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《老いへの一歩》シリーズ
前回に、「ちょっと荒唐無稽なアイデアがあります」 と、そのさわりを述べたのですが、その 「タナトスを逆転させる異次元の生殖行為」 を、表記のように
「タナトス誕生」 と名前を付けてみたいと思います。そして今回は、そういう “生殖” を実現させる方法について思案をめぐらせてみます。
とは言うものの、 「タナトス誕生」 とは、 死と誕生を結びつけた,、なんとも形容矛盾するアイデアです。そこで私はそれをぐっと平ったく、「若さを保つ」
方法とでも考えたらどうか、と思っています。あるいは、 「若さ」 としなくとも、 「今の “健康” 度を保つ」 と言ってみてもよいかと思います。
ところで、話は跳ぶのですが、読者のみなさんは、前々回以来、ホームページに掲げられた、 「 『総合もくじ』 を二種類用意しました」 という案内にお気付きのことかと思います。いかにも、読者の便宜をはかったかのようなその案内の舞台裏を明かせば、実は、私側の事情が大いに働いています。というのは、それらを作ることによってもたらされた、
「一望効果」 と呼んでもよいような、過去の諸記事の総視覚化の効果が、 「なかなかのものじゃないか」 と、手前味噌に、ちょっと驚かされていることによります。つまり、あまりに多数となった過去の記事の単に
「もくじ」 を作ろうとした工夫が、そうした 「空飛ぶ鳥の目」 となったような眺望をもたらしてくれて、「木ばかりに目を奪われ、森が見えていなかった」
、思わぬ効果をかもし出してくれているのです。
また、先にこのシリーズ3回目で、そうした個々の記事とは、その時、その時の 「最大瞬間風速」 であるということを述べました。つまり、一つひとつの記事は、その執筆の時点での私の出力を出し切るものではあったのですが、ただ、その出し切りに専念するあまり、その単発の成果に甘んじるものでもありました。
しかし、こうした作業を数年もつづけ、そうして書き溜まった諸記事を見るにつけ、どこか、ほこりをかぶった古本の山のようにも見えてきて、せめてその整理のためと、その
「もくじ」 を作ろうと思い立ったわけでした。つまり、単に、整理、整頓の程度のつもりで、その時々の 「最大瞬間風速」 群全体を網羅したことが、期せずして、ただの一覧表作りではなかったことに気付かされたわけでした。
それはたとえば、10の瞬間風速をもった100の記事があったとしますと、その 「森」 は、単に10×100=1000との積算効果を成すばかりではなさそうで、それらの分野や視点や時代の異なった個々の記事の100の結合やその無数の組み合わせは、単なる量的な積算を越えて、質的な飛躍をももたらすものでありそうなのです。
たしかに、そんな作用に近いことは、それらを書いた私の頭の中でもまま、生じることです。当然にそれぞれの記事は、私の記憶にそれなりには残っており、こうした一望化的な反応のいくらかかは、線香花火程度には生じていました。ただそれも悲しいかな、日々の雑事に紛らわされて、その瞬間風速という各々の勢いをフルに保ったままの集大成には、到底、とどき切れません。ことに私の場合、そうした出力を出しきった後は急速に冷却してしまって、視点は次のテーマに移って行きます。たいへんに移り気であると同時に、忘却も早いのです。
もし仮に、私がそうした全記事を、個々の瞬間風速をそのままに持ちつつ、すべて正確に記憶し、再現できる頭脳を持つなら――まれに、そういう人はいるようです――、こうした手の込んだ作業は不必要です。しかし残念ながら、私の頭の記憶容量には極めて限りがあり、ましてや加齢とともに、その容量の情けないような減退を実感するにつけ、それを記録に残すことに、何やら自らの墓標を刻むかのような執念さえ見出しているのです。それが、先の
「入力体から出力体へ」 ということです。
- ところで、元マイクロソフトの首席研究員だったゴードン・ベル氏(78)は、自分の人生の全てを永遠に残したいと、自分に関するあらゆる情報をコンピュータに記録する作業をしているといいます。彼によれば、自分の論文から医療カルテ、そして日々のレシート明細に至るまで、自分に関するありとあらゆる情報を記録しても、その総容量は1テラ(1,000ギガ)バイトほどで収まるそうです。(2012年9月28日付、日本経済新聞、電子版)
