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第三章
  
敗戦

(その1)




受諾内閣


 日本人は、有史以前からその同じ国土に住み続け、外敵によって一度も征服されたことのない、この地球上で唯一の人々である。しかも、日本人は、降服のすり抜け方を最も強大な支配者、中国人から学んでいた。そして、1945年の降服の際には、日本には、米軍が日本国土に上陸するまで、二週間の時間的余裕があった。落胆と茫然自失にありながら、人々は驚くべき紀律正しさを発揮し、それをある新聞は「天皇のご意思に完璧に従い」と報じていた。宮中から交番まで、和平派による考えつくされた計画を実施するため、身を献じた行動がとられていた。大金持ちは「国を救うため」にと巨費を投げ打ち、高貴な婦人たちは、必要とあれば、その善行を捧げるつもりであった。
 絶望と無気力の気運を払拭するため、裕仁は、国民に手本を示そうと日夜働き詰めであった。彼は自ら和平準備工作を見直し、アメリカ人の扱い方に長けた「専門家」の確かな傾向に気付いた。征服者にとるべき態度というものがあらかじめ厳密に規定されていたわけではなかったが、ともあれ、慎重な丁寧さと服従を表すことがもっとも望ましいことと合意されていた。この方針は、戦時中に完成していた口伝え方式で極めてすばやく人々に伝達されていた。この方式は、受け取った伝言を、一人が十人に伝える責任を負うものであった。このビラミッド型のシステムこそ、1930年代、ドイツやソ連のナチや共産党にみならって近衛公によって設立された当時唯一の政治団体、大政翼賛会であった。このピラミッド組織の底辺には「隣組」があり、その長は、警察への情報提供と空襲避難の両方の責任を負っていた。
 そのような状況にある誰でもがそうである以上に、日本人はどのように振舞うかを教えらなければならなかった。その緻密につくり上げられた社会の内部で、あらゆる状況におけるいかなる支配者、被支配者を扱うにあたっても、その入念な作法は出来あがっていた。しかし、社会の外側からやってきた人間に適用される振舞いの一般基準はもっていなかった。むろん敗戦は考慮外のことで、外国人は、その国家がまるごと一家族である中で、収まるべき場所も地位も与えられていなかった。日本人は、アメリカ人にへつらうべきか、それとも、武器でもって彼らに攻撃をくわえるべきか当惑していた。戦場で意識を無くすまで傷つき、生きたまま敵の手に渡った日本兵は、その捕虜としての従順さにおいて、連合軍の尋問者を常に驚かせた。ある時はアメリカ人の心臓をえぐり出し、それを食べることをすら拒まなかった兵士が、次の時には、表向きはあの世の者となっていなければならないはずながら、すすんで生きのびようとしていた。だがいまや、日本全体が同じように行動するおそれがあり、飢えと惨めさと、敗北による安堵の中で、人々は日本人としての遺産を、一夜にして忘却してしまうかも知れなかった。
 裕仁は、国民大衆に征服者に対処する最も明瞭なリーダーシップを示すため、日本史上始めて、天皇自身が率いる内閣を組閣するよう命じた。降服放送の三時間後、鈴木首相――葉巻好きの老いた道教哲学者――は、自らの内閣を解散した。裕仁は直ちに輔弼の木戸内大臣を皇居図書館に呼び、後継首相の指名について、案を作成するよう命じた。
 木戸は、指名するに先立って、前例を破り、老練政治家の一人であり老獪な法律家、平沼卿をたよって相談を求めた(1) 。それは、貴族と平民という日本の二大政治階級が国家的危機に際して手を結ぶという、象徴的動きを意味していた。平沼は、村民を代表する村長をも、都市貧民を牛耳るやくざの親分をも、あるいは米国よりロシアと戦うことを望んだ陸軍の多数勢力をも、いずれをも代弁することが出来る人物だった。
