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私共和国 第6回
太平洋をはさんだ向かい合わせの二国が、一見、対照的な違いをもって、同じように、今年末への政治的土壇場へ向かって流動を始めています。
いずれも選挙を伴うこの両岸の土壇場は、国の政治的リーダーシップをめぐって、片やその過剰、片やその過少という、いずれも適度を欠く片寄りがもたらしている表れを持ちながらも、同様な結末に向かっているように見えます。
太平洋の東側では、1930年代の世界大恐慌の再来かと懸念される、自国を震源とする金融危機をめぐって、「金融的パールハーバー」 という掛け声すら聞こえてきます。私など、それを聞くと、またしてもその手かと、アメリカの政治の事あるごとにつきまとう、大事を演出して世論の誘導をはかる常套手段を見てしまいます。何しろ、世界一の規模をほこるその軍事予算をすら上回る金融機関救済資金の出動を、一気呵成に決定しようとするのですから、そうした大声を張り上げる急場のリーダーが必要なのかもしれません。というより、大事が大事であるほど、そこで先鞭をとる人こそが求められるというお国柄がそこにあります。今、1日早朝の状況では、議会はそうした法案を否決して歴史的株式市場の暴落を導き、続いて、再度の法案通過の期待からか、今度は大きな戻しが見られているところです。
他方、太平洋の西側では、永田町でも、秋葉原でも、もはや相手は誰でもよく、ほとんどたまたまそこにあった人がその当事者とされるかに見えてしまいます。つまり、その、常時、自然災害に襲われてきた島国は、それでも、その実り豊かな天の恵みに心底感謝して、少々の人的災難も、天災のひとつかのようにみなし、大様に受け止める向きがあるようです。そこではことさらに大声を張り上げるべきはなく、ばたばたうろたえずにじっと忍耐して自然の成り行きに任せれば、天は落ち着くところに収まって行く、そうした認識が共有されているようです。つまり、それが大事であればあるほど、事態を静観する者こそが知恵者扱いされるといった風土があるように見受けられます。ところが、その国も、敗戦以来、この
「天」 を 「米」 と読み直す性向が根付き、こうした二つの土壇場を、とどのつまり、同様の結末に導いているようです。
すなわち、その同様の結末とは巨大な借金で、そういう将来への先送りという辻褄合わせを残して、表面上の安泰をむさぼらんとしています。
「大きすぎて潰せない」 のは確かでしょうが、その 「大きすぎる」 のは何なのか。
それは、お金にまつわるもろもろの虚偽が 「大きすぎる」 ということなのだと思います。こうしてすでにその虚偽は露呈し始めているのですが、お金という形で、誰もが責任をとらない無責任あるいは騙しが次々と編み出され、そうした制度にマジである限りはいつかは誰かがそれを返済せねばならず――すでに株に投資されている年金基金の目減りでそれは始まっていますが――、それも
「大きすぎ」 て非現実とみなされるようになった暁には、そうした制度自体を、不マジメに、捨て去る時がくるのでしょう。30日の米国議会での否決沙汰――他人の責任の尻拭いへの拒否――も、そうした捨て去りの第一歩のようで、だから、それはあってはならじと、またしても、もっと声を張り上げた、超大声政治が展開されています。そして太平洋の此岸では、やはり、静観政治が続いています。
(2008年10月1日)
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