私の使命観

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その3)

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「今、君が成すことは全て、誰にも波及し、影響を与える。君の態度は、その心を輝かせるか、もしくは、不安を伝染させうる。君の呼吸は、愛を放つか、もしくは、この部屋を陰鬱に沈めうる。君の一瞥は、歓喜を呼び起こしうる。君の言葉は、自由を喚起しうる。君のどの行動も、心と知性を解き放ちうる。」

デイビッド・ダイダ(米国人著者)

 

チャールス・ディケンズは『二都物語』の冒頭にこう書いている。「それは最高の時代であり、最悪の時代であり、知性の時代であり、愚かさの時代であり、信念の新世紀であり、驚きの新時代であった」。この二重性の詩的表現を、歴史が繰り返しているのはいかにも意味深長で、それはまた、私たちの体験でもある。ここで誰にも明らかにされるべきことは、今日、私たちが、人類の歴史でもっとも過渡的時代を目撃しつつ生きていることである。しかもこの時代は、全世界的な変化が、私たちの悲惨な出来事や混迷した社会的、経済的力の有り様とコントラスト――まさしく「最高の時代」と「最悪の時代」との二重性――をなしていることである。そして、この最悪の時代――「あざむきの時代」とも表現できよう――が、いまや世界に(ことに米国に)訪れつつあることだ。

だが真相は、私たちが地球上の諸組織により、道理をもって統治されているのではなく、むしろ逆に、それらによる無思慮な抑圧が蔓延していることだ。その大規模なだましは、政府、マスメディア、企業、そして、誤った考えを飲込み聞いた話を絶対の真理として繰り返す個人によってなされているものである。かくして、人間性への甚大な欺瞞行為が働かれているのは事実であり、同時に、私たちは、あばかれた数世紀にわたる逆情報や抑圧、そして公然たる嘘を目の当りにしている。そうした現在、歴史上はじめて、私たちが、決定力ある情報を自由に閲覧共有し、かつ、私が「地球支配集団」と呼ぶ、マネーと強い権力志向の勢力の方法と手口を知ることが可能となっている。私たちはついに、インターネットを通じた丹念な調査によって、支配を頑強に固持し、虚偽の拡散を行う組織や人物を明るみに出すことができるにいたった。 こうした調査の実施者は、権力エリートに付された様々な名称――イルミナチ、秘密組織、秘密集団、地球支配集団、そしていくつかの欧米のシンクタンク名――を用いてきた。世界には権力欲旺盛な個人――経済機構の頂上に位置して巨万の富を集中――がいることを誰も否定しない。その上に彼らは、残念なことに、危険な反社会的人物であることが多く、そうした富の一部は、シンクタンクや慈善団体の名を用いて偽装隠蔽されている。

こうした組織が権力と合体し、共同して行動する時、秘密の金融エリート――通貨供給を支配し、メディアを所有して、基軸をなす操作工作を執行――を生む結果となっていることについては、確かな証拠があがっている。そうした彼らが公に行う計画は、「世界新秩序」と呼ばれ、世界政府を創設する彼らの目標とされている。表面上、それは、国連をもう一段強化するという正論に立って、健全で前向きな目標ではある。しかしながら、この世界政府は、選挙にもとづく組織ではなく、すでに前例のない力と強欲をそなえた諸組織の集合体でしかない。これはまさに、「最悪の時代」に外ならない。そして、私たちがそうした操作とだましの戦略に気付き、もはやそれに承認を与えない時、私たちはこれを転機に、私たちをおおう架空の拘束を解き放ち、ただちに、「最高の時代」に住むことができるようになる。