 木戸の召喚に応じ、平沼は直ちに、彼が勤務する枢密院事務所より宮内省舎へ徒歩でやってきた。平沼は、木戸の事務所に入ると、「今朝、入れ歯が家とともに焼けてしまってね。これでは、家とともに、入れ歯も新調せねばなるまい」と、口をもぐつかせて言った。
 一時間もしないうちに、平沼と木戸は、天皇の叔父である東久邇宮を首班とする推薦閣僚名簿を作成した。東久邇というのは、皇居外の橋の上に立ち、「来たいなら来てみろ」と、アメリカ人に向って大声で叫んだとされる、その人物であった。人々は、皇室が敗戦責任をいさぎよく引き受けつつあると理解しようとしていた。そしてアメリカ人は、日本が皇子たちを平和を望む人たちと考えようとしていることを知ろうとしていた。
 裕仁は、東久邇宮の指名が問題なく通されるものと受け取っていたが、東久邇自身が、土壇場になってその受諾を断った。1860年代、アメリカが日本を腕ずくで開国させた際、東久邇の父親が裕仁の曽祖父により、同じような平和造成の役を負わされたと、東久邇は苦言を呈した。その後、東久邇の父親は、そうした役回りがゆえに汚名を着せられ、宮中から追放されていた。東久邇宮は、そうした事態にならぬことを保障するよう求めていた。翌16日の朝、皇居図書館において、裕仁は東久邇と20分間、私的に話をし、皇室の加護を一生涯受けられるとの約束を与えた。後に東久邇は、天皇のやつれた姿に大きく心を動かされたと語っている。木戸内大臣はその交渉の立会人として呼ばれ、かくして東久邇は、その組閣を求める皇室命令を公に受け入れることとなった。(2)
 東久邇は、国民には謝罪と、連合軍ことに中国人には秘められた反発と映るかのような内閣を組織した。彼は1930年代に追放された征露あるいは北進派の幾人かを大臣に含めることにより、南洋における悲劇的な冒険への天皇の懺悔を表した。それと同時に、国を中国との戦争に導いた近衛公を首席国務大臣に、また、1937年に参謀幕僚として南京強奪の計画を推し進めた下村定大将を陸軍大臣にした。東久邇はまた、内閣の特別顧問に、1929年から1931年の間に満州征服の戦略計画を指揮した退役元中将、石原莞爾を選んだ。
 日本の支配者階級の内部取巻きにとって、東久邇の平和内閣のもっとも皮肉な特徴は、東久邇それ自身であった。裕仁の直系皇族には、平和に真剣にのぞんできていた九つの宮家があった。だが、図太く八方美人な東久邇は、過去25年間、事の背後で黒幕の役を果たしてきていた。そして、もし、連合軍がそれを知りえていたなら、彼はどのA級戦犯より、戦犯にふさわしい人物であった。1921年のパリでは、陸軍諜報将校として、裕仁に仕える私的秘密陸軍将校団を組織することを支援していた。1927年には、満州征服の準備を行うよう裕仁を説得することにかかわった。1930年から1936年の間には、日本の穏健派を黙らせるテロ事件に関与し、少なくとも、八回のやらせのクーデタ、四件の暗殺、二件の宗教的だまかし、そして数え切れない死の強迫や恐喝にかかわってきていた。彼自身、皇室諸子息の中でただ一人、1936年の征露あるいは北進派の叛乱〔2.26事件〕を鎮圧するため、甥の裕仁を助けて主要な働きをした。その一年後には、東久邇は、中国の民間人への爆撃命令を主張し、1941年、真珠湾攻撃を裕仁が承認した後には、彼は首相となって日本を戦争へと導びこうとしたが、敗戦の恐れと皇室の将来を懸念する木戸内大臣のような慎重な人々は、彼に代わって東条大将を首相に指名することを裕仁にすすめた。
