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第三期・両生学講座 第4回
人が自分を 「自分って何だろう」 と考えることを、ひとまず 「哲学」 と呼ぶとすると、僕は物心ついてからずっと、この 「哲学」 をしてきた、ということになります。その延々とした道のりの最先端の今に、いつも立たされているのですが、そういう奮闘をするなかで、こういう 「自分」
という “存在” ――哲学用語を使うと、こういう風に、いかにも仰々しくなってしまう――を何とかうまく言い表す言葉はないものかと、つねづね考えさせられてきました。
つまり、哲学用語では物々しく重たすぎるし、かといって 「わたし」 としてしまうと、あまりに文芸的で散文風すぎます。それをもっと輪郭のしっかりした手ごたえのある言い方に置き換えたいと欲してきたところでで見つけたのが、先の本講座第三回に取り上げた、 「オートポイエーシス」 という言葉や考え方でした。
この用語は、本来、生物学の領域の言葉で、生物の仕組みを 「システム」 としてとらえ、その 「システム」 を、自己組織的とか、自己制作的とか、自己言及的とかと特徴付けるなかで出てきた言葉=概念が、 「オートポイエーシス」 です。
こう説明しただけでは、ただの言葉の言い換えに過ぎませんが、ここで詳しくは説明しきれません。また、詳細に触れても、そうとう入り組んだ説明が必要で、また、ちょっと難解で頭の切り替えも必要です。しかし、なんと、
“科学の” 一分野として発達中の領域でもあります。ともあれ、そういう、 「科学的」 でもある論理性をたずさえた有効な道具を発見したというわけです。
そこで、そういう道具を使って、この人間という 「自分」 をいじくっているのですが、そうすると、この 「わたし」 という “存在”を、そういう 「システム」 として考えることができるようになります。
そこでこの 「わたし」 を 《私システム》 と呼ぶとしますと、この 《私システム》 が、生物としての物体的なそれと、自分の意識に集中した精神としてのそれという二面立てとなっている、と考えることができます。すなわち、 《私システム》 は、肉体的なものと精神的なものの合成体というわけです。
私は、こういう 「わたし」 にまつわる関係を何とか表現したくて、書き物という世界で、 「リタイアメント・オーストラリア」 サイトという場を開発し、その中に、 「オーストラリア情報サイト」、 「私共和国」、そして 「両生空間」 という三本立ての装置を組み込んできています。前にもふれたように、いわばこの三者は、この 《私システム》 の、?身体・現実次元、?身体・精神統合次元、そして?純粋意識次元、の三つの世界にそれぞれ対応しています。さらに、こうした 《場=空間》 の三本立て化だけでなく、自分の
《時間》 も―― 「最適配分」 や 「続-最適配分」 に述べたように――、三者に割り当てて使っています。いうなれば、このような方法を通じて、私は自分自身を “多角化” してきました。
そこでですが、たとえ 「オートポイエーシス」 な 「システム」 を発見したとしても、それを 「発見」 している主はいるわけです。つまり、こうして、どこまでいっても
「わたし」 という存在があるわけで、 《私システム》 のなかに、そういう 「観察者」 としての存在がつきまといます。
じつは、上記の三本立ての装置も、それを操作運転する誰かの存在を前提としているわけで、その三つの世界を観察するその主について、さらにつっこみ、集中してそれを扱う場ができないものかと、模索することになります。
(2010年5月13日)
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