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第一章
南京強奪
(その3)
大虐殺の開始
火曜日の朝遅く、南京が日本軍の手に落ちて36時間が経過した頃、かつての東京憲兵隊長官中島と彼の率いる第16師団は、トラックや武装車両に乗り、水門を通ってどっと入城した。いよいよ、そのおよそ一万の人びとを捕虜とするに当たって、彼は時間を費やされていた。彼の部隊は、その夜を徹して、捕虜の群れを、揚子江の川岸へと次々と駆り立てるのに多忙であった。兵士たちの指は、機関銃の引き金を疲れ切るまで引かされていた。少なくとも、6千人の捕虜がそうして死んだ。翌日の昼、陰気な明るさの中で、中島の部隊は、軍服を脱いで逃亡し去った中国兵の捜索を、南京市内全域にわたり組織的に始めた。天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。およそ30万人の捕虜がいたと思われ、うち、一万人弱がすでにこうして殺された。蒋介石の軍事顧問、フォン・ファルケンハウゼン大将は、その後、日本軍の「姿勢に根本的変化があった」と、ベルリンに報告している(100)。
「急いだ進攻のため充分な補給を受けていない日本軍は、市内で解き放たれ、正規部隊としては表現に耐えない行動におよんだ」、と彼は書いている。
憲兵中島は、朝香宮より、「治安を維持せよ」との使命を担って南京にきていた(101)。そしてその後、治安は周到に破壊された。中島と共にやって来ていた武藤章〔むとうあきら〕大佐――天皇の秘密顧問団のメンバー――は、朝香宮より、「南京地区における日本軍の宿営の責任」を命じられていた(102)。それ以降、部隊は自らの宿営先を見つけていた。武藤は、城壁外側でのキャンプは不適切で、4師団の全員が市内に呼び入れられ、快適な場に宿泊した、と報告している。
十年後、戦争犯罪法廷において、武藤・中島の占領統治を弁護する中で、中島は、彼を支援して治安維持にあたった憲兵の数はわずか14人であったとしている。だが事実は、彼は東京の全憲兵の最高司令部より到着したばかりであり、将校を本土との間で輸送するための飛行機すらあてがわれていた。また、欧米の報道陣は、彼の配下のそうした憲兵が、兵士たちが南京の民家に押し入り女性を強姦するのを護衛し、略奪を黙認しているのを目撃していた(103)。
武藤大佐は、その審問の中で、市外の揚子江川岸での各師団のキャンプは、「水の不足により不適切」などと、同じような見え透いた弁明を行い、裁判手続きをシニカルにあしらっていた。だが、大群の兵士が市内に入った時、彼らはもっぱら、クーリーに運ばせた揚子江の水を沸かしたり濾したりして使っていた。南京市の浄水場は、12月9日の爆撃や砲撃によって運転不能となっていたが、その被害の程度は軽度と報告されていた。また武藤は、第6野戦衛生処理班や第8野戦技術班の一部をその配下としており、自らの自由裁量ができた(104)。事実、南京の水道は、日本軍が占領して3週間たった1月7日、その再使用が可能となった(105)。
南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。
犯罪の詳細談というものは、むしろ要約談を求めさせるほど、気分が悪くなるような怪奇を執拗に伝える。およそ4千ページのノート、手紙、日記などの記録が、YMCAのフィッチ、フォン・ファルケンハウゼン大将、一人のアメリカ人外科医、二人のアメリカ人大学教授らによって書き留められていた。さらに、安全地区委員会は、残虐行為が拡大する中で、朝香宮の参謀と共に、充分信憑性のある444件の殺人、集団殺人、強姦、放火、略奪のケースを収集した。また、戦後、エール大学の礼拝堂牧師となり、かつ、戦争詩人のイアン・マギーの父親である牧師ジョン・マギーは、彼が見た光景を映画カメラで記録していた。彼の黒白フィルムは、密かに米国に運ばれたのだが、後に「赤裸々な真実性」が真に理解されていないと彼は不満をもらした。というのは、層をなす死体、血で汚れた室、銃剣に串刺しにされた赤子といった映像の連続であるそのフィルムは、限定された視聴者を除き、公開するには余りに不快なものとみなされてしまったからだった。それに加えて皮肉なことに、このフィルムの一部は、「アメリカ・ファースト」の組織により、米国の介入の無益を主張する目的に、もっとも広く活用されることとなってしまった(106)。
