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第二期・両生学講座 第4回
私はいま、三十余年前のノートと再会し、当時の自分と 「相互邂逅」 をつづけています。
その個的ドラマは連載としてつづられているのですが、そうした現在進行中の記録と、この先さらに三十年後の私が再会したとしたら、それは一体どういうことになるのだろうか、とその他方で想像させるものがあります。
平均寿命から見れば、その再会は、この世とあの世を股にかけた異次元の再会となるのでしょうが――それはそれで興味深いのですが――、それがもし、この世同士の再会であれたなら、それはどんな体験になるのだろうかと、胸が高まるような、また、一抹の不安も否定できないような、とらえ切れない気持ちでいます。
それはなにしろ三十年後のことですから、いろいろ不確定なことが考えられるのですが、ひとつ確かなことは、この 『相互邂逅』 という記録 (他の書き物とも合わせて)
が、三十年前のようにノートに書き残されているのでなく、ウェブ上に書かれ公開されたものであることです。ですからそれは、もはやこの世にたったひと組存在するノートの束といった希少性はまったくなく、私が今向かっているこのPCがたとえ存在しなくなっていたとしても、それは残され続けている可能性があります。ひょっとすると将来、そんなサイトも出来ているかもしれませんが、
「古本屋」 ならぬ 「古サイト屋」 とでもいったバーチャル店の書棚に、それは、デジタル的に黄ばんだ様相で並べられているのかも知れません。もちろん、それを探すのは容易で、さらに高度に発達した検索サイトが、瞬時でそれを見つけてくれるでしょう。
ここで、第一の 「相互邂逅」 を、先にも書いたように、三次元空間に時間の次元を加えた 「テトラ両生学」 の分野の体験であったとすると、この第二の
「相互邂逅」 は、「テトラ世界」 に、さらなるもう一次元を加えた、 「五次元=ペンタ両生学」 といった世界の体験を意味しそうです。
それにしても、それは一体、何なんでしょう。
もちろん、その三十年はこれからの事ですので、その体験は未知ですが、想像次元の体験は可能でしょう。
私に、この第一の 「相互邂逅」 の、あるいは、それまでのプロセスである 「人生二周目」 の発想がもたらしてくれたものに、お金の価値の相対化があります。つまり、お金は必要ならざるをえないのですが、それにとことん縛られない生き方の発見があります。ある時には絶対な力を示していたかのその力が、時間を経てあらためて見直すと、それほど決定的でもなかった、といった体験的視点です。
お金の支配力からの脱皮、それがこの 「テトラ世界」 からの成果物とすると、では、想像上ながらの 「五次元=ペンタ世界」 からの成果物は何であるのでしょう。
そこでですが、私が過去に、お金やそれをもたらす仕事というものに、もしそれが無くなったらと強い恐怖感を抱かされた、それと同じような次元の恐怖感をもたらす、今、自分が捕らわれざるをえないものに、自分の健康があります。いくども書いてきていますように、健康は、今ある私の原動力であり、あらゆる意味でもの源泉です。しかも、健康であればこそ、お金といった束縛からも自由であれるといった、お金と健康は裏腹の関係にもあります。
そういう健康が、もし、致命的な病によりおかされ、あるいは、回復不可能に痴呆の一途をたどりはじめたとすると、しかも、それは回避可能な 「もし」
でなく、何らかなそれは絶対不可避にやってくるものであるそういう 「もし」 なのであり、そういう事態への心構えは、不安ながら、まだ、私にはありません。もちろん、その健康の度合いも、日々刻々と僅かながらづつでも、劣化していっているのは承知の上なのですが。
また、そういう 「五次元=ペンタ世界」 からの成果物が、ありえるものなのかも、今の私には解りません。
せめて、その第二の 「相互邂逅」 が、もはや、残り少なくなった自分の寿命を意識しながら、あの世――ひょっとするとそれが 「ペンタ世界」 なのかも知れません――へ旅立ちしようとしている自分への讃歌にでもなってくれるのではと、ただ想像と期待をめぐらしています。
そしてもう一つ確かなことは、その三十年は、今、もう、始まっていることです。
(2008年10月7日)
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