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私共和国 第15回



お金について


 ひと月ほど前、私のサイトの読者から、以下のような質問をいただきました。

 この質問への返答ですが、まず、それは、他の読者にも同様な関心を持たれている方もおありでしょうから、公開返答 (質問者の了承と希望をいただいた上で) という形をとりたいと思います。
 つぎに、返答の仕方ですが、私は、上記の質問にそれぞれお答えするほど、この分野の専門家ではありません。そこで、自分の経験をもとに、 「お金について」 持っている私の考え方をお話して、返答に代えたいと思います。

 この今回の記事を 「お金について」 としたように、そもそもお金とは何かから、始めてみます。

 私がそれを考えるようになった発端は、社会に出て、働くようになってからです。そうして、労働という、自分を売って賃金を得るという生活が始まったのですが、その際に、いつも感じる感覚がその始まりにあります。つまり、 「自分の値段はこれなのか」 という一種の不快感です。当時、その不快感には、 「たったこれだけなのか」 という “安さ” に対するものが中心だったと思いますが、後になって、こんなにもらっていいのだろうか、と “高さ” についても、不快感というか、納得できないものを感じた経験もあります。ともあれ、一度たりとも、これが自分の値段だと納得したことはありません。いうなれば、私の不快感は、程度の問題ではなかったわけです。
 つまり、この不快感は、そもそも、値段など付けようもないものに値段をつけていることからきていると考えます。言い換えれば、人間は商品ではない、ということです。しかし、世界を見渡せば、この、 《人間の商品化》 はまかり通っています。もう、どこに逃れようと、その支配から脱出するのは不可能にさえ見えます。それこそ、 「神の手」 です。
 そうなのですが、そうした不快感の一方、昔、日本に居たころ、ある孤児の親代わりというボランティアをしていたことがありました。それはもちろんボランティアの “仕事” でしたので、その “労働” に賃金は支払われませんでした。その時の実感なのですが、時には相当に忙しい時でも、時間をさいてそれを行っていたのですが、常に、その事後感がとても快適だったのです。何というのでしょうか、自分が何にも変換されずに、そのままである、そういう爽快感がそこにあったのです。
 今では、私はこのボランティアの快適感は、そこに、 《人間の商品化》 が介在していなかったからだと考えています。友情とか、恋愛とか、と並べてもよいような、そこにある、心を打つ、感覚です。
 ところで、最近、そのボランティアを、会社の仕事の一部に取り入れたり、学校の授業のひとつにする試みが進められています。私は、この試みは、そもそもそれが、賃金や成績と関連させたものである限り、本物のボランティアではないと思うのですが、そこには重大な問題が潜んでいるように思います。というのは、少なくとも、それがそのように実施されることは、ボランティアをそういうもの――仕事や授業と同じの、フリをして必要なものをかすめ取る行為――と誤解させて行く効果を確実にもたらすと思います。ひるがえって、企業経営者や教育行政が、なぜ、そんなことをしようとするのかと考えると、それは、 《人間の商品化》 を貫徹させようとしている者たちの――ボランティアから快適感を取り除く――そういう策謀であるからではないか、とすら考えてしまいます。
 そうしたもろもろの経験を経ながら、この 《人間の商品化》 がいかに、いかさまのものかを発見してきたのですが、それはさらに、はたして商品と言われているものは、本当に正しい値段が付けられているのか、との疑問に発展してきています。
 ひっくりかえして言うと、そこに常に介在している、お金、というものに、焦点を当てざるを得なくなってくるわけです。言い換えれば、いったん、お金という便法を認めると、何から何までも、商品化が可能となり、市場とか流通とかという巨大な仕組みに取り込みが可能となるわけです。つまり、お金を媒体とした商品の世界がそこに出現するわけです。
 そして、いったんその世界に入り込めば、その値段がふさわしいかどうかは、その世界の支配者が決めるものとなります。そしてその支配者とは誰か。少なくとも、それが、私や私の家族、あるいは、友人たちであったことは決してなかったことです。