12月14日火曜日の到着の日の午後、サディスト中島は、隠れている中国兵向けに、「日本帝国陸軍の慈悲」を信じてあきらめるようにと訴えるビラをまいた。また、中島の部下の一人は、城内で脱ぎ捨てられた6千着の軍服が発見されたので、その情報を提供するようにと、安全地区委員会に問うた。そして、そうした軍服を着ていた兵がすみやかに出頭しない場合は、捕虜としての権利を失い、スパイとして死刑の対象とするとした。西洋人の委員は、この日本側の主張を同地区の全宿舎に言葉どおりに伝え、それは法的には正しいと中国人たちに助言した。翌日、数千人の中国兵や労務大隊に属していたクーリーがそれに応じた。二週間後、YMCAのフィッチは、「日本軍が彼らの命を助けると言うなんて、私は何と愚かだったか」(107)と書き残していた。
12月15日、水曜日、捕虜たちは、市内の広場に集められ、両手を針金で縛られ、数珠繋ぎに行進させられ、川岸に設けられた囲いの中に拘禁された。その夜、囲いの脇では、狂気乱行の命令が実行された。捕虜は、一団ごとに連れ出され、日本兵に周囲を囲まれ、銃剣突撃の人形の代わりとされた。山となった死体には石油がまかれ、火が付けられた。さらに捕虜が連れ出され、燃え上がる炎のなかに放り込まれた。サーベルをもった将校は、首切りのデモンストレーションを行った。日本刀を用いては、誰が先に人間を頭から胴まで一刀のもとで二つに切断できるか、その競争が行われた。
木曜日も、同じ所業が繰り返された。軍人の捕虜が不足したため、中島の隊員は、強壮な中国民間人なら誰でも捕まえては彼らを調達した。発電所で電力の復興にたずさわっていた職員も調達された。安全地区に雇われている9人の警察官と、47人のボランティア警察官も、同じく調達された。さらに、恐怖を高める工夫として、新たな処刑が試され、銃剣と焚き火という胸を悪くする単調さに新規さを加えていた。日本軍の将校によって撮影された写真――後に、無神経にも、上海の写真館に現像のために持ち込まれたそのフィルムは、その写真館員の手によって複写された――によると、手足を縛られた人間が首まで地中に埋められていた(108)。三世紀、万里の長城を築いた中国皇帝が、禁制であった儒教の学者らを同様な方法で処刑した。日本や中国の学童は昔から、身の毛のよだつ古代の恐怖物語を読んできていた。南京でのそうした物語の再現は、文化的伝統を食い物にする妙案として、参謀たちを得意にさせたに違いない。しかし、見世物という点においては、凝り過ぎと忍耐のなさによって、心理的効果を減じていた。つまり、古代では、犠牲者の頭は、地中の身体が衰弱するまで延々と、通行人の足蹴りや罵声を耐えねばならなかった。だが、1937年の犠牲者は、飢えと刑執行側の気まぐれから、銃剣で突き刺されたり、馬に踏まれたり、熱湯を掛けられたり、戦車やトラックに踏み潰されたりして、すべて早々と死に至っていた。
日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。
12月15、16日のこうした大量拉致は市にパニックをもたらし、女性と子供が根こそぎ、安全地区に避難してくる事態となった。その大半は、夜間、密かに避難してきた。あるものは、顔に傷やしわを描いて、昼間、路地つたいにこそこそとやってきた。その結果、同地区の人口は、72時間のうちに、5万人から20万人へとふくれあがった。同地区委員会が職員や台所を用意した学校や寮に入ることができた難民は、その四分の一だけであった。残りの難民は、準備された避難所にできるだけ近い場所に野宿していた。そのため、彼らは、地区の警官や在南京の22人の西洋人による保護を、ほとんど得られなかった。
それでも、日本兵は地区の建物を頻繁に襲い、犠牲者を増やしていた。毎夜、毎夜、兵士たちは壁を越えて侵入し、ピストルを振り回しては望む限りの女性を脅して、彼らの道をとげていた。そうした状況下、西洋人たちは驚くべき権威を保ち、兵士が単独でそうした行動におよぶ場合、強姦をやめさせることに成功していた。オックスフォード、エール、ハーバードの各大学の学位をもつ歴史学教授のシアール・ベイトは、すでに、5件の強姦目的の侵入を防いでいた。しかし、同地区には、余りに多くの女性がおり、あまりに多くの建物があり、あまりに多くの飢えた兵士がいたのに対し、憤懣した西洋人の牧師や教授たちは、あまりに少数だった。時には、そうした彼らでも、銃剣を突きつけられ、無力に傍観させられることも少なくなかった。
