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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第78回)
なぜ、そんなに危ない戦争を?
時はいよいよ1940年に入ってゆきます。1940年と言えば、私が誕生するわずか6年前です。今日なら、6年くらいの歳月の経過はあっという間ですが、当時のこの先の6年間といえば、日本の歴史にとっては、もっとも暗く、悲惨でもあった期間です。
そういうアジア・太平洋戦争時代への突入について、誰もが思いつくことだと考えるのですが、この戦争という道を、日本はどのように、またなぜ選択して行ったのか、その問いへの答えが、いよいよ見え始めます。
今回の第23章(全部)の訳読の限りでは、日本のこの大戦争への選択は、今風に言えば、超ワンマン社長による、まさしく企業存亡をかけた、実に危ない大ギャンブル・ビジネスへの挑戦です。その企画段階の限りでは、まず、 “銀行の融資” は断られるでしょう。
世界の歴史の流れから言えば、それは、西洋諸国から売られた喧嘩を買わざるをえなかった大情況はあるのですが、それにしても、あまりに性急に計画され、あまりに行き当たりばったりで、あまりに空理的で、あまりに整合性のない、戦争突入であったと感じさせられます。その他の選択は本当になかったのか、と思い遣られるところです。
今日の沈滞ムード一色の日本から見れば、いかにも意欲満々、はつらつたる日本であったのですが、それほどの “やる気” がどうして生じていたのでしょう。
つまり、そこまでの “曲芸” を意図しえた何らかなの特異な要因、つまり、日本人が抱きやすい、情念的特質、あるいは、ある壮大な “オカルト的”気質の存在があるかに感じられます。それは言うまでもなく、天皇制に関わる次元です。
私はその成立の日本独特な経緯のリアリティーを無視はしませんが、いわば、そういう特徴的な 《両刃の剣》 の使い方の、その 「凶」 の側がそこに見られるように思います。逆に、その 「吉」 の面は、日本社会の何ともかけがえのない同質性とそれのもたらす調和・包含感覚があります。
それと、独伊日の三国同盟に関し、意表をつく独ソ不可侵条約締結に見られるような、国家間関係の高度で毒気のある駆引きに、日本がどれだけ馴染み、どこまで当事者能力を持ち得ていたか、その国際関係上の
《新参者ぶり》 に注目させられます。
そのヒットラーの人を食った駆引きが読み切れていなかったのはおろか、そういうドイツの破竹の勢いの尻馬に便乗して、日本が、文字通りに 「火事場泥棒」 式に東南アジアに侵攻していったいきさつは、天皇自身も認めているところです。そんな、腰の軽い危なさ、つまり明確な自己像を欠く安易な国家間関係へのもたれに頼って、そう突進して行ってしまった日本であったわけです。それは、「ギャンブル」
とたとえるのもはばかれる、どこか幼児的な日本像です。そういうヒットラーの手玉にされる日本を、まさに死を目前にした老西園寺が、 「我が国はドイツの食い物とされるだけに終わる」
(第22章(その3)の冒頭を参照)、と見抜いていたのも、そういう大人と子供の関係を知っていたからであったのでしょう。
昭和前半の天皇制に関し、ことに、その 「戦争責任」 にまつわって、昭和天皇は、軍部の傀儡だったというのが戦後の通説です。そして、その通説に強力な異論を提出したのがこの 『天皇の陰謀』 で、昭和天皇は、むしろ、真の指導者だったというのが、著者、ディビット・バーガミニの論点です。
その 「真の指導者」 説の論証にあたり、当訳読の読みどころは、敗戦を前に徹底して実施された戦争遂行文書の破壊工作後の、物的証拠上の “人為的真空状態” から、何を読み取るのかという 《著者の眼力》 にあります。
もちろんこの訳読では、その 《著者の眼力》 は縦横に見せてくれているのですが、なにしろ、その作業は、消された証拠から事実展開を読み抜く、無から有をつむぎ出す試みです。したがって、そこには避けがたく、読みの過剰や過小が伴なって、前者の場合は
「空論的」 、後者の場合は 「凡庸」 との酷評をまねきかねないこととなります。
私は、ここまで訳読を進めてきて、おおむね、著者の 「読み」 は、その両極端には振れていない、妥当なものと考えています。緊張はあるものの、正論の範囲は越えていません。
ただ、細かい点ですが、いよいよ、日本の戦前期の正念場にさしかかり、その 「無から有をつむぎ出す」 作業も、最も困難な局面に差し掛かりつつあります。そこに、ある種の勇み足かととれなくもない部分あるように思います。
たとえば、閑院親王の引退の箇所で、欧米紙からの引用があるのですが、その出所が示されていません。
また、その後の高木惣吉大佐の箇所では、一パラグラフ全体の見解の根拠・出典が示されていません。また、いろいろな文献を総合した、自身の解釈であるとの断りのコメントもありません。
いずれも、表示漏れ等の許容しうる誤りの可能性はありますが、デリケートな部分だけに、その欠落が気になる箇所です。
今回、その 《著者の眼力》 が光っているのが、対米戦争の決定にあたり、陸海軍同士の対立です。私の知る限り、この対立は、ことに 「天皇傀儡」 説の立場からではあまり取り上げられておらず、されていても、些末な問題のひとつとされているようです。しかし、それはむしろ、戦争戦略の根本的対立――対米戦争を避けるのか、それとも、向かうのか――にかかわり、とても軽微な参照ですむ問題ではないと思います。つまり、対米戦争は実際に開始されたわけであり、そこから逆算すれば、そういう根本的対立を解消させた強力な指導力があったわけです。つまり、それこそが天皇であったとする 「真の指導者」 説が逆に浮かび上がってくるわけです。
ともあれ、以上、さまざまに、興味深い論点が見られる今回の訳読です。
それでは、第23章全訳読へ、ご案内いたします。
(2012年11月7日)
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