある。大学は、競って幸福学コースを増設している。目下成長中の専門職は、幸福カウンシル、幸福コーチ、「生活活性化」
コーチ、「楽しみ」 学、幸福科学などなどである。かくして個的幸福はビッグビジネスと化し、誰もががそれを売り出している。たとえ天変地異がおころうとも、幸福志向であることは変わりそうもない。悲観論者や批判家はそれに抗おうとしているが、幸福ゲームの応援団員は鉄拳を突きあげて試合に臨もうとしている。だが、ほんのわずかな勇気ある人々のみが、この応援合戦、少なくとも右にならえ現象に、一線を画そうとしている。
幸福をあさる豚
しかし、この 「幸福症」 社会は、どう見ても健康ではない。幸福感にとりつかれた人ほど、幸福の維持に事欠く人はいない。幸福で意味ある人生とは、幸福ではなく、情理に富む能力とその磨き上げによる。
アインシュタインは、「幸福が私の究極的目的となったことは一度たりとてない」 と言い、「そうした目的が豚の望みと比べられると思ったことすらない。私の道を照らし出す考えは、親切さ、美しさ、そして真実性だ」、と語った。
もし私たちが、幸福という餌箱をあさる豚と化しているとするなら、上記のような諸現象は当然かもしれない。意味をめぐる高い水準が遠ざけられる時、良さを感じる人生の目的も縮んでしまう。純粋無垢という根源が枯れ細ってしまっている。我々は、いまほど完全に、抑うつ症状に適した文化的土壌に生息したことはない。
その他に考えられる幸福遮断要因に、物質主義、限りのない不満、無意味な複雑性、過度の競争、ストレス、怒り、退屈、孤独、生きる実感のなさなどがある。そして私たちは、自然から遠ざけられ、仕事と結婚したも同然で、家族や友人を忘れ、精神的に窮乏し、睡眠を奪われ、身体は不健康かつ不恰好で、そして借金の奴隷となっている。
行きすぎはもうたくさんである。すべてが限度まで拡大され、困難な感覚なしではいられない。幸福ブームとは、その心底で、現代生活の意味を問うていると言ってよい。
私たちは、50年前のわずか三分の一しか笑っていない。だから、笑いクラブや笑いセラピーがおおはやりなのだ。私たちが行うセックスも減っており、かつ、その楽しみも減少している。しかも、性は大きく規制緩和され、後ろめたい感覚なしで様々なアダルト商品が買える時代にあってそうなのである。
つまり、メンタルヘルスや人格的成長、もっと広くは、生存実感といった意味において幸福を測ったとするなら、私たちは、歴史上、これほどに貧しい社会で生活したことはないのである。
消費者文化
その社会の主流をなす価値観が、何を幸福と見るかを支配している。
たとえば、米国南西部に住むナバホ族は、幸福を、「ホゾホー」 と呼ぶ宇宙の美への到達として見る。私たちの言葉で言う 「いい一日を」 は、彼らの言葉では 「美の中を歩けますよう」 と言う。
自己充足が、今日の私たちの幸福を計るもっとも一般的な尺度 (生活充足度スケールとかといったもので計量して) となっている。つまり、消費者文化が、自分の欲望やその充足をいかにも意義あることのように見せかけ、その支配的価値観を反映させている。この方法で計量すれば、たとえそもそもの偽物が充足されているのだとしても、ほとんどすべての人がそこそこ幸福と見えてしまうのである。たとえ抑うつ状態にある人でも、「自己充足度」 という尺度にかかれば、高い割合で幸福とされてしまうのである。
19世紀半ばですでに、幸福が、その社会的、精神的、倫理的、理知的根源を失い、一種の感傷的自慰行為に堕している、ということが指摘されていた。こうした情況を見下し、ジョン・スチュアート・ミルはその1863年の古典的著作
『功利主義』 の中で、「ばかを満足させることは、ソクラテスを不満足にさせるより、はるかに良いことだ」 と述べている。
完璧な充足は、じつは、幸福にとっては障害物になりえる。画家、サルバドール・ダリは、「充足のし過ぎによって死にかけていると思った日々があった」、と嘆いている。楽園に手に届くところにありながら、距離を保つというのは、生きていく道としては、はるかに賢明なことである。すべてを得てしまった人びとは、つつましさと窮乏のわざを学ぶ必要がある。
儲けあるゆえに我あり
幸福の最高の姿は、つねに愛として経験され表現されてきた。しかし、幸福は、日増しに、こうした生きいきとした次元を欠いた自閉症的方法によって追求されている。最近の調査によれば、わずか1パーセントの人が、人生でもっとも望むものとして
「真実の愛」 と答えているのみである。私たちの生活水準は向上したが、愛情水準は大下落した。こうした今日の自己陶酔的幸福に対する反省として、幸福を徳と同じものとした、古代ギリシャの哲学者の見方が再評価されている。ことにそうした哲学者が推奨したものは、忠誠、友情、中庸、率直、同情、そして、信頼である。調査によると、今日では、幸福が顕著な上昇を見せるなか、こうした要素はことごとく急速な減衰を示している。真実の愛や真の幸福のように、こうした要素は、今や不経済になりつつある。作家、ジョン・アップダイクは、「アメリカは、人を幸福にさせる巨大な陰謀の地」
と警告し、経済をもって我々の存在に枠をはめる策謀を巧みに浸透させ、表面的な大衆的幸福現象をもたらしている、と述べている。儲けあるゆえに我あり。幸福になるため飽食する。しかも、その支払いは借金で。作家、J.