服装を乱し、笑い、酔っ払った征服者たちが自身の欲望をはらして回った二日間が過ぎた後の16日木曜の夜、安全地区委員会は会合をもうけ意見を出し合った。幾人かは、自分が見たことを話そうとしている間、涙にくれていた。あるひとたちは、最初の夜、千人の女性が強姦されたと推定し、そして次の日も同数ほどの強姦があったと見積もっていた。翌朝、委員の一人は、彼が監視している建物に、37人の男に次々と陵辱されたという女性を連れてきて保護した。別の委員は、一人の兵士が母親を強姦している時、窒息死させられようになった泣きじゃくった赤ん坊を、もうそういう目に会わないよう、彼の法衣用の綿布の上にあずかっておくことを決心していた。
中島による最初の恐怖の三日間、彼の兵士たちは冷酷であったが、ナチのように効率的ではなかった。機関銃弾を節約するため、彼らは、ほとんどの処刑に銃剣を使い、驚くべき数の犠牲者が、はいずって逃げて生き延びていた。数千人の男や女が粗野な日本式の虐殺にさらされたが、命を取り留めた人が数百人いたということは意外な数字ではない。それでも、戦後の戦犯裁判で改めて注目されたいくつかの話は奇跡的ですらあった。一瞬のうちになぎ倒された人たちの中には、機銃弾からも、銃剣からも、石油で焼かれることからも逃れた人たちがいた。銃剣で刺しぬかれ、川に放り込まれた人が、アシにしがみついて何時間も、日本兵が立ち去るまで耐えていたとの話もあった(112)。首を切られた人――太い首の筋肉は切断されたが脊髄は切られなかった――は、川岸の小屋に放置されながらも生き延びていた。浅い集団墓場に埋められながら、もがき出た人たちもいた。不衛生な子供時代を生きてきた中国の農民は、耐久力ある体質と、生きることへの一途な執念があった。
凱旋入城
12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。そこで、彼は、鼻筋に白い線をもつ見事な栗色の馬に乗った。その門前において、背後につづく凱旋行列の整列を待つ間、彼は痛ましい気持ちで、共和国中国の建国の父で、かつ、彼の古い友人である孫文――背後の丘の大霊廟に葬られていた(113)――に思いをはせていた。松井と孫文が、東洋の統一と友好についての夢を共に語り合ったのは20年以上も前のことであった。また、孫文がその紫金山の墓に葬られてから、すでに8年が経過していた。その葬儀に、弔問のために訪れた松井以外の日本人は、すでに他界するか名声を無くしていた。日中の協力を唱えたかってのグループの人々うち、松井のみが今なお権威を維持していた。
松井は、背後の騒ぎでその瞑想から現実にもどされた。彼は振り向き、騎馬行列の二番目に位置する、パナイ号を沈めた橋本欣五郎をそこに認めた(114)。松井は、パナイ号攻撃のあと、橋本を懲罰しようとしたが、そこで松井が見せ付けられたことは、橋本が有力な友人によって守られていたばかりでなく、朝香宮が彼の譴責すら認めようとしないことであった。それは計算ずくの無礼行為であったのだが、橋本は自身の威厳をより目出させるために、松井の馬より大きく立派でその小鼻に星をもつ鹿毛のサラブレッドに乗馬していた。その式典は午後に終わったが、その征服者の栄誉は薄らいでかつ空虚に見えた。その地は、朝香宮の指揮権内であり、松井には、自分の面子が傷つけられたことへの注目を引かせること以外にすべはなかった。彼の苦言は、一週間後に、ニューヨークタイムスの特派員――すべての人々にではなく――に表されたが、それ程に縮小されていた。
へたなラッパのファンファーレが響き、松井大将は、橋本と朝香宮の側近を率いてその陥落させた首都へと入った。彼の眼前の大通りには、数万人の兵士が列をなしていた。彼は馬を後ろ足で立ち上がらせ、はるか東北の東京の方向に向け威儀を正した。近くで日本のラジオのアナウンサーが、早口ながらやわらかく力強い口調でマイクに言っていた。「松井大将は天皇へ万歳三唱をおこないます。」