 他の皇室子息の誰よりも、東久邇は裕仁とは意気投合して仕事をした。二人――裕仁は叔父より13歳若いだけだった――を引き付けたものは、互いに性格的に反対で、方やしたたかで節操がなく世俗的であるのに対し、他方は、宮廷内の選りすぐりの教育を受けた温室育ちであった。甥裕仁は知性的で、いつも知識を磨き、だれよりも理性的であろうと励んだが、叔父東久邇は、単純で勇ましく、信心深いことを自称していた。裕仁は、一般的原則に基づいて問題に取り組むことを好んだが、東久邇は、性格とそれをどう活用するかという観点のみを考えてことにのぞんだ。裕仁は統計に価値を置いたが、東久邇は細かいことは部下に任せることを最善とした。裕仁は作法と几帳面さで自らを律していたが、東久邇は、高性能な車や最新の飛行機、フランス女にうつつをぬかす、のんきな浪費家として自らの評判を下げていた。裕仁は、率直公明で、要点を得たやりとりで知られていたが、東久邇は、誇張したり、もって回った表現でもって、特定な問題に何ら言質も持たせることなく長々としゃべった。裕仁は、文化や教養によって人を魅させる術を知っていたが、東久邇は、裕仁が接したことのないような、暴力的で迷信的な人々をどうあやつるかにたけていた。
 南京攻略の指揮をとった兄の朝香宮のように、東久邇は、欧州における7年間の陸軍諜報任務を含む31年間にわたる経験をもつ、完璧に職業的軍人であった。首は太く、広い額と力ない歪んだ口を持ったのっべらとした顔の彼は、恥を知らない雰囲気――まったく陽気で人当たりがよく――を漂わせ、それが部下の将兵には恐れでも魅力でもあった。彼をよく知る友人の一人は、彼がある時、人を「人間としてではなく、臭いとして」見る、と言ったという。つまり、人のもつ弱点がかもす臭いは、彼の策謀というシチューの味付けに使える、と言うのである。ことに彼が上手なのは、宗教的ほら吹きで、日本の最も巧みな取り込み詐欺師や偽医者を知り、かつ、かくまっていた。彼らはその見返りに、その入念な悪巧みに組するエセ神秘家をかき集めたり、政治的恐喝の目的で使うことのできる交霊術の知識を提供していた。

 



婦女と狼人間


 アメリカからの侵入者を受け入れるにあたり、東久邇宮と首席国務大臣の近衛公にとって、国民の忠誠心を維持することは、目下の最重要な国内問題であった。降服のその日、内閣は「政府貯蔵物資の放出」(3)を命じた。武器自体は連合軍に引渡されなければならなかったが、その他の「決戦」のための備蓄品は放棄されようとしていた。およそ100億ドル相当の乗用車、トラック、ガソリン、ゴム、スズ、屑鉄、銀線、銅、靴、毛布、制服、紙幣、火薬は、陸軍の倉庫から民衆に配給された。数年後、国会がこうした配給の横領を調査したところ、わずか2百万ドル分が正規に配給されていただけであった。残りの99億9800万ドルは、旧陸軍々人の過去あるいは予定されていた役務への報酬として、ことごとく消え去っていた(4)
 内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。彼は人望あつい英雄で、農村部の熱狂的仏教信者を従えるカリスマ性をそなえていた。彼が講演する地方都市へは、参加する地元農民たちを運ぶため、政府の用意する特別列車がしたてられた。彼が一万人以下の聴衆に演説することはめったになかった。彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。(5)出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。(6)
 民衆にすりより、戦争責任についての公式見解によって彼らを方向付けながら、東久邇首相や閣僚たちは、こんどは外からの脅威に備えた。連合軍の復讐に対しては、その復讐が高い犠牲を伴うものと思わせるよう、地下の抵抗組織が必要であった(7)。日本軍将校たちは、抵抗運動戦線を支える、文化団体、研究機関、体育運動場の網を組織した。農業省の黙認をとりつけ、退役軍人による農業共同体が設立され、そこでは、武装を外した戦車をトラクターにし、即座に高い紀律をもった役務を果たした。ピストルや手榴弾は山の洞窟に蓄えられていた。お寺は航空機エンジンの貯蔵所となり、沖合いの無人島はカモフラージュされた武器が山をなしていた。20億ドル相当の金とプラチナが韓国から持ち帰られ、鉛の箱に入れられ東京港に沈められ、1946年4月、マッカーサーの賛成をえて、引き上げられて経済目的に使用された(8)
