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第二期・両生学講座 第9回
いきなり、突飛な話から始めますが、私が働く、店での日常話についてです。
店のオーナーの交代以来、店の従業員構成も、もうすっかりと韓国化しているのですが、だからこそできる、そこで日々接しているその隣国の青年たちにしている、あえての質問があります。
それは、彼らが体験してきたはずの、兵役についての彼らの見方です。
むろんそれは、仕事の合間に交わされる世間話としては、たいへん不向きな話題のひとつです。それを百も承知で、しいて言えば、そうしたもっとも適さない話題をもっとも適さない場に持ち出すことで、ある種の無防備な反応をさぐろうとの、私の意図的なトリックでもあります。
そうした質問への彼らの反応は、 「もう、口にするのも嫌だ」 といったものから、 「結構、役にたったし楽しんできた」 といったものまで、それはさまざまです。そうなのですが、そこには、一様にうかがえる、ある種の共通した特徴が感じられます。それは、若い時期に、強制的に過ごさせられるその2年余りの軍役体験が、彼らの人生にある影を落していることです。つまり、彼らはどこか、やさしい。
徴兵とは、社会が持つ、もっとも切実で、かつ、極限化された現実で、だから、誰しも、避けられるものなら避けてみたいと、ふつうには受け止められている体験です。しかしそれは、そうした別格で非日常的な体験というより、むしろ、一般社会のまさに縮図ではないのか、というのが私の受け止め方です。そしてなのですが、それを人生経験のまだ始まったばかりの時期に、そうして強制的にねじ込まされる体験は、まるで、一度、死んできた人間のように、生きて戻れた彼らをそう人間化させているのではないか、と私は見ます。
その終わらせねばならぬ期間中に、彼らは、この世の構造を、そのように、もろに、もっとも濃縮して見せつけられ、体験してきている。それだからがゆえ、それをくぐり抜ける際に自分自身に見た自分の欺瞞性が、彼らをそのように内省化し、だから、それを終わらせ、
“娑婆” にもどった彼らは、それこそ、自分も含め、人にやさしく繊細となる。私は、ことにそれを、彼らと同世代の、その体験を知らない韓国娘たちと比べると、その対比が克明に見えるような気がします。
少々、結論を急いで言えば、そういう彼らと、現役からリタイアする年齢を迎えている今の私とが、その店で一緒に働いていること、それが、めぐり廻って、どこか互いに、似通ったものがあるように、感じられるのです。
そうした終了感、そして、それを持つ者が共有する、人恋しさ。そういう彼らがその故国を後にし、ふらりとオーストラリアにやってきて、そこで、そういう彼らと接している私に、どこか彼らと、孤独感も、共有しているところがあるようです。
ただ、そういう彼らは、店での仕事の合間、自分たちの言葉で語り合っています。むろんそこに私は入り込めません。仕方なく傍で聞いていても、その内容さえ解らない。黙って、そういう彼らを見ているだけです。
(2009年1月31日)
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