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巻末脚注(11)
(2012年8月7日現在)
(第五部 軍紀の粛清)
第十九章 1935年の粛清
(1) 原田、4: 279-80 参照。
(2) 村中こうじ大佐と磯辺あさかず一等主計官による。IPS Document No,. 3166 (National Archives Microfilm,
WT79-WT80)。出版期日については、原田、4: 302 (n.)。
(3) 梶浦および田中とのインタビュー。
(4) Crowley, 260。
(5) この節は、引用も含めすべて、 大谷 『落日』、73-102 (原田、4: 293-94、木戸 『日記』、418 で確認)に基づく。大谷はこの件を詳しく観察した憲兵隊に勤務しており、彼と部下は、この会話の聞こえるところに居合わせた。その後、彼が上司の憲兵司令官に提出した報告書は、極めて詳しいもので、それにより彼は、千葉方面の憲兵隊長に昇進した。そうした報告書は、憲兵司令官によって保管され、必要に応じて、国璽尚書事務官あるいは侍従武官府のうちのいずれかを通じ、宮廷に提出された。裕仁は通常、一年半ごとに、新たな憲兵司令官を選任した。その当時の現職は、田代
皖一郎中将だった。
(6) 木戸 『日記』、416-17。
(7) この節は、引用もふくめ、本庄, 220-222 と 原田 4: 295 に基づいている。
(8) 彼の死の数日前に書かれた文書。その中に永田はこう書いている。 「維新のために軍の力を用いるのは正しくないと信ずる。〔それが用いられるべきななのは〕天皇による直接命令かつその全う性においてのみである」、志藤やすすけ
『永田鉄山中将』 (東京、1938年)、285-87、Ogata, 200 の引用より。
(9) この節は、引用を除き、 大谷 『落日』、102-13 に基づいている。
(10) 仙台の第2師団、第29歩兵連隊において、松本清張による東久邇へのインタビュー、 『文藝春秋』、1968年1月号、161-。
(11) IMTFE "Proceedings", 2311- 、および、同書、passim, の Dull and Umemura による索引の松井自身の証言。
(12) 原田、4; 299。ここでいう 「11人倶楽部」 とは概ねの意味で、木戸、原田、近衛の中心的人物のみが出席。
(13) 本庄, 222-23。
(14) この節は、引用を除き、室伏、280-86、 大谷 『落日』、126-31、原田、6: 291, 303 および 4:309、Byas, Govt. by Association, 96-118 に基づく。
(15) 原田、4; 355-56。
(16) 木戸 『日記』、423-24。
(17) 本庄, 226。
(18) 木戸 『日記』、421。
(19) 本庄, 224。
(20) 原田、4; 311。
(21) 大谷 『落日』、129-30。
(22) 伊藤金次郎、1: 140-41。
(23) 東久邇は (松本清張によるインタビュー、 『文藝春秋』、1968年1月号、161-)、東条の任命は自分のせいであるとしている。同時に東久邇は、東条の後援者は阿部信行大将であったことを認めている。阿部は梨本親王の友人かつ子分で、陸士での一年後輩。従って、別の匿名情報源が示すように、梨本は東条の常時の後援者であったと思われる。
(24) 原田、4: 350 を参照。
(25) 同書、4: 322-23。
(26) Yanaga, Since Perry, 507-8。
(27) 木戸 『日記』、266。
(28) Crowley, 231。
(29) 原田、4: 342-43。
(30) Byas, Govt. by Association,198、200。
(31) IMTFE "Proceedings", 2277-。
(32) Brocade Banner, 59-64。
(33) 原田、4: 352。
(34) 木戸 『日記』、444-45。
第二十章 2.26事件
(35) この章のために、私〔著者〕は、参考文献や引用に挙げた書籍以外に、以下の文献をその背景理解に使用した。福本亀次、 『秘録 2.26事件真相史』
(東京、大勢新聞社、1958年)、橋本徹馬、 『天皇と叛乱将校』 (東京、日本週報社、1954年)、河野司編、 『2.26事件』 (東京、日本週報社、1957年)、松村ひでとし、
「奉勅命令と石原莞爾の油断」、『天皇と叛乱軍』 所収 (東京、日本週報、1957年3月)、大谷敬二郎 「憲兵の目で見た叛乱将校」、 『天皇と叛乱軍』
所収、大谷敬二郎、 「真崎大将無罪の疑惑」 『天皇と叛乱軍』 所収、 『2.26事件30年記念号』 (東京、新せいりょく社、1965年)。
これらの文献に加え、私は、立野 『叛乱』 をその状況を知る上の最も有用なものであることを発見。加えて、私は、彼の、 「2・26の謎」 と 『昭和軍閥』 より事件とその発生をめぐる挑発的な思想を知る助けをえた。その他の背景を知る助けになったものは、前田治美、
『昭和叛乱史』 (東京、日本週報社、1964年)。もちろん、日本にはこの叛乱についてのおびただしい文献があり、そのすべてを網羅するのは不可能である。2・26事件に関する文献の最も有用な案内は、私の知る限り、秦、 『軍ファシズム』、131-202 で、完璧な参考資料一覧が挙げられている。
