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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第15回)
自分の家の匂い
ある社会で、だれもが当たり前と受け止めていることは、それが当たり前であるがゆえに、だれにも意識はされません。
たとえば、自分の家の匂いのように、日頃その中に浸って暮らしているその住人には、その匂いは無いも同然です。しかし、そこにだれか外来者が訪れた時、その匂いに初めて気付かされます。
どうやら、日本における 「天皇」 とは、そういうものであるようです。
そしてそれは 「天皇」 のみならず、日本人が抱く他人への信頼感とか同朋意識とか、広く 「日本人らしさ」 と言われているものすべてが、そういうものでありそうです。
前回の 「億世一系の人統」 で触れたように、原書の著者、バーガミニは、日本にとってはそうした外来者です。
今回の 「訳読」 部分の冒頭で、バーガミニはその日本という 「家の匂い」 のひとつである 「天皇」 について、日本人同士ではもはや意識も認識もできないことを指摘してくれています。
昔、私は身近のある人から、「自分はこの人と思える上司のもとで働きたい古風なタイプの人間です」 と言われ、ある種の 「日本人的さ」 を体験したことがあります。こうした考え方は、たとえば、この
「働きたい」 を 「尽くしたい」 という言葉に置き換えると、もっとはっきりします。
それこそ、今では古くさい言葉となりましたが、「尽くす女」 といった言い方がありました。それに、別に女に限らず、男の場合でも、「一生を会社に捧げる」
といった生き方も、そんなに古い時代のことではありませんでした。
つまり、一般化して言えば、日本には、そうした自分の努力の対象を、自分を包む社会に広くひろげて考える伝統があります。それを、たとえばここオーストラリアに当てはめてみた場合、たとえば
「尽くす」 といった言葉を英訳しようとすれば、適当な言葉がみつかりません。
日本語には 「無私」 といった言葉もありますが、その相当する英語 「selfless」 には、何かボランティアといったニュアンスが強く、 「無私」 の 「無私」 さが伝わりません。まして、 「滅私」 という言葉すらあります。
つまり、日本には、個人と社会の境界をあえてつけないことに価値を置く価値観があります。
これを、いいこととするのか、悪いこととするのかは議論の分かれるところでしょうが、そうした特徴があるのは確かなように思えます。
では、そうした特徴がどうしてできたのか。
そこに今回、バーガミニがひとつの回答を与えてくれています。
では、今回の訳読へとご案内いたしましょう。。
(2010年1月12日)
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