松井大将は沈黙を破って言った。「大元帥陛下、万歳」。
大きな万歳の声が背後より上がった。だが――彼はそれが観閲中の日本兵のものであるとはほとんど信じられなかったが――それは酔っ払いの甲高い笑い声で終わった(115)。
さらに鋭く、「万歳」、と彼は繰り返し、多くの声がそれに続いた。
三度目の「万歳」を彼は声を震わせて言った。だが、ラジオ放送の技術者は、過負荷と音の歪みを避けるため、音量を下げねばならなかった。日本放送協会に残された録音テープによると、その言葉は従来通りのものであったが、兵隊たちの声は、ジンギスカンあるいはアッティラ〔ヨーロッパに侵入したフン族の王〕の軍団が発したかと思われるような低劣なものだった。松井は馬を大通りに進め、丹念に清掃された通りを進み、数千の兵士が歓呼する中を通って、市街の北にあるメトロポリタンホテルに着いた。
パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。
翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117)
その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」(118)
その日、松井は、死者に対する哀悼の意思をつらぬいていた。彼は紫金山の孫文の墓をおとずれ、また、城市内の南東に位置する南京空港で行われた慰霊式では、何時間も席を立たなかった(119)。そしてその席で、彼は短い漢詩――何世紀にもわたって日本の知識人によって培われてきた独自の芸術だが、日本人にも中国人にも難解なもの――をつくって、孫文にささげた(120)。
- 中山門下
低首策馬
兩軍交戰事堪悲
心傷慾碎難回首〔訳注〕
-
- 〔英原文よりの直訳〕
- 紫金山の霊廟にあって
- 彼は、今は亡き友の魂と
- 共にすごせたのか、
- 忌まわしい戦場は暮色につつまれている。
-
- 中山門の下
- 戦場にあって、
- 過去の邂逅の思い出
- よみがえって我が胸を刺す。
- 私は戦馬に騎乗し、
- 頭をたれる。
-
- 〔訳注〕 訳者が別の資料に発見したもので、この漢詩の原文と思われるもの。
その慰霊式の後の部分で、松井は、「大東亜」主義と中日の兄弟関係について内容豊富な演説を行った。そして彼は、戦死した中国人兵士への式を、日本人のための式の直後に執り行うことについても言及した。しかし、朝香宮は、儀式が長時間になるので、中国人の慰霊は別の機会にすべきだと松井に言った。1948年の処刑の直前、松井が教誨僧侶に語ったところによると、それに松井は憤慨していた。「慰霊式の直後、私は将官を招集し、彼らの面前で、怒りの涙を流した。・・・朝香宮と柳川中将はともにそこにいた。・・・ 私は彼らにこう述べた。我軍の兵士の野蛮行為によって、すべてが一瞬のうちに失われた。しかも、そうした兵士たちが、その行為の後で私を嘲笑した。それを君たちはどう考える。」(121)
次の日、宿営担当の武藤は、南京郊外に部隊に適した施設をいまだみつけられないと報告した。そこで松井は、中支那方面司令官としての力を駆使して、南京の4師団のうちの3師団を、揚子江を横断、あるいは海岸線へともどす、新たな作戦命令を発した。残る師団は、中島の「黒い」第16師団であったが、それはすでに大本営によって、南京に配置されていたので、松井は手が付けられなかった。朝香宮に随行するヨーロッパで教育を受けた参謀たちは、この命令が早急に実行されると松井に確約し、松井の機嫌にはそれがよいと考えた。
翌、日曜日の朝、松井が南京全体を視察したいと求めた時、そうした参謀たちは、松井を清涼山の展望台につれていった。そこで松井は彼らに「ひとつひとつをようく見てみろ」と言い、自分は双眼鏡を通し、市の破壊された地区を丹念に調べて彼は語った。「もし、蒋(介石)将軍がもう数年辛抱し、敵意を表さないでいたならば、日本は、両国間の問題を武力で解決しようとする不利を理解していただろう」(122)。展望台から戻る途中、松井は突然に、南京の中国難民たちと話しをしたいと求めた。しばらくして、そうした一群の人々が松井を囲み、松井は彼らに問いかけ、心配せず、安心するようにと言葉をかけた。
その日の午後、松井は南京郊外の朝香宮の本部(123)へと移動し、そうし破壊者を残したまま、次の日、上海へと戻った(124)。
