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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第77回)
隠された新聞記事
今回も分量のある訳読となり、読み出があると思います。
さて、今回は、ちょっと矛先を変えて、この原作の著者、バーガミニについて触れておきたいと思います。
まず、私の姿勢として、彼がアメリカ人であるということから、この訳読連載を始めるにあたってに書いたように、彼のその出自がゆえのバイアスはあるだろうとの憶測があります。つまり、アメリカの世界覇権の片棒を担ぐ傾きは避けられなかったのではないか、という
“予断” です。
そういう私自身のバイアスに対し、それを大いに修正すべき話が、このバーガミニという人物をめぐって聞かれます。すなわち、それをひとことで言えば、彼は、この
『天皇の陰謀』 を書くことで、その母国アメリカでも窮地に立たされた、という話です。つまり、彼はこの本を書くことで、昭和天皇にまつわる知られざる諸事実を暴いただけでなく、アメリカについても支配階級の逆鱗に触れたらしい、というものです。
ニューヨークタイムスの記事によると、彼は1983年9月3日、54歳で癌で死んでいます。54 とは、ちょっと、若すぎます。
実は、このNYタイムスの記事にまつわって、ある話があります。というのは、私はもう、何年も前にこの記事の所在を知ったのですが、その実物を読もうと、オンライの同新聞社の閲覧サービスを利用しようとしました。そして、同社に所定料金を払ってそのコピーの送付を申し込むところまでは順調だったのですが、それが、そのコピーが送られてこないのです。二度試しても同じでした。そこで今回、アメリカに滞在中の知人に頼み、再々度、申し込んだところ、送られてきたものは、
「その記事は失われて発見できない」 との同社のメールでした。NYタイムスたる大新聞社が、わずか30年前の自社記事の記録を持っていないというのも信じ難い話です。そこで先日、私はシドニー大学の図書館を訪れ、そのアーカイブよりその記事の写しを入手しました。で、その中に発見した、NYタイムスが公表をはばかっているらしき部分はこうです。彼の略歴と、
『天皇の陰謀』 を出版したとの説明の後に、以下のようなくだりがあります。
- 彼の著作は、裕仁についての一般的な見解、すなわち、軍国主義者の計画した侵略と残虐行為に大人しく従うよう強制された、という見方をひっくり返すものであった。そしてその結果に生じた論争は、立憲君主としての立場を擁護するため、その45年間の在位の間で初めての記録に残る記者会見を持つように、天皇を導いた。(1983年9月4日付ニューヨークタイムス、私による翻訳)
この記録に残る記者会見とは、1975年の天皇の訪米の後、日本で開かれた外国人記者との公式会見のことを指していると思われます。ところで、この記者会見は、そこでの天皇の発言に物議をかもすものとなったものです。すなわち、訪米先で、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」
との発言があり、帰国後のこの会見で、ロンドンタイムスの記者が、その発言の真意を質して、それは、「戦争にたいして責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいします」
と質問したところ、昭和天皇は 「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」
と返答した。
天皇問題をそうした一般的見解の中に封印しておこうとする日米の関係者にとって、バーガミニの著作 『天皇の陰謀』 はまるで鬼門のような存在になっていたことが、このNYタイムスの記事からも、そして、その後の天皇自身の苦しい発言からもうかがえます。日本の天皇に、こうした苦境を与えた元凶がもしあるとするなら、その者の立場は・・・、とおもんばかれます。
バーバミにがそれほどの若死にをせねばならなかったいきさつは、今の私にはうわさや風評でしか知りえませんが、彼の晩年は、中傷や雑言で包まれていたようです。おそらく、一時は編集者をつとめた雑誌LIFE社からも追われ、執筆の場も奪われていたのでしょう。1971年の同書出版のあとは、5年後の小説(内容不詳)の出版があるのみです。
さて、もし、こうした彼の経歴が事実とするなら、我々の訳読している彼の著わした見解は、単なるアメリカ人のバイアスどころの話ではなくなってくるでしょう。それどころか、それほどに、米国にとってもの真実を突いていたもの、と言えるものかも知れません。
いずれにせよ、 「ダブル・フィクション・・・」 との期待を裏切るものではなさそうです。
話は変わりますが、この訳読をしてきて気づかされたことです。
南京のいわゆる30万人虐殺問題ですが、捕虜殺害の命令はどうもあったようですが、その規模が30万ほどのものであったのかどうか、私には、それがどうも疑問となってきています。
それは、日本の中国占領の目的が、本訳読で明らかとなってきているように、将来の南方での欧米諸国との総力戦を準備する兵站および生産基地としての中国の掌握であり、そういう意味では、中国の物的、人的生産力になるべく傷をつけないように掌握するというのは不可欠であったはずです。そういう時に、当時の首都の市民人口皆殺し以上の規模の、それほどの殺戮をする必要はなかったはずです。
一方、どうやらその30万という数字は、戦後の東京裁判にあって、米国が行った、広島・長崎の原爆投下に先だって、東京をはじめとする日本の大都市への無差別空襲による大量の死者
(その合計もほぼ30万人になるという符合) という 「戦争犯罪行為」 を隠ぺいさせるため、人為的なねつ造と強調があった疑いが濃い数字であることです。事実、東京裁判での南京虐殺への反論や弁護は、異常なほどに、審判から却下されたり、英語弁護の通訳がされなかったり、また今日、その資料が途切れたり残されていなかったりして、まるで、その数字だけが異様に一人歩きしていることです。
思うに、中国の共産党政府の成立に、国共分裂した内戦状態――日本はその助長を工作した――を経ながらも、その分裂を克服して一大結束を不可避にさせたという意味で、日本の侵略行為は、日中関係における巨大な歴史的逆説であったように思われます。そういう意味では、皮肉などではなくむしろ反面教師的に、日本は中国共産党政権の “生みの親”
であり、そういう脈略で、米国産の 「30万人」 という数字が転用され、現中国政府の公式見解にもされているのでありましょう。
また現在の尖閣列島問題にしても、中国共産党政府にしてみれば、その炎上は流砂状の国民を結束させる格好の接着剤であり、他方、それに油を注ぐ都有化を発言した石原知事は、それをワシントン滞在中の、しかもヘリテージ財団という右派シンクタンク主催の講演会での席上で取ってつけたようにおこなっています。明らかな、対中緊張を作り出すための米国の策動の片棒担ぎです。
彼が、もしそういう軽率な請負人にすぎないとするなら、彼が、30万という数字を日本人同士間の論争へと変質させ、また、尖閣問題を日中関係のくさびにするというる動きは、その元請が誰で、どういう狙いの策動の片棒を担いでいるのか、ということになります。日本の首都の公式な首長である彼が、どうして左様に度々、そう日本国民の和を乱してばかりいるのか、まことに奇怪な言動の主です。
ちなみに、尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、日中間、日韓間には、かってのそれぞれの大物政治家たちが残した 「密約」 があり、そのいずれも、問題を永久に棚上げにして触れない、という取り決めがあるといいます( 『文藝春秋』 今年11月号、 「失われた密約」 立花隆、参照)。つまり、そういう、互いに主張を始めたら、それこそ、腕づくで相手を黙らせるしかない問題は、解決しないことをもって、解決したとみなす、との判断です。私たちは、それぞれの隣国関係において、これほどにも成熟した関係を持てた国同士です。その貴重な蓄積を、軽率な受売主の言動で、台無しにされてしまってはたまりません。
それでは、第22章(その4)へ、ご案内いたします。
(2012年10月22日)
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