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 第二期・両生学講座 第6回


私的「唯脳論」本論


 私には、以前から、不思議に思ってきたことがあります。
 それは、夢が、自分で作りだしている物語のはずなのに、どうして自分の知らないことや未経験なことまで夢で見れるのか、ということです。あるいは、夢はどうやって、自分でも考えられなかったような、文字通りに夢のようなストーリーを、そうやって作り、そう見せてくれるのでしょう。それこそ、夢の著者は誰なのでしょうか。
 もちろん、夢は非現実のことだし、自分の幻想世界の話であることは承知しています。
 ならば、そういう自己内の世界において、自分の認識の域を越えているようなことを、たとえ夢としてでも作り出せる、そういう能力やメカニズムが、どうやって自分の内に備えられているのか、それが謎であり、疑問でありました。
 この問いに、ひとつの興味深い回答をもたらしてくれたのが、前回にも予告しましたある英文記事です。前回の更新には間に合いませんでしたが、ようやくその翻訳が終わり、今回、 「翻訳資料 『洞察の秘密』 」 として別掲することができました。ちょっと長い記事ですが、一読の価値はもちろんあると思っています。強くお薦めいたします。

 その翻訳を終え、一晩眠ったその翌日の朝まだきのことでした。まだ薄暗い中に眼を覚まし、いつもの、半眠半醒状態の中で、私の意識は突然に、 「脳は旅だ」 と私に告げてきました。
  「脳は旅だ」 、そう頭に浮かぶと同時に、私の意識は 「これだ!」 と思いました。
 しかし、 「これだ!」 とは思ったものの、それはどこか謎めいていて、何が 「これ」 で、どう 「これ」 であるのか、その輪郭はぼんやりとしたままです。突然に、結論のみが出てきているのです。そう、夢の体験に似ているのです。この自分――意識上の自分――ではない誰かがそれを創造してくれているようなのです。
 そこで、にわかにベッドを飛び出し、机に向い、取り出した紙に、 「脳は旅だ」 と書きこみました。すると、次の瞬間、私の意識に、こんどは、 「脳は経験だ」 とのフレーズが浮かびました。
 そうして、机上のコンピュータも 「スリープ」 状態から起こさせ、前回に掲載した 『私的 「唯脳論」 序説』 を開けますと、そこには、 「脳は経験だ」 の説明がちゃんとのせられていました。つまり、「自分の人生体験の形成と脳の組織的形成とは、互いに裏腹な関係をもつ、発達の両面である」、という自説です。すなわち、ここまでは、そのように文章化されているように、はっきりと私の意識にものぼってきていた私の理解でありました。
 この間の体験を詳細に当たり直せば、二週間前、この 『序説』 を書いた後、この 『洞察の秘密』 の翻訳を完成させました。つまり、 『序説』 中の教授の講演、 「新しい記憶を古い記憶のネットワークに組み込み、両者間の共通性と相違性を発見し、それに基づいた洞察を形成する」 プロセスの内、新しい記憶がこの翻訳経験に当たります。そうして導かれてきたものが、 「脳は旅だ」 という洞察です。

 さて、ここで、読者はこの翻訳資料 『洞察の秘密』 を既読と前提して話を進めますが、その結論部分で述べているように、私達の脳は、私達 「自身より遥かに多くを知っている」 ようなのです。つまり、私達の意識に上ってくる内容とは、脳の大脳皮質前頭葉が、脳内に蓄積された無数の情報のうち、ある “基準” を越えたもののみをそう表示してくるだけで、それ以外の、おそらく、はるかに膨大な量や種類の情報は、それに満たない情報として、意識外に貯蔵されたままにされているらしいのです。
 冒頭の夢についての問いも、こうして、意識外と分類されている情報が、夢というカテゴリーで整理され、それが夢という、 “半意識” に乗せられたものではないかと考えると、にわかに輪郭がはっきりしてきます。すなわち、その意識外情報として蓄積された情報が、睡眠中のある状態で、上の教授の講演内容にあるように、古い記憶と新しい記憶が整理される段階で、何らかの夢としての基準を越えたものが、夢になってみられるのではないか、と考えられます。 「夢のお告げ」 といったとらえ方もあるように、そうした夢には、それなりの洞察的な奥行きを持つものもあり、私の経験でも、夢鑑賞が引き起こした印象の余韻の中で、ひとつのひらめきがもたらされたことが、いく度となくありました。
 フロイトか採り上げた無意識にしても、そうした意識外情報の一部をそう命名したものといえそうで、こうした 《意識外情報》 には、フロイトのいう無意識以外にも、もっとたくさんの量や種類の、意識には未知の情報が含まれているものと考えられます。
 別掲の翻訳は、それを 「洞察」 という面から分析したもので、この洞察も、この 《意識外情報》 のなす働きのもう一つの例であると言えます。

 人が旅をし、定住していた場合では得られなかった異世界の、さまざまな体験や情報をえるが如く、脳は、生きるという 「旅」 を通じて情報を収集し、それを蓄積している器官です。しかも、私達が 「自分」 としている世界は、それがたとえ生活をいとなみ、お金に翻弄され、仕事に汲々としたとしても、あるいは、世界の歴史を語り、世界の諸文化を成し、時には全知全能の神をも語るものであったとしても、その根源である私達の意識は、脳がこうして与えた意識域を越えるものではなく、それはどうやら、脳が取り扱っている全体のわずかな部分にすぎないようです。
 ですから、 「私」 という自分の意識の産物は、いわば、意識という鏡に映じた映像の所産でしかないものでありながら、脳という臓器――複雑緻密といえどもそういう物質組織という不思議――が経験による被造物であるということを通じて、その窓を開いてくれているが故に、世界との接点を持てています。ここに 「唯脳論」 がそうと言われる由来があります。つまり、 「私」 という意識の産物は、自分の持つ脳の特性そのものであると言え、脳が歪めば、私も歪みます。
 夢も見ずに熟睡している時の私は、まったくの無で、そこには、 「私」 はおろか、生活も仕事も歴史も文化も、まして宇宙も何もありません。すべては、目覚めてから、意識がもどってきてからの話です。
 そういう意味では、夢、あるいは、朝まだきの半眠半醒状態は、その無と私を橋渡しする、じつに興味深い中間世界です。さらに、私は、その中間世界がゆえに垣間見える光景に、実に多くを負っています。それだけに、この脳と、そしてそれを支えるインフラストラクチャーたる身体の健やかさに、限りないいとおしさを感じます。そう考えると、 「唯脳論」 どころか 「愛脳論」 すら提唱できそうです。つまり、覚醒した意識に支えられた俗に言う現実界とは、それほどにちっぽけな、部分世界であるようです。
 そのような、 「唯脳論」 のきわみに立って思うと、自分たる脳の中身は、そこに与えられる外的刺激の総量によっているわけで、 「脳は旅だ」 との先の “お告げ” は、どうやら、そういうことを言いたかったようです。
 そしてさらには、私の人生の 「一周目」 がこの覚醒した意識に釘付けにされていた段階とするなら、その 「二周目」 は、いよいよくびきから解かれ、その 「旅」 に旅立てる、大いなる楽しみのステージであります。


 (2008年11月8日)


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