繰り返される残虐行為
松井がその征服された首都に感傷的訪問をしている間、残虐行為は沈静化していた。彼が訪れなかった街の西半分でも、その間、わずか数十人が処刑され、数十人の女性が強姦されたのみであった。しかし、彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。安全地区委員会は、その日の深夜までに、その日曜が「今までで最悪」とみなさざるを得なかった。というのは、これまでではじめて、自分たちの身の危険を感じたからであった。彼らは引き続いて、身を挺して中国女性の身体を兵士から守っても危害は受けないでいたが、自分の妻を守ろうと必死な夫たちが、即座に殺されてしまわないよう、かれらを見守る必要が生じていた。自分の部下たちを叱責した松井は、外国勢力を敵にまわすことと世界に恥をさらすことの危険についても執拗に説いていた。だがそうした恥をさらした者たちは、自分たちの何をも恐れぬ気分を誇示したくもなっていた。彼らは、パナイ号を沈めた橋本大佐を英雄化し、欧米が介入してくることに、あえて乗り出そうともしていた。その日は、一人の米国人が撃たれ、他の何人かは暴力をふるわれていた。中立の資産として封印されていた欧米人の家も、押し入れら略奪にあっていた。退去した欧米の大使館をあずかる中国人たちが殺された。星条旗やユニオンジャックが引き裂かれ、足踏みにされた。日本の軍服姿のならず者が白人の見る前で、自分たちのやりたいように殺人におよんでいた。二人ずつのアメリカ人とロシア人が見下ろすバルコニーの下で、長いガウンを着たひとりのの長老が二名の日本兵によって襲われていた。また、あるアメリカ人は、後に、こう証言している。「彼は立ち去ろうとし、足を速めていたが、竹塀の角に追い詰められ行き場を失っていた。兵士たちは彼の前に立ちふさがり、彼の顔面を撃った。・・・彼らはそれを笑いながら行っており、あたかも何事も起こらなかったかのように話すらしていた。タバコをふかし、会話を続けつつ、まるで野鴨を撃つかのように、何の抵抗もなく人を殺していた。」(125)
その夜、乱れきった悪魔のような兵士たちは、あたかも戦闘計画があるかのように組織的に、新たな破壊的任務を隊をなして展開した。その目的は、南京の店という店、事業所という事業所を襲い略奪し尽し、そして、通りごと、区画ごとに、くまなく焼き払うことであった。その放火部隊にはトラックが与えられており、そうした建物に火が付けられる前に、価値ある品々のすべてがそれに積み込まれた。またその点火用に、彼らにはテルミット〔高温を発する粉末アルミと酸化鉄の混合物〕の黒い棒と、焼夷性化合物をしみ込ませた紙片が支給されていた(126)。その時期の南京は寒く、そうした部隊は本気になってその仕事を行っていた。その最初の火災は、松井が南京を去ってほんの数時間後に発生した。翌日の夜までに、YMCAのフィッチは、彼の寝室の窓から、同時に14地区から火の手が上がるのを数えることができた(127)。
もし、強姦がまだ続いているのかどうかと疑っている人がいたとしても、12月24日、金曜日の朝、中島が安全地帯委員会に、先に六千人と見込まれた軍服を捨てて隠れた中国兵の数が二万名であったと通知した時(128)、それが誤りであったことに気付かされることとなった。さらに悪いことに、女性に対する危害が極端な段階にまで達しようとしており、70歳を越える老婆や、12歳以下の少女、そして、臨月に近い妊娠婦人にまで、その被害が広がっていた。
松井が南京を去った後、宿営担当の武藤大佐は、「松井の命令の実行を監視する」ため、市内に残った(129)。また、余剰な師団の撤退には、「いくらかの遅れ」が生じていた。12月23日、木曜までに、不忠な柳川の第114師団、野蛮な第6師団、そして松井の第9師団は市から撤退した(130)。その後、中島の第16師団のみが残り、南京強奪の最も長く、しかも最も統制のとれた時期を管轄した。すでに南京は残骸同様と化しており、鋭い刃物のみが、それ以上の肉をほじることができた。
朝香の最後の獲物
