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     <連載> ダブル・フィクションとしての天皇   (第2回)



 まず初めに、この「訳読」を始めて、思わぬ発見をしています。
 というのは、一語、一語の意味をあれこれと考えながら訳してゆく作業は、日本語で快調に読み進めてゆく際には決して経験できない、異国語が表そうとしている意味が一体何だろうかと苦心惨憺する、極めて余分な迂回作業を伴います。そしてこの迂回作業を行うことは往々にして、自分が語られている場面の当事者となり、そこに自分が置かれていたらどうだろうといった、派生的ではありますがそうとう厖大な想像作業にも取り組むことになります。そして、昔読んだ本を引っ張り出したり、図書館へ行ったり、グーグルしたりしながら、なんとか納得できる訳語、訳文をひねりだしています。つまりそれは、そこに書かれた現実を疑似体験する作業にも似て、たとえば今回の場合、「南京強奪」に自分がおかれれいたら、どういうことになっていただろうななどと、苦い想像をめぐらしたりもしています。
 そんな迂回作業の中では、考え方として、この本の著者とはまったく反対の立場の見解とも多く出会い、そういう意味では、時間はかかるものの、幅広い知見をうることにもつながっています。

 また、これも、この訳読作業をはじめてから気づかされたことですが、今年は、いわゆる「東京裁判」の開始から60周年にあたり、日本では、それを記念する行事も行われているようです。先に私も、こちらで定期的に日本関連の資料を閲覧している Japan Foundation の図書館で、『SAPIO』の6月28日号、「東京裁判その60年目の亡霊」と題した特集号に目を通しました。お陰で、今回のこの翻訳の冒頭に出てくる観音像が、「興亜観音」という名であることも判り、また、その写真にも接しました。

 さて、いよいよ今回より、本文に入ってゆきます。
 今回のタイトルは、「第一部 あだ討ちの戦争 第一章 南京強奪(その1)」です。「その1」としたのは、第一章をまるまる載せるとサイトのページとしてちょっと重たくなりすぎ、二つに分けたためです。「その2」は、来月号に掲載します。
 そこでまず最初に述べておきたいことですが、中国との戦争について、私の基本的見方は、(日本がそうせずともいずれどこかよその国がそうしていたことはありえたとしても)、それが明らかに侵略戦争で、国際法上から言っても違法であったことです(国際法が有力国同士の都合のよい取り決めであったとしても)。それだからこそ、もうひとつ加えておきたいことは、対中国戦争と同時並行することとなった、真珠湾攻撃に端を発する対米国戦争を、(自衛のための戦争であったと主張する意図とは違いますが)、西洋諸国との外交的駆け引き、ことに対中侵略に関して国際的孤立に追い込まれた日本が、挑発に乗せられ、博打を打つように始めた戦争であったことです。つまり、それほど、 “うぶ” あるいは “うかつ” であったことです。
 私個人の見方としては、 “うぶ” でも “うかつ” でもなかった場合、いずれの戦争もしないですます選択はあったと思います。ただ、他方、純粋かつ限定的な自衛戦争はあったかもしれません。
 私がこうしてこの本を訳読しつつ追求したい最大のねらいは、中国侵略から対米戦争そして広島・長崎に終わるこの一連の戦争時代を引き起こした、その真の “からくり” を解き明かしたいからです。そしてもしそこに、だれか決定的人物が絡んでいたとするなら、その人物がなぜ、そう行動したのか、それをもたらした精神のメカニズムまで踏み込んでみたいからです。それを知らないでは、どうも今日の日本の真相についても、つかみ切れないのではと考えるからです。
 もちろん、この本を選択したことは、「その人物」を天皇とねらい定めているわけですが、彼を、たとえば、私の知っている誰かといった次元に置いて、特別な人が特別なことをしたというのではなく、その人がいったい、どういうたぐいの人物だったのか、そういう考察を経ないでは、その解明に迫れないと思うからです。
 ひっくり返して言えば、選挙も、あるいは他の公明な選出手続きも経ないで、そういう特別扱いされる人が私たちの頂上に座していた、あるいは、今なお座している、それを受容する私たち自身の精神的メカニズムも、それを通して解析することができるのではないかと思うからです。

 著者のバーガミニは、この第一章の冒頭の「慈悲の聖地」と「日本と中国」との二つの節で、彼の考え方を要約しています。まず、第一の節で、松井岩根という、南京攻落の総司令官を紹介、その本人としては不承々々の仕事にも拘らず、その責任を科されて戦犯として処刑された不幸な運命に、前回の「著者から読者へ」に書いているように、著者も同情を寄せています。
 第二の節で、日本による中国への侵略は、昭和(裕仁)天皇の曽祖父の代、つまり、黒船来襲以来の天皇家の発想として、「紅毛野蛮人」たる西洋人追放のアイデアに根源があるとし、その侵略は、その観点から天皇裕仁によって綿密、周到に計画されてきたものだとしています。
 日本人ならだれしも、黒船前後の西洋からの押し付けの交易関係設立の圧力は、手前勝手で反発に値するものです。そうした意味で、西洋の横暴を共に排除した一つのアジアの成立という思想は自然で、理念的には、東西対等の関係を基盤とする、今日のアジア諸国の共通な思想にも通ずるところがあると思います。
 そうは言っても、当時といえども、もはや地球は狭く、西洋との関係なしで過ごす訳にもゆかず、そうして強制されながらも始まった西洋との関係で、日本はいち早く西洋化を取り入れて植民地化を回避し、東洋の光明ともなjりました。そして、中国からも、蒋介石といった留学生を受け入れたり、孫文の亡命先にも選ばれるようになったわけです。
 このあたりまでの日本が、どうして、「南京強奪」を経て、鬼の日本人にならなければならなくなったのか。著者のバーガミニも繰り返し言っているように、この変化はただごとではない大いなる謎で、この辺の板ばさみを生かされたのが、たとえば上の松井岩根でした。
 孫文が、その死の前年の1924年、神戸で行った、「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義に対した東洋全体の平和思想を説き、日中の友好を訴えたものでした。日本は、残念ながら、それに応えないばかりか、むしろそれに敵対する進路をとりました。これはもちろん後知恵ですが、その辺からの、日本の選ぶべき別の道は、確かにあったのではないかと思えるわけです。
 そしてそれは、今日のアジアでの日本の、孤立化に向かうかの進路についても言え、過度な西洋化(今日では米国の属国化)が、再度の過ちを生みかねない、歴史の繰り返しが見られんばかりの情勢です。
 今回の訳文に描かれているように、それにしても、1930年代後半に為されたすさまじいまでものごまかし。このいんちきが、さらに戦後に上塗りされ、今日の日本に至っているはずです。

 (松崎 元、2006年7月12日)
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