「天皇の陰謀」 もくじへ
「両生空間」 もくじへ
HPへ戻る
<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第20回)
「二元論」 の向こうに
唐突ですが、私は、今でも日本人は、自分の国の歴史に定まった見解を持ちえていないと思っています。ことに、幕末から明治維新にかけて、日本がたどった実に複雑で混乱した経緯に、日本人の誰もが、互いに共有できる一定の歴史観を樹立しえていない――歴史とはそういうものかも知れませんが――と感じています。
日本の近代化の端緒となったこの大変化は、言うまでもなく、西洋列強の強力な脅威と威圧のもとに展開されたものです。それは、岸田秀が 「レイプされた」といみじくも表現するように、擬人化した意味では、精神的トラウマに等しい体験を伴った変化でもあり、その衝撃の大きさや深さの余り、今でも日本人は、それを冷静かつ包括的にはとらえ切れていないように感じます。だから、この時代の歴史諸説を注意深く観察すると、どんな通説もどこかうそっぽく感じられてきます。
私がそれに気付いたのは、幕末のいわゆる 「攘夷」 論者が、いつのまにやら 「開国」 論者になっていることをきっかけとしていました。そこで、何か裏があるなと直感して、先に
「郵政解散」総選挙に際しての両生風視界 の 「疑問が描き直す日本の歴史」 などを書いたりして、この疑問と取り組んできました。
その日本人のトラウマ的現れを一言であらわすと、 《日本の歴史にまつわる二元論》 とでも言えそうです。むろん単純化のそしりは免れませんが、簡明に言えば、こうなります。
- いま、私の手元に、副島隆彦の劇画 『属国日本史幕末編』 があります。この劇画本は、副島の持論、 「日本はアメリカの属国」 を幕末史にまで広げたもので、それをかみ砕くため、劇画化されています。その彼の視点によれば、今の日本で幕末の英雄のごとく脚光をあびているらしい坂本龍馬も、アジア支配をねらう 「イギリスの工作員」 ということとなります。つまり、アメリカによろうとイギリスによろうと、日本は拡大する西洋の勢力のもとで、その支配にまきこまれることから逃れられなかったとするものです。すなわち、近代日本史の基本認識をその
「属国性」 におく歴史観です。
その一方、司馬遼太郎――おそらく、日本の今の “龍馬流行” のもとも、司馬の諸フィクション作品をあたかも史実であるかに誤解した一連の動きの結果でしょう――に代表される史観があります。すなわち、幕末史も含め、日本人は独自に立派にやってきたという、ある意味で自画自賛に近い、いわば 「立派な独立国」 との史観です。司馬遼太郎を日本のナショナリズムの唱導者と見るのは大きな誤解でしょうが、今日の日本において、曲折のあった日本の過去をどう見るかについて、彼の観点が今やあたかも公的な認識のごとくに広まっているのは確かなように思えます。
- むろん、勢力としては後者の方が圧倒的に強大なのですが、論理的には、こうした二つの見方に分化しえると判断され、それがゆえに、 「二元論」 と見うるわけです。
むろん、誰しも生活に忙しく、そんな過去のことにかまっていられる暇はないのですが、そうしてかまけているうちに、こんな二元論の、いずれの片棒をお前は担ぐのか、との選択を強要されてきているかの状況が見られます。
私としては、そういう二元論のいずれでもない、その両者をにらんだその向こう側――私の持論である 「両方を選ぶ二者択一」 方式をここにも適用した――に視野を広げたいと望んでいます。
そういう意味では、この訳読は、この二元論にさらに 「三元」 目を提示する、バーガミニが見た日本史についての 「ある日本びいき西洋人の史観」
となっており (小林よしのり式の天皇論をその対極的史観として観測しつつ)、少々入りくみますが、興味深く読めます。
では、日本史に関する謎解きのひとつとして、今回も訳読へとご案内いたします。
(2010年3月30日)
「天皇の陰謀」 もくじへ
「両生空間」 もくじへ
HPへ戻る
Copyright(C) Hajime Matsuzaki この文書、画像の無断使用は厳禁いたします