天皇裕仁のおじ朝香宮は、クリスマスの日、自分の本部を南京市内へと移した(131)。彼が城内に留まった一月中、強姦と殺人は止まず、流れる血が市内をおおう状態が続いた。この間は、恐れの中に最後の希望を発見するまでの時期でも、中国人の黙従が終わる時期でもなく、2月10日、朝香宮が東京へと遂に戻ってゆくまで、最後の幼い少女にまで暴力がおよぶ時期であった。
上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝香宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。
「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133)
新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。(135)
松井の努力にもかかわらず、悪臭ただよう通りで新たな死体に出くわすことや、中国人女性が捕らえられている家の戸口で、自分の番を待って列をなす兵を見ることが、相変わらずの光景となっていた。市内に残留する兵士はみな、中島の憲兵隊のもとに登録され、毎日の午後、そのうちから数十人が、その夜の首切りの宴のために選抜されていた。市街は、電気も、水道も、ゴミ回収も、いわんや警察も消防もない状態が続いていた。安全地区委員会は、朝香宮の本部に、疫病発生の危険を警告していた。それに対する朝香の参謀の返答は、同地区に生活する十万人の中国人に供給されている米の配給を、日本側が引き継ぐことであった。それは当然、日本軍が同地区の米倉庫と国際救済基金の支配を始める意図をもっており、同地区委員会はこの返答を拒否した。欧米の新聞は、南京で何が起こっているか、目撃談をようやく報道し始めていた。
1月7日、朝香宮の技術部隊が、ようやくに市の電気、水道の供給を復活させた。その三日後、皇后のいとこである賀陽〔かや〕宮――それ以前の数年間、アドルフ・ヒットラーへの敬服特使を果たしていた――は、南京を儀礼訪問し、「将官たちと打ち解けて対話」(136)した。1月16日、賀陽宮の報が本国の宮中に届いた後、痩身で冷淡な近衛宮は、日本国民は蒋介石をもはや中国国民の代表としては認めず、蒋政権とはあくまでも戦争をもってのぞみ、日本が後押しする政府が、平和と大アジア主義に忠誠を表すすべての中国人のために、まもなく準備されるであろう、との声明を発し、最終的な手に打って出た。
戦争を永遠化するとの近衛の脅しは、中国を滅ぼすとの脅迫で、南京の強奪は、その脅しが中国人を恐れ盲従させるはずの、その前段の責め苦であった。しかし、通常なら、個々の中国人に通用するそうした治安手段も、中国の国全体には通用しなかった。近衛の宣言は、何の効用も引き出さなかった。それどころか、蒋介石政府は、漢口にある亡命政府であるどころか、かってない国民的支持を得ていた。そのため、その見込み違いの日本の政策はしだいに放棄されることとなった。通りや池を埋めていた死体は取り除かれ、街の組織的な焼き払いも止められた。12歳の少女の強姦といった、安全地区委員会によって告発されてきた最終的な虐待も、日本軍が同市を占領して抵抗を制圧して以来57日後の、2月7日を最後とした。ただ、ドイツ人のフォン・ファルケンハウゼン大将は、3月19日に、米国の教会施設でひとりの日本兵により、少女が強姦されたと記録し、その仔細な関心をもう少し先にまで継続していた。
最終的犠牲
1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。南京の商人と、市外の農民の経済は根こそぎにされた。1938年3月に社会学者スマイスと彼のもとの大学生によって実施された調査によると、人口の2パーセントのサンプルで、農民は278日分の労働に相当する、市街住民は681日分労働に相当する金品を失っていた(138)。こうした人々は、その最も良い時期でさえ最低水準の生活であったため、新たな生活を始める手段は持ちえていなかった。再び種をまこうにも、種穀物はほどんどなく、店の商品をえる資金もなかった。数千人の希望を喪失した女性や子供たちは、国際救済基金による毎日の米の配給に頼る以外に何のつてもなかった。雇用を生み、経済の見せ掛けにでも着手し始めるため、中国の他の地域より南京へと資金が流れてくるには、未だ一年を要した。