 さて、ようやく、お金とは何かです。
 私は、お金には二つの面があると思います。
 ひとつは、お金の本質ですが、お金は人間の持つフェティッシュの現われだと思います。つまり、その中身は何にもない、ただ、みんながそう思うからそうなのだ、という物神崇拝の中心です。幼児が、ハンカチとかぬいぐるみとか、ある物に執着してそれが離せない、それと同じ、特定物の物神化です。だからそこには、魔力があるかにも見えるわけです。よく考えれば、お金で買えないものがいろいろあることは解っているはずなのに、お金がたくさんあれば幸福になれると思いこめる、そうした心的メカニズムです。
 もうひとつは、価値の媒体としての便利さです。お金とは、貨幣として体系化されてしまえば、つまりは数字の世界で、いったん数字化なってしまえば、これでもう、世界を一瞬にして飛び廻ることができるようになります。今回の世界不況を作り出したウォール街を震源とする債権の証券化にしてみても、複雑なリスクを数字化することによる商品化の手法です。たとえそれがまやかし物であったとしても。
 その確かに存在する便利さが、活発に広げられる過程が好況期で、それが大抵はバブルを伴って極大化し、そしてそれがはじけて不況期に落ち込みます。今の百年に一度という大不況も、やってはいけないことまでして行った貨幣価値化の極大化のしっぺ返しで、おそらくこの先しばらく、しおらしくしている時期が続くのでしょう。

 利子については 「お金は生き物」 との言い方があるように、そこには、人間にとって自然な、生物としてのメタファーが込められているように思います。つまり、生物とは子を生み、たとえば一粒の麦は多数の麦粒を生産します。つまり、生物とは、自然に増えるものなので、そういう発想が利子という金融上の慣習にも反映しているのではないかと考えています。ユダヤ教で同胞内での利子のやり取りを禁ずるのも、ある一族を支える動物や植物の増加は共有されるべきで、そういう自然の恩恵を特定者が独占してはならないとの教えのように理解できます。むろん、近代金融取引上の金利は、そうした伝統的な慣習の上にたち、時にはそれを巧みに活用した運用手法をも含み、そこには、度を過ぎたものまでもが制度上適法とされる――それを適法とさせる立法過程の支配をも通じた――事態を生んできているのでしょう。
 ともあれ、今回の世界不況により、金融にまつわるまやかしの実体は相当に暴露され、お金についての幻想も、かなり広く自覚されてきているのではないかと私は見ています。
 そのお金の幻想をもっともうまく制度化したのが年金制度と私は見るのですが、自己積立方式にせよ、世代間付与方式にせよ、過去の働きをお金に換えて将来に備えるという方法が、あまりにリスキーだとの認識が、今回の金融危機をつうじて広まってきています。むろん、リタイアを遅らせ、働く年寄りが増えている事情には、自己資金の投資が裏目に出た目減りの結果が直接には働いているのでしょうが、余りにお金という手段に頼りすぎることの反省にもよっているところがあるようにも思えます。
 資本主義の権化たるアメリカは、今も、印刷機を盛んに回し続けてお金の増刷をはかっていますが、その米ドルも、だれもが価値あるものと見なし、政府債に買い手がついて売れ残らなかった時代は終わりに向かっているようで、そのうち、刷り過ぎた米ドルの価値低下、つまりインフレが急速に深刻化するのではないでしょうか。

 質問にはないですが、地域通貨について、こうした現行のお金の制度に疑問をもつ人々の間でその実行が試されているようです。勉強不足で申し訳ないのですが、私はそれを、地域における、上に記したボランティア活動と関連付けた方法のように理解しています。つまり、ボランティアという労働の物々交換を、地域通貨を通してより広範な交換へと拡大しようとする試みです。

 ともあれ、お金に関しては門外漢で、今のところ、せいぜい、自分の生き方をどうするかで精いっぱいです。
 この年齢にいたり、ようやく、お金のまやかしと、その魔力からの脱出法が、おぼろげなりに見えてきたところです。そして、その方法をひとことで言えば、できる限り、お金の介在を少なくする生活に努めたい、ということです。
 つまりは、お金を可能な限り少なく 「使う」 ――少なく稼ぎ、少なく消費する――ということで、いうなれば、貧乏暮らしにこそ豊かな暮らしがある、ということとなりそうです。また、方向という点で言えば、ある価値がお金に交換される際の、そこで消え去るもの、そこですり替えられるもの、そうした、偽の変換に気付く感性の涵養、ということとなります。