(36) 大谷 『憲兵』、195-98、 『落日』、174-76、Brocade Banner, 78。秩父の関与については、河野つかさの 「2・26事件の謎」 〔ママ〕 と 「2・26事件」 を参照。叛乱兵士の一人である河野ひさしの近親者である河野司は、2・26遺族会の会長を長くつとめた。
(37) 秦、 『軍ファシズム』、154。
(38) 大谷 『落日』、174-76。
(39) Storry Double Patriots、180-81。
(40) 木戸 『日記』、452-53。
(41) 原田、4:413、木戸 『日記』、459-60、田中とのインタビュー。
(42) この節は、これ以前には、欧米でも、また、日本の二次資料としても、報告されたこのない内容で、大原・島津の件に関する警察資料についての木戸の覚書
(木戸 『日記』、527-29)、および、木戸日記 (456, 493-97, 500-501, 504-14, 516, 518, 526, 591)
から得たものである。原田、5:154-55, 167 も参照。
(43) 小山, 51-52。室伏、195 も参照。
(44) 木戸 『日記』、470-71、原田、4:413, 420、Brocade Banner, 71-72。
(45) 木戸 『日記』、470-71。
(46) Yanaga, Since Perry, 513、Byas, Govt. by Association, 99-118、木戸 『日記』、452-53、高橋、32、Brocade Banner, 71-73、原田、5:154-55, 167。
(47) 木戸 『日記』、459-60。
(48) Scalapino、381-82。
(49) 高橋, 32-37、大谷 『憲兵』、89-91。
(50) 高橋, 37。
(51) 同書、34, 40、Brocade Banner, 74。
(52) Brocade Banner, 73-74、高橋, 35-36、原田、5:300。戦後、国際軍事法廷において、鵜沢は、松井岩根や白鳥敏夫の弁護人となった;Brocade Banner, 146。
(53) 西園寺がいつ暗殺の警告を受け取ったかについて、見解により様々な食い違いを見せている。私が得た口頭による情報源で最良で最も貴族的なものは、西園寺は、蜂起の前日、安全な所に自ら移ったと、明快に述べている。児玉誉士夫――地下組織の情報に長けた右翼常習犯――も、西園寺は蜂起の情報を前もって受け取っていたと感じていた(Kodama, 54)。A.M. Young, Imperial Japan, 277 は、西園寺は 「その夜、警視総監の計らいを伝える電話を受け取って警告された」 と見ている。Byas,――信頼しうる情報をもった西洋人記者――は、西園寺は 「彼の住む県の知事によって安全な場所に急遽連れて行かれ、そして、もし叛乱軍が彼を殺害しようとした場合には、それを差し止めたろう」
と述べてい (Govt. by Association, 121)。戦後、日本の憲兵の極秘書類から米国情報組織が収集したBrocade Banner によれば、西園寺は、蜂起日の朝の午前6時から7時の間までには、警告はされていなかったと述べている (143)。後年、室伏や高橋といった日本の研究者は、西園寺は、かろうじて逃げのびた、としている。しかし、原田、5:36, 300 は、西園寺は2月25日に電報で警告されたと述べている。彼の情報提供者の鵜沢聰明は、その陰謀を2月24日に知った(Brocade Banner, 143)。Brocade Banner はさらに、真崎大将は2月26日の午前4時少し過ぎに鵜沢を起こし、5時30分の汽車に彼を乗せて興津に行かせたと述べている。私はこの意味を、鵜沢は午前7時前には興津に到着し、西園寺が一日早く与えられた警告に留意するよう念を押そうとしたと解釈している。彼がその
「座漁荘」 に着くと、もはや、木戸が6時40分に電話した時に応対した使用人ら以外には誰もいなかった。木戸の行動は、こうした見方と矛盾しない。木戸 『関係文書』、4-5 に、彼は、第一師団が蜂起し、古参政治家を殺害しようとしていることを1936年2月2日に知ったことを明らかにしている。彼は明らかに、2月26日午前6時40分まで待っていて、それで西園寺に警告の電話をした。そこで彼は、西園寺は安静に眠っているので起こせないと言われた。一年後
(木戸 『日記』、535)、叛乱の開始の真崎大将への正確な知らせは、 「以前に知らせた午前8時ではなく、午前3時ころで、これは〔真崎の〕お抱え運転手から確証した」 と、木戸は牧野から電話で知らされた。ということは、木戸と牧野は、この日記の記入日の1937年1月12日まで、西園寺の逃亡について、誰が仕組んだのかをずっとさぐり続けてきたということだ。
(54) 原田、5: 300。
(55) A.M. Young, Imperial Japan, 277-78、および、西園寺の親しい友人であった銀行家の息子とのインタビューで補強。
(56) Brocade Banner, 74、高橋, 27-28。