- (###) 多くの日本人は、国際法廷が認めた数字は、一部、中国人の主張によるため、誇張されているとの見解を維持している。著者は、原本の数字を調べ、かつ、中国の統計数字を取り除いたのち、十万人の捕虜と五万人の民間人が南京から60キロ以内で処刑され、少なくとも、五千人の女性が、そのうちの多くは多数により、あるいはそれを幾度にもわたり、強姦されたのは間違いないと見る。
利益と損失
南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした(139)。1939年2月、陸軍省はそうした、「うわさをかきたて」、「人々の軍への信頼を傷付ける」ような、「適切でない話」を禁ずる命令を発した(140)。今日においても、南京は「十年の恥」とか「最大の不面目」と、退役軍人たちによって繰り返し言及されている(141)。根拠に乏しい空論は別として、南京で行われた行為にかかわったいかなる日本人にとって、南京を語ることは、いまでも不可能となっている。
1945年の敗戦後、日本政府のスポークスマンは、南京での失策の責任をとり、一人の陸軍将官が、軍法会議にはかられ死刑となった、と戦犯法廷で述べている。しかし、その将官の名前や階級は明らかにしなかった。政府スポークスマンは、「中国婦人のスリッパを盗んだ」罪で、一人の下士官が投獄された、とも語った。また、強姦の犯人は「厳しく懲戒」されているとも語った。(142)
1937年の南京における日本人の行動について、そうしたあいまいな事後説明は、その真実を語っていない。それよりいっそう確かな事実はこういうことだ。南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。
松井は退役して熱海に慰霊の神社をたて、朝香宮はゴルフにいそしんだ。柳川大将は、もはや嫌われることなく、天皇より占領中国の経済運営を任され、その後、入閣して、なんと司法大臣をつとめた。彼は、1944年、スマトラで植民地総督にあった際、病死した。宿営担当の武藤は順調に出世して中将となり、1939年に陸軍省軍務局長、1942年に近衛第二師団長に就いた後、1944年から45年の間、山下のもとで、フィリピン方面の参謀長を務めた。(146)
京都にあって、問題の第16師団の頭脳作業にあたった、例の少将、鈴木貞一は、常に、裕仁の私的特命大使および陸軍内の問題処理係りとしての役を維持し、驚くべき多能性を発揮して、難しい地位を次々とこなした。加虐性を特徴とした中島は、南京強奪に最も汚れた役を務めた後、1939年に退役を許され、南京より持ち帰った戦利品のもとで、安楽な人生を送った。
裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。もし、朝香宮が家族の名を汚したとの感覚を裕仁が抱いていたとしても、裕仁にその様子はない。裕仁は、朝香宮と引き続いてゴルフをして毎週のニュース映画に登場し、私的面会を許し、他人ご法度の御家族会議に彼と同席した。もし、朝香宮が南京において、軍の部下によってだまされ、あるいは、食い物にされていたとの感覚を裕仁が持っていたとしても、それも裕仁にその気配はない。
そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。
そうではありながら、南京においては、中支那方面司令官としての松井の地位が朝香宮の皇室の権威によって凌駕されたとの、松井あるいはその弁護士による主張もない。それに代わって、法律学会の年報にある、最もつかみ所のない弁護意見のひとつとして、松井の弁護士は、日中友好関係についていかにも空論的に述べることを松井に許し、これが判事に偽善的としか受け取れない印象を与えることとなった。松井自身は、仏教への信心と神秘主義の教義のなかに自分自身をひたり込ませて、もって廻った決まり文句に没入していた。判事たちは、南京の残忍性をうったえる目撃証言に印象付けられていた。しかもそうした判事たちは、絞首刑に値するという中支那の全面的指揮にあったという事実に対し、申し開くべき弁明はない、との松井自身の発言を聞いた。十年にわたる内省の後、朝香宮や天皇をもっと導くべきであったと感じ、皇位を守り、今や自分が死んでゆくということが、彼にとっての宗教的責務であった。