さすがに I T 産業の大御所が行う取組みだけのものがあります。ただ、この人の場合、 I T 装置への過度な依存の感があります。つまり、 I
T 装置と人間の、その主客が転倒してしまっているかのところが気になります。
- なんと言っても、人間、生きているうちが花で、その花がいかにも生きいきと咲いてくれていないでは、たとえその人物の情報がどれほど詳しく正確に残されていようと、それに後世の人が興味を抱いてくれるかどうかは別問題です。
さて、そのようにして出現しつつある私の 《森》 なのですが、本物の自然の森は、ただの一本一本の木々の寄せ集めではなく、その集合が織りなす環境全体が、あらたな生命の源ともなるという生態系を作り出しています。単なる積算効果だけではない、それこそ、森羅万象たる異次元へのジャンプです。
私は、こうして存在し始めた自分の――小さな―― 《森》 を目の前にしながら、これも自然の森のように、何かを生み出す源となりえるのではないか、つまり、自分にとっての
《知的生態系》 にしえるのではないか、という予感を感じ始めています。
さらに、その 《知的生態系》 を作り出すメカニズムは、人間の頭脳が果たす、さまざまな知識や経験の記憶を相互に結びつける、 《シナプス》 作用にあるのではないかとにらんでいます。いうなれば、人間のなす創造の源、すなわち、その脳がもつ
《シナプス》 機能のそのミニチュアを、この微小な 《森》 を使って、模造してみようという試みです。
ちなみに、人間の脳は10億個の細胞をもち、それらが数万の神経細胞のシナプスによって相互に結びついて、その精緻な働きをつくり出しているといいます。
つまり、 “荒唐無稽的” に言えば、こうした諸記事を個々の細胞とし、そこに、脳のシナプスに習うようなものが作り出せれば、その創造作用はすごいものであるだろうと、想像されるわけです。
そしてさらに、そうした外在化された 《森》 の一方、私の身体が、日々刻々と衰えゆくのは避けられず、それこそ、 「15年内外のカウントダウン」
をたどった後には、確実に消滅する必然があります。つまり、そうした私の 《森》 は、臓器としての私の脳の働きに代って残ってくれるのは確かで、しかもそれが、工夫の仕方によっては、身体的必然とは別に
《外在》 し、しかも、何らかの異次元的飛躍をもたらすかもしれないと、期待させられているのです。
そこで、私の工夫ですが、このようにして存在を始めた私の 「総合もくじ」 を 「森林化=生態系化」 させるための “補助具” として、私は、こうした情報技術を活用するつもりです。
そして、その 「補助具」 ということですが、すでに読者は、私の記事に、過去や別掲の記事との頻繁なリンク付けがあることにお気付きかと思います。
また、通常、学術書の末尾には索引が付けられていて、重要な用語の所在場所が示されています。しかし、今日では、いちいち、そうした索引を作らなくとも、検索するだけで、どんな用語の所在も容易に発見できます。それは、小説などといった、通常、索引など用意されなかった分野でも活躍してくれます。
ただしです、それには重要な条件があります。つまり、それは、そうしたコンテンツがコンピュータに入力され、デジタル化されていればの話である、ということです。これが、グーグルが、世界のあらゆる書物をスキャンするプロジェクトに取組み始めている理由です。
私は当初、自分のサイトに自作品を掲載していることの、こうした情報技術上の意味については気付かないでいました。それは単に、印刷出版するかわりに、自前で可能な、デジタル出版をするだけだ、といった程度の意識でした。(少々
“尾ひれ” を付ければ、印刷出版と引き換えに何かを “売り渡す” 仕組みへの抵抗でした。)