D. サリンジャーは、このあやつられた幸福に危機感をいだき、「私は、一種、逆行に狂信的だ。人びとは、幸福になる策謀に加担させられている」 と書いている。誤ったタイプの幸福は、幸福がまったく感じられないこと以下と言っても良い。
政府は、こうしたあやつられた幸福の最大の推進者である。人に優しい、あるいは、自然に優しい幸福を促進するといった政策は、頑強な抵抗にあってしかるべきである。
最上の消費者は、物欲しがり屋のナルシストで、あるつかの間の欲望から、次のそれへと蝶のように飛び回り、しかし、決して深くは満足せず、しかも新たな充足を求めて飽くことを知らない人たちのことである。私たちの社会経済システムの総体は、こうした
「理想的市民」 を放出するよう仕組まれている。飽満は、欲深さと没消費的幸福の経済にとって、最大の眼目である。
古い未来
私たちが持つ幸福への純真さは、「お金は私たちを幸福にしてくれる?」 といった平凡な質問にも現れている。
私は、1978年のある日、タンザニア西部の僻地の村で立ち往生した際、自分の幸福感がいかにちっぽけなものであったのかを発見することとなった。そこで私は、本当の幸福にはじめて出合った。それ以来、幸福が、遺伝学や個人的選択といった今流な考え方より、もっと文化的要素を伴っていることを学んた。だから、最近、アフリカの一国、ナイジェリアが世界でもっとも幸福な国であることが発見されたと聞いても、私は驚かなかった。幸福な社会についての研究は、社会的結びつき、精神性、素朴さ、つつましい期待、感謝の気持ち、忍耐、触れ合い、音楽、感動、遊び、そして休息時間などがもつ重要性を気付かせてくれている。
ヒマラヤのラダクの小国は、幸福な社会についての、もっとも文献化された一事例である。ヘレーナ・ノーバーグ=ホッジがその著書、『古い未来〔Ancient
Futures〕』 に書いているように、ラダク人は際立って喜びにあふれ生きいきとした人びとで、しかもその厳しい環境にも調和して暮らしている。その文化は、相互の尊敬、共同体意識、共有への熱意、自然への崇敬、感謝、そして生命への愛より生じている。またその価値観は、優しさ、共感、丁寧さ、霊魂の尊敬、そして環境保全により育まれている。暴力、差別、強欲、力の乱用などは存在していない。その社会のどこにも、抑うつ症や燃え尽き症の人は発見されていない。
しかし、1980年、消費資本主義が、かかげる希望と社会的疾病という賜物を伴って、その社会のドアをたたき始めた。その翌年、新任のラダクの開発長官はこう表明した。「ラダクを開発途上に乗せようとするためには、なんとかしてこの人々を、もっと欲深にさせなければならない。」
そうした開発者は凱旋し、欲深な経済が根付いた。そして今日、この小国がもつ問題は、悪化する精神的健康、家族崩壊、犯罪、土壌劣化、失業、貧富格差の拡大、汚染、都市空洞化なのである。
文筆家、テッド・トレイナーは、1980年以前に、ラダクの人びとは 「とてつもなく幸福」 だったと書いている。彼は、その悲劇的物語の中で、我々が賞賛する開発、成長、そして進歩の目標について、その酔いから醒めるべき教訓を提示している。それは、幸福な人びとより、幸福の経済を作ろうとする、便宜的神話の存在である。
真の幸福
今日私たちが目撃しているように、正常さが失われる時、幸福は一種の抵抗へと向かう。幻滅した人びとは、その商機社会のうつろな中核を表出させた 「文化的行き詰まり」
や 「荒廃」 に発露を求める。また、そうでない人びとも、何らかの形の退行や自然志向へと逃避しようとする。そこで、こうした動向が契機となって、前石器時代の祖先は今日の人々より、はるかに生きいきとしており幸福であったと示唆する、認識考古学の分野の議論が引き合いに出される。さらに、前石器あるいは石器時代の栄養学へも関心が注がれ、その当時の人間がいっそう幸福な身体をしていたとの確信ともなる。
哲学者、フリードリッヒ・ニーチェによる絶妙な見方がある。彼は幸福の要点のひとつに触れて、「最も些細なもの、最もしなやかなで軽いもの、ひとつの微音や一息の呼吸、そして一瞬のいとま」
に感謝する必要をいう。逆説的だが、幸福は、我々が上昇する時にではなく、ひざまずく時に、もっとも接近できる。
私たちはよく、自らの感情の発露を、エゴや野心や権力や有名度に求める。先見ある人は、地球の歴史のこの危険な情況にあって、意味ある唯一の幸福は、永続しうる幸福であると指摘する。しかし、消費者主義の時代にあって、私たちを幸福にする大概のものは、自然の破壊と利己的使用につながるものばかりである。永続しうる幸福とは、私たちが生き、かつ、未来の世代の良き生活にもつながる、より広い視点への責任を意味する。
永続する幸福はまた、ギリシャの古典的哲学者に立ち返えり、人間の幸福のための道理にかなった方法として、倫理的生き方への見直しをもたらしている。ことに、同情共苦心はその核心である。それは、時には、たとえ収穫に至らずとも、幸福の種をまくことに幸福であれる、との真実に拠って立っている。
永続する幸福が根付くには、我々は余りに利己的にプログラムされ、余りに消費過多の社会に住まわされている。しかも民主々義自体からして問題で、過半数が誤りの道を選択してしまうことすらある。しかし、もし、私たちが最初の数歩を歩むことに慎重であるなら、私たちは、幸福が深く共鳴し合い、その価値をなすことを再発見しうる。
幸福の追求にあたっての最大の皮肉は、それが決して個人の問題で終わらないことである。幸福が成熟したものとなり、心に触れ合うものとなるために、今の私たちに関わるものであれ、明日の子供たちに関るものであれ、それは共有されるものでなければならない。
(翻訳: 松崎 元、小見出しは訳者。2006年9月27日)
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