(57) 高橋, 27-28、室伏、310-11。
(58) 朝日新聞、1936年2月26日、A.M. Young, Imperial Japan, 276。
(59) 高橋, 37-38。
(60) この節は、引用を除き、Brocade Banner, 73-94、高橋, 46-60、室伏、290-313、 Byas, Govt. by Association, 119-22、Fleisher, 69-88、A.M. Young, Imperial Japan, 276-80 に基づく。
(61) 秦、 『軍ファシズム』、154-55。
(62) Grew, Ten Years, 157。
(63) 阿川, 88。
(64) Grew, Ten Years, 157-58。
(65) 高橋, 46-49 をもとにした解釈。
(66) 木戸 『日記』、264-79、原田、5: 3-22、本庄, 235-38, 266-67, 271-99 と、Grew, Ten Years、Creigie、Byas, Govt. by Association、Fleisher、A.M. Young, Imperial Japan, の2・26事件の解釈を比較せよ。
(67) 本庄, 234-35。
第二十一章 鎮圧 (1936)
(68) 本庄, 271-72。私〔バーガミニ〕は、本庄の返答の中に、彼が自分の日記に、あたかも自分が語ったかのように書いている彼の考えを含めた。
(69) 木戸 『日記』、464-66、原田、5: 3-4。
(70) 木戸の三行の電話内容の記述は、IMTFE に提示するために用意された翻訳には、不可解に割愛―― 「全部」 と印され――されている。
(71) 原田、5: 4。
(72) 大谷 『憲兵』、191。
(73) 木戸 『日記』、464、宿泊場所の描写については、小泉とのインタビュー。
(74) Brocade Banner, 75-、高橋, 58-60。
(75) 木戸 『日記』、464、本庄, 272、また、阿川, 94、本庄, 273 参照。
(76) 本庄, 272、また、Byas, Govt. by Association, 123。
(77) 高橋, 25-26。この英訳では、私〔バーガミニ〕は意味とともに、雰囲気を出そうと努めた。
(78) 木戸 『日記』、464 が最初の二返答、本庄, 272 が最後の一返答。
(79) この節は、本庄, 272-74、木戸 『日記』、464-66、Brocade Banner, 81-82, 86-88、高橋, 58-64、69-72、78-90、秦、 『軍ファシズム』、152-55、小泉とのインタビューをもとにしている。
(80) この節は、特に引用の無い限り、本庄, 274-76、木戸 『日記』、466-67、高橋, 78-90、93-99、Brocade Banner, 87-88 をもとにしている。
(81) 念のために言っておくと、私〔バーガミニ〕は、この意味を文字通りに 「柔らかい綿で頭をくるんだ」 天皇をイメージしていた。本庄, 276。
(82) 本庄, 235 と 276 では、やや違った表現をしている。
(83) この楽しい語源解釈は、北川ひろし に拠っている。
(84) 大谷 『憲兵』、191-92。
(85) 木戸 『日記』、466、および、 『文藝春秋』 11968年1月号、160- の松本による東久邇とのインタビュー記事。
(86) The Japan Year Book, 1944-45, 809-。
(87) Brocade Banner, 146。
(88) 木戸 『日記』、468。
(89) 特記ない限り、この節は、本庄, 276-79、木戸 『日記』 466-67、高橋, 99-104 に基づいている。
(90)
伊藤金次郎、2: 68。
(91) 『日本人物史大系』 (東京、浅草書房、1960年)の石原莞爾の項を見よ。
(92) 『文藝春秋』 1966年1月号、263 参照。
(93) 出版された本庄,日記に記されているこの場面の時刻(2月28日午後4時30分)は、二か所において(236, 278)に記述されている。この会話内容については、著者が二つの見解をひとつにまとめた。
(94) 阿川、6。
(95) 特記ない限り、この節は、本庄, 279-300、木戸 『日記』 468-77、原田、5: 6-22、高橋, 104-118 に基づいている。
(96) Brocade Banner, 146。
(97) 本庄, 266-67, 283。
(98) 秦、 『ノートブック』、田中とのインタビュー。
(99) 原田、5: 10 からの著者自身の翻訳。
(100) 大谷 『憲兵』、212、Crowley, 274。
(101) 木戸 『日記』 535。
(102) 高橋, 203。
(103) Potter, Soldier Must Hang, 22 を、秦、 『ノートブック』、と藤沢――フィリピンにおいて山下の部下だった――とのインタビューで補強した。
(104) 大谷 『憲兵』、214-17。
(105) 高橋, 192-200,、Brocade Banner, 90。
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