「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る


       人の物化と物の人化


 このタイトルは、マルクスの言う 「Personification of things and reificiation of persons」 の私なりの訳なのですが、その読み方は、 「ひとの ものか と ものの ひとか」 としたいと思います。

 実は私は、この 「両生空間」 を、このようにインターネットを通じて無料で公開することに、けっこう悩んだ末にたどりつきました。
 というのは、安易な願望が、「売れればいい、いや、きっと売れる」 と、そうとう深刻に思わせもしてきました。また、それだけの価値があるから本にして出版してはどうか、と言ってくれる人もいるのですが、でも、「いまのところは」 と、婉曲にお断りもしてきました。
 つまり、これはきっと私の意固地なのでしょうが、 「両生空間」 という、自分の本懐をあらわしている作品を、本として出版し、商品として扱わさせることに、けっこうな居心地の悪さを感じてしまいそうだからなのです。私のどこかにある 《やわ心に言わせれば、そういう
扱いって、結構、むごいことだな、と断じてしまうのです。

 もちろん、この世の中、お金を稼がなくては生活に不自由をきたす結果となるのは承知しています。ですから、この不可避な命題 (無産者でありますので) について編み出した私の処方は、「出る」 を押さえ (商品経済の尻馬に乗せられない) 、「入る」 に当てる時間を制限、工夫して、いうなれば、そのための 《聖域をそのように確保することによって、 「両生空間」 などをそこにおさめ、ある種の両立をはかることです。そうです、一種の二重(ふたえ)の構えです。

 そうしたわけで、この 「両生空間」 という、いわば 「ボランティア・ワーク を続けてきているのですが、ボランティアの働きには、ある種のすがすがしさがあります。
 というのは、まだ私が日本にいたころ、とある施設で暮らす知恵遅れの孤児少年の、親代わりというにはおこがましいのですが、定期的に自宅に連れてきて、数日を一緒に過ごすという、「ボランティア」 活動に首をつっこんだことがありました。(やがて渡豪を決めたため、それが続けられなくなったことは、その少年にかわいそうなことをしてしまったと、自責の念のようなものを感じています。)
 その少年と、ひと時を過ごす度に感じたことが、いつも、そういう 《すがすがしい 気持ちでした。
 なんと言うのでしょう、お金が介在していないということが、もしくは、ただ自分がそうしたいだけであるということが、なにはともあれ、そう感じさせる何かをもたらしていたようです。

 もし私が、渡豪もせず、また、インターネットという手段も得ていなかったなら、 「両生空間」 というアイデアをはじめ、そうした一連の作品をボランティアで発行するという、私のこの第二の 《すがすがしい 体験も、おそらく、味わえないで終わったことでしょう。
 今日、インターネットというテクノロジーが、わずかなコストで事実上の自己 「出版」 ができる機会を個人にもたらし、本来ならあり得なかった、個人と個人とを直接に結びつける、膨大な可能性を提供しています。自身のサイトを持つ個人が爆発的に増えているのも、思うに、こうした、商品化をへない 《すがすがしさ の回路を、皆がひそかに発見しつつあることも、そのひとつの理由なのではないかと思っています。
 もちろん、資本主義のたくましさは、こうした機会をただではほっておいてくれません。あるいは、そこに商機が見出せるからこそ、こうした新テクノロジーの発展が下支えされてきている側面も見逃せません。ちなみに、人気のある個人サイトは、それに広告が配給されるという形 (たとえば、グーグルのアドセンス) で、お金稼ぎの機会にも通じさせることもできます。聞くところでは、その収入が、副収入どころか、メインの収入にまでにもなっているケースもあるようです。
 ですから、私の 「両生空間」 でも、論理的には、そうした広告収入が発生する可能性はあります。そうではあるのですが、そうした 《すがすがしい 思いを体験してしまった私は、そこのところにこだわりを置きます。そして、自分の時間帯を区分けすることで、その 《すがすがしい 聖域を守り、しいて言えば、そのような商品化の魅惑の手からその自分を絶縁したいと思っています。そうでなくとも、この世の中、あえて望まぬとも、自身の商品化は、避けては通れない隘路なのですから。
 ここが、凡人と非凡を分けるところでしょうが、凡たる私は、商品である自分とそうでない自分とを分けざるをえません。そういう意味でも、そうしたふたつの自分、いわば 「二生」 を生きる 《両生》 生活の実践が、避けられないこととなっています。

 そうであるがゆえだと思いますが、マルクスは、そうした商品化こそ、 「人の物化」 のひとつとし、他方、“稼ぎのあるサイトがあたかも価値あるサイトかのごとく映り、あるいは、この世の中、商品が一人歩きをはじめ、あたかも擬人化したかのように人にのりうつってくる 「物の人化」 現象も、枚挙にいとまがないのだと思います。
 いずれにせよ、人が人であることを守れず、物が物の領域を超えてしまうこの世の中にあって、それでも 「意固地」 になにかを維持し、《すがすがしさ》 を求めてゆきたいとするその方法に、少しは手がとどきうるかとなと、思いはじめているところです。

 【付記 この 「物化」 を、 「物象化」 と訳したり呼んだりすることが多いようですが、学者はともかく、私の生活実感では、 「ものか」 の方が解りやすく、実感にも近いと思います。

 それと、当サイトには、いくつかの広告もどきのバナーがついていますが、無料のサービスを使うとついてしまうものです。アマゾンはアフィリエイトとなっていますが、本探しの便法にと載せているものです。


 (2008年5月8日)


 「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします