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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第79回)


「顔の広さ」 の活躍


 今回の訳読のハイライトは、著者バーガミニが、さりげなくながら、しかし、極めて重要な指摘を行っている箇所です。
  「国民の冷淡」 の節の結末で、彼は、鈴木貞一が近衛政府の企画院の総裁となって、経済の金融支配を組織した、とのくだりです。
 ちなみに、この鈴木貞一という軍人には、つねに 「顔の広い」 という変な形容詞が付されています。この目障りにも思われる形容詞がいつも付随するのは、英語を母国語とする原著の読者――日本人の名前を判別しにくい (逆に日本人読者は外国人の名前を判別しにくい)――のために、いつもそう “レッテル” を張って解りやすくしているためです。それは、原著者もあえてそうしていると、
断り書きを入れています。訳文には時に不必要でもあるのですが、本訳読では、あえてそのまま訳出しています。
 調べてみると、この 「顔の広い」 鈴木貞一は、東京裁判でA級戦犯とされながらも生き抜き、戦後、岸内閣や佐藤内閣の顧問として、自民党政権の経済政策の影のブレインとして活躍し、1989年(平成元年)まで、百歳という長寿を生き抜いた人物です。
 つまり、彼の 「顔の広さ」 は、若い頃の軍人としての働きに加え、太平洋戦争を直前にした頃より、経済政策推進者としての顔も持ち、軍部と、財閥(金融)による二つ支配の間の調整役を果たしました。そして、その 「顔の広さ」 がゆえに、戦後までも重宝がられたわけです。
 私が、ここで重要だと思うことは、軍部主導による全体主義体制と財閥による経済の金融支配が合体しているところです。つまり、昭和天皇体制は、単に軍部の先走りのみだけでは達成できない、この金融支配の構築も合わせて進行させていたことです。これは、軍部という、いわば封建支配の近世的練り直しの体制だけでは決して進められなかった、軍国体制に加え、経済体制の金融支配という近代的様相をも、昭和天皇制は持っていたということです。
 私は、この点をもって、いわゆる 「天皇傀儡説」 は大きく根拠を失い、 「真の指導者説」 が決定的に浮上すると見ます。言い換えれば、天皇家は、自ら金融財閥に匹敵する民族資本へと成長しつつ、日本のアジア支配を推進したのです。逆に言えば、軍部の物理力を援用して、日本金融資本のアジア支配体制を構築したのです。決して、軍部に牛耳られたわけではありません。だからこそ戦後、米国は日本の財閥を徹底して解体したのです。(念のために 「ダブル・フィクション」 の観点を付記すれば、「天皇傀儡説」 は、天皇家の資本家たる性格を隠すフィクションの役割を果たしているということです。)
 そもそも、米国を相手とする国力を挙げた総力戦を想定している戦争に、軍部をその物理力の一部としつつ、なおかつ、全産業、全組織の総合力を積み上げるシステマチックな臨戦態勢の構築は不可欠であったはずです。現に、この鈴木貞一をはじめとする、「顔の広い」、軍・産業・金融の結合を画策していた動きは実在していたわけであり、それを、 「天皇傀儡説」 や 「軍部の独走」 になすりつける画策は、それを意図する側はいわずもがな、それを信じる側も、いかにもすり替えのみえすいた議論であると言えましょう。むしろ問題とすべきは、そういう単純化で隠された部分、つまり、総力戦を準備した軍部以外の総産業力に着眼し、それを再興しようとしたのが、それこそ、戦後の 「平和経済」 の提唱であり、それからの “水揚げ” を意図したのが、戦後の日米安保体制であったのでしょう。


 今回の訳読のもう一つのハイライトは、松岡洋右外相の良きにつけ、悪しきにつけての活躍です。対米戦を何とか避けようとする最後の試みが不幸にも失敗に終わってゆく経緯で、松岡の活躍が裏目となってゆくくだりです。
 松岡洋右は、日本生まれですが、子供の頃、両親の事業の失敗から、アメリカに移住していた親戚のもとにあずけられ、その地で育って、オレゴン州立大学を卒業した国際人です。その彼が、得意な英語を駆使して国際舞台で活躍するのですが、そこには落とし穴がありました。
 ただ、話は今回では完結せず、その前半部分です。

 それでは、第24章(その1)へ、ご案内いたします。

 (2012年11月21日)



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