 以上の返答に、以下のような返信をいただきました。

 お返事が遅れてすみません。
お金について、ですが

利子については 「お金は生き物」 との言い方があるように、そこには、人間にとって自然な、生物としてのメタファーが込められているように思います。つまり、生物とは子を生み、たとえば一粒の麦は多数の麦粒を生産します。つまり、生物とは、自然に増えるものなので、そういう発想が利子という金融上の慣習にも反映しているのではないかと考 えています。
この考えは、ちょっと短絡的なように思います。
第一に、一個の生命は無限に生き続けるものではなく、老いて朽ちて、死ぬ運命にあること。第二に、その生命は自己増殖する(細胞分裂のように増える)のではなく、外界との関係性においてのみ生命維持が保たれ、子を産むこともできる。外界との良好な関係性が保たれなくなくなると、生命維持は困難になる。
第三に、増えすぎれば集団自殺する(細胞のアポトーシスも同じ)場合もある。
第四に、生命全体としての生態系に組み込まれている。

 資本主義の権化たるアメリカは、今も、印刷機を盛んに回し続けてお金の増刷をはかっていますが、その米ドルも、だれもが価値あるものと見なし、政府債に買い手がついて売れ残らなかった時代は終わりに向かっているようで、そのうち、刷り過ぎた米ドルの価値低下、つまりインフレが急速に深刻化するのでは ないでしょうか。
こういったことも、私は10年前には気づいていなことだったのです。お金に関する知識があまりにも乏しかったことを、今更ながら悔やんでいますが、今からだって遅くない、とも思っています。

自分の生き方をどうするかで精いっぱいです。
この言葉よく他の人からもよく聞いた覚えがあります。

オーストラリアでお逢いしたときに、私が松崎さんに「肌一枚で自他を分離している」と言ったことがありますがお忘れでしょうね。
自分を見つめるとき、自分だけをどこまで見つめても「自分とは?」の応えは見つからないと、私は思っています。
自分という存在は、自分以外の外界との関係性で成り立っている、という考えが中心だからです。
早く言えば「孤立した自己」は存在しない、というのが私の持論です。というよりも孤立した自己を生きるには、大きなエネルギー
を自己が産み出す必要があるので、必要以上の「労苦」を伴い、持続不可能と考えているからです。
以下にもその詳細を書きました。
詳細 http://jikyu.web.fc2.com/kainiikiru.htm#we
    http://jikyu.web.fc2.com/kainiikiru.htm#rinkno
    http://jikyu.web.fc2.com/kainiikiru.htm#bridge

 先日、NHKのドキュメンタリー「復活した脳の力」という番組では、ハーバード大学の脳科学者だったJill Bolte Taylor博士の
自らの脳卒中による左脳機能の損傷から復活する8年間の体験を語っていました。
その体験から博士は左脳は外界ら分離した自己という世界をつくり、右脳では外界との境界が消え、自己と外界が融合した体験を
克明に語っています。
http://drjilltaylor.com/
動画:http://serra.blog8.fc2.com/blog-entry-273.html

奇跡の脳、ジル・テイラー著
新潮社
Jill Bolte Taylor
(原著)竹内 薫(翻訳)

 孤立した自己を捉える意識が左脳の役割、時空を超えたエネルギー的存在(自己の意識がなくなる)が右脳の役割であるということは、
初めて聞くことですが、私にはとてもよく解ることです。彼女はこの世界をニルバーナ(涅槃)に例えているように、仏教(特に密教)世界に
おいてはめずらしいことではありません。両性理論にも是非このことを書いていただきたいと思います。
いずれにしても、世界のあらゆる生命は、すべて「関係性」で成り立っているということを感じたとき、自己の世界や生活、自分と社会、自分と自然、自分と宇宙、などと区切って考える必要がなく、自分の眼が捉え、意識が捉えるすべてが自己に関わることと感じるので、ボランティアという意識もなく、自分に値札をつける必要 もなく、ただ自分の一部と捉えています。

できれば、松崎さんのサイトへ公開してていただくなら、読者「自給道楽」http://jikyu.web.fc2.com/として上記も含めて、紹介いただければありがたいです。

 私のサイトもお蔭様で方々でトラックバックされているようで、検索すると200件近く「自給道楽」サイトやブログ、メルマガに掲載した内容が出てくるようになりました。ありがたいことです。 明照

 今回のやり取りは以上です。
 (2009年5月14日)

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