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私共和国 第27回


究極の“民営化


 以下は、別掲の 「ダブルフィクションとしての天皇」 で行っている、原題 『JAPAN'S IMPERIAL CONSPIRACY』 の翻訳、手短には自分で 「訳読」 と呼んでいる作業の副産物です。
 まずはじめに、タイトルの 「究極」 についてですが、これは国のことを指しています。つまり、このタイトルの含みは、 「一国のまるまるの民営化」というところにあります。
  「民営化」 という用語は、今日では、政治、行政界ではもっとも頻繁に採り上げられている言葉のひとつで、そしてその民営化される対象とは、これまで国や地方の政府が行ってきた何らかの公共サービスのことです。最近では、そのもっとも大規模なものが郵便でありました。
 本稿では、それを、そうした行政の一部門に限らず、社会の総体としての国そのものを 「民営化」 させる、という見方を採り上げます。
 ただし、最初にお断りしておきますが、これは、私がそれを実行せよという趣旨で言っているのではありません。むしろ、私個人としては、その反対の立場にたつものですが、世界、ことに歴史を見る見方として、その視点が有効ではないか、とするものです。

 これまでこの 「訳読」 を行ってきまして、いまその作業は、日本の 「歴史部」 をかえりみる過程を終わろうとしているところです。つまり、江戸時代が終わり、明治維新、すなわち 「明治王制復古」 をへて、日清、日露の戦争の時代へと入ってきています。近現代です。
 私はいま、上記の 「一国のまるまるの民営化」 を、この 「明治王制復古」 にからめて考えています。つまり、王制復古とは、日本というひとつの国ごとの民営化であった、との認識です。むろん、その 「民」 とは王、日本の場合、天皇のことです。そして、言葉をいっそう厳密に使ってゆくとすると、この 「民」 とは、 「公・民」 といった対概念からそう使われている用語ですが、正確には、 「私」 ――英語では privatization、今日的には 「私企業」 ――ということです。つまり、 「明治王制復古」 とは、 「一国のまるまるの私営化」 であった、という見方です。
 前回の 「訳読」 の中に、明治憲法の抜粋がありますが、それを、憲法を 「社則」 とか 「定款」 とかと、また、天皇を 「社長」 とかと置き換えて読みますと、ただちに 「ははーん」 と納得できるものがあります。
 たとえば、 「大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを統治する」 を 「本社は、世襲の社長がこれを経営する」 といった具合です。
 いうなれば、明治維新とは、西洋の脅威に対抗するまさに切迫した必要から、江戸時代の幕府と藩の政治――興味深い中央集権と地方分権のアマルガム――という一種の官僚統治体制から、天皇という “私” を頂上にすえた独裁君主体制、すなわち、国の私営体制へと切り替えられたということです。
 むろん、官僚という “談合” 体制が天皇制という “ワンマン” 体制に切り替わったのですから、その意志決定の速さといい、指揮体制の一本化といい、効率上での進歩はけた違いであったでしょう。そして、その効果はめざましく、それからの日本の躍進は世界をも驚かすもので、東洋のはずれのちっぽけな島国が、大国中国はおろか、西洋世界の一部であるロシアも破ってしまったわけです。
 しかしながら、その 「社則」 には、社長は 「神聖であって侵してはならない」 ともあったものですから、たとえ社長が誤りをおかしても、その責任をとらせてすげ替えができない仕組みとなっていました。無期限の君臨です。そして、そのとどのつまりが、 「広島・長崎と無条件降伏」 でありました。
 つまり、日本の 《初めての外敵による被支配体験》 の始まりです。そして、この 「外敵」 の賢さは、それが支配とは見えぬよう (民主化とさえ見えるよう)、その歯向かってきた敵の首領を殺さず生かして残し、彼の支配形態を壊さないでそれごと、さらに上からの支配構造に組み入れたことです。まるで傀儡とは思えないように。私の言う 「ダブル・フィクション」 とは、今も存在しているはずの、この見えない傀儡すらをも作り出せる 「二重の縛り」 です。
 (鳩山の 「最低県外」 が空約束に終わらざるをえなかったのも、そうした足元を見透かされているからでしょう)

 今、そしておそらく予想可能な将来、日本は、いわゆる国力の停滞から、もしかすると減退期にすら入って行こうとしています。それを “国難” と呼ぶ人もでてくるでしょうし、ずるずると滑り落ちてゆくその現実に、いつかは耐えられなくなる日がくるはずです。
 その時、はたしてどのような復活体制が選択されるのか。
 隣り韓国の現イ・ミョンパク大統領体制は、一見、上記の 「一国の私営化」 の実例と見なしうるかの道を進んでいます。そのおかげなのか、その成果も少なくなく、日本の産業界あたりでは、その 「見習い論」 も出始めています。
 他方、ヨーロッパでは、その欧州全体を 「一国化」 するEU体制がこころみられています。これは、概念的には、上記の 「私営化」 の逆をゆく “壮大な官僚体制方式” と見てよいでしょう。
 イギリスでは、先の総選挙で、EU寄りの労働党政権から、保守と自民の連合政府(EU政策の面では互いに逆向き)が発足し、以上のような議論でみれば、サッチャー時代のような、選挙手続きをへた理念的には 「私営化」 に限りなく近い政策を掲げる政府に向かうのかどうか、と注目されます。
 そういうからみでアメリカをみれば、それは、 「私営」 ―― あるいは “我営”――の多数決体、とでも言ってよいものでしょうか。
 そうした先進諸国の動向の一方で、中国をはじめとする発展途上国の台頭が急速度で進んでいます。ある意味では、かつての日本のような。
 いずれにせよ、世界がきわめて複雑で難しい時代に入ってきているのは確かで、日本は、過去の 「明治維新」 からアジア侵略そして降伏への流動を振り返れば、 “平成維新” などと軽々しくは口にできない時代となってきています。

 (2010年5月31日)

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