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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第85回)
「親の仇討」 と考えよ
若い頃、戦争について考えていて、自分が兵士にならなければならなくなった時、果たして自分に他人が殺せるのだろうか、と考えたことがありました。
たとえばそれは、自分が戦場にあったとした場合、ジャングルの中かどこかで出会いがしらに敵兵と鉢合わせしたとしますと、お互いにその顔が認識できるほどの距離にあって、おそらく自分と同世代であろうその
“初対面” の相手を、とっさに殺せるのだろうか、といった疑問でした。そしてむしろ、そこでほんの一瞬でも、とまどってしまったがゆえに、相手の銃が先に火をふき、自分は先に発砲したその敵兵の顔を見つめながら死んで行くことになるのではないか、と考えたりもしました。
そう想像しながら、戦場という極限の場にあっては、こうした平常な心理をもたない、即座に相手を殺せる行動がとれる、何か特別な訓練がされるのであろうな、といったことを漠然と考えた記憶があります。
そうした疑問に、今回の訳読が答えてくれています。
今回の 「陸の征圧」 の節のほぼ終わりに、戦場に派遣される兵士の一人ひとりに渡されるマニュアルについての記述があります。曰く、
- 上陸後、敵と遭遇した時、自分を、遂に親殺しをつきとめた、仇討をする者とこころえよ。長い海路の苦痛も、酷暑の中の行軍の厳しさも、この敵を殺す瞬間のため、何か月も待ち、見つめてきたがゆえのものだ。いま、眼前にあるものは、その死がお前の苦しい怒りの重荷を解き放つものだ。もし、その敵を懲らしめることに仕損じたら、お前は決して安息できない。そして、最初の一撃こそ、決勝の一撃である。
私はこのくだりを訳読しながら、上の疑問にひとつの回答をえていたのですが、それにしても、すさまじいものがここにあります。
だとすると、このすさまじさは、その極限の場面に向けた覚悟をうまく納得させる、ただの極端なたとえなのでしょうか。それとも、当時の日本人にとって西洋人は、仇討をする必要のある、仇敵であったのでしょうか。
前回、この 「アジア・太平洋戦争」 を、 《帝国主義国間の紛争》 と見るか 《文化の衝突》 と見るか、によって、見えてくるものが違ってくる、と書きました。
また、当時の日本は、二面の顔をもっていたとも書きました。
そういう両面的特徴を念頭においてこの 「すさまじさ」 を見れば、当時の日本の指導者層は、その両面性を末端レベルの兵士まで徹底させるため、そこまでの狂信性をもって臨む必要があったのでしょう。
もしそうだとすると、同じ極限の戦場にのぞむアメリカの兵士は、どのような教育を受けていたのでしょう、と考えたりもします。
それでは、第27章 南進 (その1) へ、ご案内いたします。
今回より始まる第7部は、 「世界終末戦争」 とタイトルされています。原文通りに言うと、 「ハルマゲドン」 です。少なくとも著者にとって、この戦争は、そう位置付けられるものであったようです。
(2013年2月22日)
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