「私は、このように終焉をむかえることを幸せに思う」、「事態がそうと判った限り、私はいつでも死んでもかわまぬ」と松井は語った(147)。
日本で、回顧録、命令集、日記がかえりみられるようになって以来、裁判には松井の話を追認する雰囲気があった。さらに、裁判の実施それ自体、真実の追究として、如何なる質問も受け付け、この件に関心をもつあらゆる欧米の歴史家による質問も受け付けられた。南京の直接の指揮にあたり、強奪のほとんどの時期にそこに居た朝香宮が、被告人としてではなくとも、目撃者としても審問されなかったことは、信じがたい事実であった。朝香宮の指令上の地位を知り、長々とさして重要ではない話を聞いてきた判事たちは、南京強奪についての松井の見解にも耳を傾けることを避けようとはしなかった。だが、彼らは、原爆が投下され、日本が降伏した直後に日本に出来上がった政治的方程式によって、その実行が妨げられることとなった(####)。
- (####) この点は、第3章でその詳細がとりあげられる。
歴史とは、単に、起こりそして記録されたものではなく、作られそして後の出来事や視点によって作り直されたものである。南京の後、日本は南中国、そしてロシア領モンゴルへと侵略を続けた。その翌年の1940年には、日本は、自身を一党独裁警察国家へと変身させ、近代戦への総動員体制を作り上げた。1941年初め、仏領インドシナを衛生国化し、英国領マラヤ、オランダ領東インド、そして付随的ながらフィリピンの征服のため、軍を真剣に訓練し始めた。その年の夏、ルーズベルト大統領は、日本への戦略物資、ことに石油の供給を遮断した。それに続いた交渉の中で、日本は、他のすべての同大統領の示す条件を受け入れる意思があると表明したが、最重要な、中国からの撤退と、フィリピンと他の南部の諸点に対して用いることのできる、そこにある基地からの撤退は拒否した。天皇裕仁は、真珠湾攻撃の準備を発令し、そして、ルーズベルトが日本との関係維持を求めた時、裕仁は、慎重さと延期を求める声を無視し、その攻撃の開始を命令した。
それに続く6ヶ月間、シンガポール、フィリピン、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、そして、膨大な自然資源を持つ多くの島々が、驚くべき才気と獰猛さを発揮した陸海軍の作戦によって、日本の手に落ちた。南京で見せた残虐行為は、バタンでの死の行進、ビルマ・タイ鉄道建設、1945年のマニラでの最後の強奪と、繰り返し行われた。そして、今度は残虐行為の逆襲が始まり、木と紙製の非軍事都市へのすさまじい焼夷弾空襲と、広島・長崎への原子爆弾投下が行われた。
日本が事実上敗戦した時、アジア大帝国の日本の夢は四百万人の遺体(148)と共に葬り去られた。もし天皇がそれを命じていたら、日本人は、敗戦を認める以前に、自らの七千万の命を修羅場にさらす覚悟をしただろう。しかし、アメリカの戦争は、ファシズムに対するもので、日本国民に対するものではなかった。いかなる犠牲を払っても、殺害を止め、平和を作らねばならなかった。それが、どのようになされたかは、次の二つの章によって述べられる。だが、支払われた犠牲というのは、体のよい国際的嘘、あるいは、歴史的歪曲であった。それは高い犠牲ではなかったが、歴史的嘘は、もし、およそ世にある生命の教訓として学ぶべきものがあったとするなら、正されなければならない。第四章以降、本書は、かつて述べられなかった物語をについて述べる。それは、世界を征服しようとした試みの中で、日本政府の内部で行われたことである。
もし、1948年の松井大将の処刑において、米国と連合軍による重大な過誤が成されたとするならば、それが、少なくとも今日の大半の日本人が考える道ではなかったというものであろう。むしろ、今日の日本人は、松井の死を、平和の観点における尊い自己犠牲であり、日本人とアメリカ人の面目を共に維持するためのものであったと見ている。熱海の神社で、涙を流す神主がかなでる毎日の拍子木の哀歌は、単に、身内の大将のためにでも、他の戦争犯罪人のためにでも、まして日本だけのためにでもない。むしろ、あらゆる場所の、あらゆる人びとのためにと、その音は彼女の耳に響いている。
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