 中等教育の物理教員には、日本の既存の工場がすべて破壊された場合にそなえ、武器製造技術の復活のための青写真が任されていた。日本海軍兵学校のわずか沖合いの金輪島には、20世紀の日本文明のタイムカプセルであるかの如く、幾百もの地下トンネルの棚にさまざまな物品が貯蔵されていた(9)。その貯蔵物の中には、たとえば、数反の布、シベリア産毛皮、中国製陶器、モンゴル産皮革、あらゆる種類の計器やモーター類、カメラやレンズ、ラジオや録音機、化学試薬、くわ、るつぼ、溶接棒、金属プレス機など、人類に知られるべきほとんどすべての有用物が丁寧にラベルを付されて貯蔵されていた。
 こうした狼人間への抵抗のための空想的な諸措置は、後のマッカーサー将軍との交渉において、潜在的な脅威として有用であるかのごとく期待されていた。さらに、もっと素朴な諸方法が、アメリカ占領軍の即座の略奪を最小限にとどめるため、必要とされていた。もっとも教養のある日本人でさえ、ポツダム宣言にうたわれた「容赦なき裁き」が、アメリカ兵の一部の仕返し的な人種差別行動として実行されるかもしれないと恐れた。ルーズベルト大統領が、日本兵の骨でできたペーパーナイフで手紙を開封しているとの噂が流されていた。また、日本の「すべての男を去勢し、女を強姦する」との米国の秘密計画があるという、戦時中の宣伝が思い出されもした。だがいまや、ジャーナリストたちは自身の態度を変え、アメリカ文明について再認識する記事を書き始めていたが、その一方、アメリカ兵の扱い方について、とても再認識とは言えないような、次のような書き方も見られた。
 「親切心はかえって誤解されるので、古びた服を着て、笑いかけないように気をつけること。」
 「公衆の面前では乳を見せないよう注意すること。アメリカ人は女の裸を見ることに慣れていない。アメリカには銭湯がなく、また、赤ん坊に母乳を与えない。」
 「強姦されそうになったら、毅然とした態度を示すこと。屈せずに、助けを呼ぶこと。」(10)
 自分たちの兵士が行った蛮行を思い出し、町の年配者たちは集まりで、貞操な妻や娘を田舎に避難させるようにと助言した。多くの自治体は職員に、避難に用立てるようにと、退職手当を支給した。何万人もの女たちがそれに応じ、人里はなれた山間の村に疎開した。しかし、それを何千人も上回る人々が避難を拒否し、政府の努力を笑いものにした。15年間にわたった宣伝も、もう効き目をなくしていた。人々は、こうした避難計画を「敗戦の面子維持の一時しのぎ」と呼び、自治体の職員はもう頭の古いおえら方をお払い箱にしたがっている、とささやいていた。また、多くの町での会合では、アメリカ軍が到着したばかりの街のほうが、半復員した兵士がごったがえす今の街より安全に感じたと、ある国際主義の学校教師による勇気ある発言すらも出されていた。
 女たちが山間に避難するか、自宅で毅然と待機している間、男たちは徹底した記録の改ざんや捏造を行い、アメリカによる「容赦なき裁き」から逃れようと必死であった。日本語は、たとえ一語なりとも、秘密の記号であるかに扱われた。漢字で書かれた名前は、いくつか違った読み方ができた。ある名前は、読み方を変えることなく、漢字を変えることができたため、「私はそのサトウヒロシではありません」と言うことができた。また逆に、名前の読み方を変えることで、「これは私の名前と同じ字ですが、私の名は、サトウマコトと読みます」と言い逃れることができた。尋問された他の日本人も、真実を述べていると口裏を合わせた。そうした技巧がうまく働いていたことは、終戦後2年経って、東京裁判のA級戦犯法廷で証言した百人以上の日本人目撃者が、記録上は違った名前で記されていたことでもわかる。