それが、上記のように思い立って、マニュアル作業ながら、まず、 「総合もくじ」 を作り、次にそれ を組み替えて 「分野別・総合もくじ」 を作りつつ、当初は思ってもいなかった効果があることに気付いたのです。つまり、個々の記事は、見えないところで、互いに関連していたのです。というより、その関連性を嗅ぎ取り、視覚化することこそ――これはいまのところ、どんな優秀なコンピュータでもできない――、次にすべき作業の核心であるな、と覚醒したわけでした。それは、考えてみれば当然のことなのです。一人の同じ人間が生産した作品や記事であるわけですから、
「瞬間風速」 の出方はともあれ、そこに著わされている内容が、個々、孤立しているわけはないのです。そして、もくじ作りでその関連性に当たっている際、おぼろげな記憶に頼らず、コンピュータの
《検索》 を、知らずしらずのうちに、利用していたのでした。もう私の生み出したものはすべてデジタル化なっていますので、この作業は、面白いように、瞬時に果たすことができたのでした。
言い換えれば、記憶とは、頭のどこかに貯蔵されている情報を引き出すことです。そしてコンピュータが行う 《検索》 とは、まさにその場所を見つけ、それを引き出してくる機能です。
ところで私は最近、自分もその 「お仲間」 に合流しつつあると実感しているのですが、年寄りの口癖の 「あれ、それ、なに」 といった、その引き出しができない時に生じる行動パターンがあります。つまりそのお年寄りは、自分の頭のどこかにそれがあることは解っているのですが、それが引き出せないのです。この脳内での有無の分れ目は重要です。
そこで、こうした年寄りの弱みを、コンピュータに助けてもらおうと期待する、これが、上記の 「補助具」 ということです。そして、その際には上のような条件、すなわち、デジタル化が必至です。私たちの頭の中のどこかにあるだけでは、さすがのコンピュータも、今のところ、助けようがないのです。
それと、これは、私のような平凡なおつむの所有者の些細な自負ですが、ブライトな頭脳の持ち主は、そうした作業をその頭脳の中だけてやり遂げてしまうため、その途中のプロセスの外在化はなく、そのみごとな結論のみがいきなり表現されます。つまりそのプロセスは外部からは見えず、それこそ
「ブラックボックス」で、その内部をうかがいようもありません。ところが、それとは違い、こうしてその 「瞬間風速」 のいちいちをマニュアル出力して外部化し、その相互の関連を客観的に視覚化したものは、その内部に誰にでも容易にアプローチができます。取って付けたこじつけを言えば、たいへん、
“民主的” で、 “共有的” です。
ところで、私が利用できるコンピュータの力は、ワープロや変換機能を別にすれば、上記のように、 《検索》 が中心です。しかし、私たちの脳が、ハハーンとひらめいて創造する時、その脳内での相互のシナプスをおこす
“論理” つまり 「脳内アルゴリズム」 は、単に検索機能だけではなさそうです。しかし、人類はまだその全容を解明できていません。
《検索》 は確かに有力な手段ですが、それは所与のキーワードを探すだけの力で、同じ意味の違った言葉とか、似通った意味を斟酌した類似する言葉とかは、見つけてくれません。ましてや、あるまとまった考えを
《検索》 してつきとめたり関連付ける働きなどは、まったくお手上げです。つまり、意味や価値の判断となると、これは一つひとつマニュアル作業で、人間が行うしかない分野です。ともあれ、それがどれほどの膨大な容量になろうとも、それを正確に記憶し、す早く取り出しくれるという能力においては、人間の頭脳はコンピュータにはかないません。
そこで、そうした互いの得意な領域を持ちより、互いの下ごしらえをした上で、最後の創造のエリアは人間にまかす、そうした装置として、私の 《森》
が使えないものだろうか、と思うのです。
そこでなのですが、別掲してご案内している、まもなく新装開店する 「レストラン」 とは、そういう調理をほどこした “料理” をご賞味いただこうとするものです。
それがどう創造的で、味わうに値するものか、それは大いに未知数ではあるのですが、そういう、 「タナトス誕生」 装置として、そのレストランが、もうすぐ開店いたします。
(2013年4月28日)
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