 戦闘部隊のすべての名前と数が、降服までの数週間のうちに改ざんされていた。降伏までに、多くの将校があらたな部隊へと転属されていたが、その部下は新任の彼らの前歴は知らなかった。裕仁の放送の四日後の8月19日に天皇に助言され、六日後にはその完了が報告された一連の動きの中では、憲兵およびそうと思わしき兵隊が警察官や交通警察官に改任されていた(11)。捕虜収容所の衛兵に就いていたものは、その名前を変えることを許され、あたかも軍歴が何もなかったかのように、民間人となって姿をくらました。ミスターブラウンとあだ名され大森収容所の捕虜たちから恐れられてていた冷血漢は、戦後の連合軍の調査によってもその足跡はつかめなかった。彼は、徳川よしとも、というその名においても、裕仁の義弟との旧知の間柄であり、日本赤十字の「オブザーバー」として捕虜収容所に勤務していた身分からしても、衆知の人物であったにもかかわらずである。連合軍の戦争犯罪人摘発を逃れたある悪名高き憲兵少佐は、今日では、京都の主要商店街の自分の老舗陶器店で、ほとんどアメリカ人旅行者を専門とする商売を行っている(12)
 「敵の占領に備え、敗北した国の書類を焼く炎は悲しみにあふれていた」と、ある愛国者は回想する。彼は、自決した神風攻撃隊長の妻にそれを告げた後、上京し、8月16日の朝、燃え上がる幾つもの大きな炎を見たという。その夜は、日本のどの町も、書類を焼く炎で赤々と照らし出されていた。大本営による、破壊せよとの命令書自体にも、「破壊せよ」と印され、後に、町のごみ捨て場にそのほんの破片が発見された。各都市の図書館でも、『Who's Who's』とか、『大人名辞典』といった、戦争犯罪人容疑者の人物情報を提供しそうな書物はすべて撤去された。ある図書館ではそうした本を焼却し、ある図書館では、そうした本の蔵書カードのみが破棄され、その本自体は図書館員の自宅に持ち去られ、隠された。何らかの重要な書類については、完全に行方不明にされた。それらは、今日、元の大将や政治家が所有する、黄ばんだ文書の山の中から発見されるかもしれない。それらは今でも秘密とされ、外国人の目に触れることを拒んでいる。しかし、そうした文書を保管する老いた紳士たちは、それらに言及したり、それらについての質問に答えたりすることを、そうすることで特定事項への権威付けをするため、望んですらもしている。一昔前、連合軍の文書係員がそうした書類をみつけようと探った際、ほとんど何も発見できなかった。彼らは、歴史の事実に黒白をつけることができると期待されていたのだが、偽りや半信半疑な記録に悩まされた。(13)
 もし、占領軍が、復讐心ではなく、健全な意図をもってやってきていたとしても、日本にとってはそれもまた、用心すべき不確実性のひとつであった。いずれにせよ、可能な限り彼らを迎える用意は万端でなければならず、敵がい心は除かれなければならなかった。裕仁の61歳の毅然たる母親、節子皇太后は、血縁の近衛公よりそうした歓待問題について、何ヶ月にもわたって相談をうけていた。皇太后は戦争への厳しい批判者であり、真珠湾以来、裕仁とは緊張した関係にあったが、彼女は、愛国的努力を傾けて、高貴な女性たちが和平派を助けるために、出来るだけのことをすると約束していたからだった。降伏の直前や直後の日々にあっては、近衛公や警察は、宮中の女性たちの助言を実行に移していた。(14) 一方、三年間にわたって閉鎖されていた外国大使館は検査され、可能なところでは、かつての職員や使用人が再招集され、かつて賑やかだった日々の面影が再現された
(15) 横浜近くにある、1853年に大砲を突き付けて日本を開国させたペリー提督の記念碑は、戦争中に過激な愛国者によって破壊されていた。それが今や、闇夜に隠れて、横浜の地方警察によって立て直されていた(16)
 8月15日の降伏の日、近衛公は警視庁長官、伴信也を呼んで言った。「我々は日本の娘たちを守らなければならない。特に君にはそれを理解してもらいたい」。用意周到な中産階級の人々は、女たちを山中に隠れさせ、いざという時のために青酸カリ剤を持たせていた。貴族階級の邸宅では、女たちが夫や父親にまつわる政治的立場を理解するよう教えこまれ、望ましいことではなくとも、沈静さをもって事の重大さを少しでも減じるようにとうながされた。スラム街には、貞淑であろうとする権利も、国を思って自ら愛国者であろうと考える暇すらも与えられたことのない数千人の女たちが残されていた。今や、そうした女たちの出番であった。伴長官は、東京の主要な娯楽業界――旅館、レストラン、麻雀荘、お茶屋、バー、売春宿など――の代表を招集した。8月23日、こうしたお歴々によって、連合軍下士官のための「特殊慰安施設協会」が設立された。この団体は、勧業銀行による二百万ドル相当の株発行を資本とし、その株券は天皇の友人たちに販売された。数週間のうちに、同協会は、東京で33個所、地方で5個所、そして二つの婦人専門病院での事業を始めた。(17) また同協会の別事業として、東京下町にあった軍需品工場がホテルに改造された。刀を鍬に作り直す事業などより、はるかに儲かるビジネスだった。後にこの施設が最終的に廃止されるまでに、 「ウイロー・ラン」 と呼ばれたその工場は、250人の女たちによる生産ラインを持ち、一日に平均3,750人の兵士たちを受け入れるという生産高をあげた(18)
 特殊慰安施設協会とその付属組織は、 「一年一円」衆と称して天皇に仕える工業界人団体によって支援され成長した。この団体は、化学、海運業界の重鎮であり、過去十ヶ月、和平派に属し、木戸内大臣と幾度も会談を重ねてきた、山下太郎によって組織、統率されていた。山下とその賛同者は、二億円、およそ1,400万ドルの基金を集め、天皇に献上した。この贈呈が、その受け入れに木戸内大臣が二日を要したところからみて、何らかの見返りが要求されていたことがうかがえる(19)
 山下と 「一年一円」衆が引き受けた仕事のうち、最も難しかったものは、マッカーサー及びその側近との間の連絡業務であった。宮中のご婦人たちの助言によれば、無能な国内警察による通訳用務が放棄され、外国語に通じたそうした国際経験ある婦人たちがそれを代行するようになれば、連合軍司令部との関係ははるかに円滑になる、というものであった。そこで、パリやロンドンに暮らしたことのある皇女や侯爵夫人たちの一団は、米国での良好なコネを持つビジネスマンの一団と協力し合うことに同意した。折角の貯蓄も目減りして見る影もない戦争未亡人には、新しい着物を買うための資金も用意された。名家の別荘は、その品格と遊興施設の程度によってランク付けされた。西洋の首都で見られるようなものをまねて、会員制のクラブが作られた。裕福な才女たちのグループは名うての芸者を招き、男たちをもてなす芸に取り組んだ(20)
 平和を築こうとする神経をすり減らすような騒動は、降伏に反抗し続ける頑強な抵抗暴力によって中断された。天皇の弟である高松宮は、戦争継続を呼びかけるビラを東京中に撒こうとしている生き残り特攻隊員の一団を静めるため、横浜近くの厚木航空隊基地まで足を運ばなければならなかった。また、200名の地方守備隊は反乱をおこし、東京へと進軍を始めていた。あるいは、尊王攘夷協会の12名の極右メンバーは東京、芝公園の山頂で、手榴弾で自爆した(21)

 つづき
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