この深い二重性をもった極めて奇怪な時代が最高潮に達している今、私たちはかってない岐路に立っている。すなわち、私たちは、広く「現実」と見なされる執拗な病的幻想に執着するか、それとも、市民社会を落し入れている閉塞状態を克服し、未来へむけた人間性ある「黄金の時代」の達成に合流することで、自らの個人としての責任を果たすのか。この「東西融合〈涅槃〉思想」の知的伝統は、社会の主要機関がなす嘘をもはや信じないことを起点に、人間社会を捕えているそうした桎梏を克服することを教えている。世界の人々はみな、すなわち、エリート中のエリートを除くあらゆる人々は、ほとんどの宗教、時事、経済、歴史、そして古代史すら含め、そのすべてにおいて、嘘をつかれてきたと言うことができる。それらには、部族酋長に始まり、神権政体、専制政治、王の神権、そして代表共和政、さらに、民主主義、暴民政治、共産主義、ファシズム、いわんや、今日のほぼ全欧米諸国をおおう規制と負債の民主主義制度に至る、過去から現在までのあらゆる政治形態が含まれている。

社会のコンセンサスの一角を表し、空想域にすらまたがる諸現象や出来事についての調査研究では、ことに史実の見直しを通して、真実が、時には、移動する標的であるかのように出現している。その神話と現実の接触面は、事実、憶測と空想による変転するモザイク状をなし、それは、元CIA二重スパイ、ジェームス・ジェーサス・アングルトンの言葉を借りれば、私たちは、「鏡像の荒野」に入り込んでいるのである。

私たちが最初に学ぶべきことは、すべてを疑うことである。そうした批判的思考のもたらす知恵は、この「鏡像の荒野」を見通すことを可能にする。恐れを持たぬ開かれた視野がえる知恵は、その結論がいかなる恐れにさらされようと、あらゆる問題をあらゆる角度から考察することを可能とする。真の探究者は、どんな石ころもそれをひっくり返さないでは置かず、あらゆる視野からあらゆる概念をもって学ぼうとする。例えば、ギリシャ語の「apocalypse」の本来の意味が、何か隠れたものを「明らかにすること」、あるいは、「ベールを取り去ること」であることを知っている人はほとんどいない。しかし、共通して受け入れられているapocalypseの意味は、「この世の終り」である。つまり、欺瞞や歪められた解釈が横行する時代にあって、大半の人々にとって、apocalypseの実際の脈略においての意味は、意図的に隠蔽されたことの暴露となる。だが、apocalypseは、現実のおぞましい体験とは裏腹に、そもそも、物事の真の特質を明らかにすることなのである。それは、忘れ去られた自由と、かつてない明晰さを求める時代へと私たちを導く。そこで「ベールを取り去る」こととは、だましに基づく私たちの無知がもたらす悲惨さから、私たちを自由にすることなのである。知恵とは、そうした違いを認識することなのである。

もっとも崇高な知恵とは、単純なものである。愛に始まり、尊敬、忍耐、情熱、分かち合い、感謝、許し、そして寛容さへと至る。こうした働きは複雑でも、手の込んだものでもない。しかし、その一貫した実行は容易ではない。私たちがこうした原則を採用することは、自分によいことであるばかりか、誰にとってもよいことを知った時、私たちの動機は拡大する。その鍵は、毎日の実践への専念である。なぜなら、実践は体験を生み、そして高尚な考えというよりむしろ体験から、崇高な知恵へといたる真実を私たちは「知る」ようになるからである。単純で、「知っていること」の輝くような包容さ、すべてを知るという源泉、日々前向きな姿勢の維持、ためらいのない自然な笑顔を表し、「自分に与える」のではなく、「他人に与える」行動をこころがける。知恵ある人は、真の知識が、あらゆる心の開かれた探究者に無償でもたらされることを知っている。そしてそれは、私たちのDNAに書込まれている、と言う人さえいる。偉大な師は、そもそも、必要なものはすべて自らの内にある、と言う。心を開けば、誰にも等しく、真実への道も開かれる。真実とは、知恵を得ることであり、人生のあらゆる場面において、花開く愛を受入れることである。私たちの思考はひとつの電磁現象であり、ゆえに、それをたゆまずモニターし、賢明に表明しよう。

 

「エソテリック思想」の系譜

この「東西融合〈涅槃〉思想」シリーズの各書の内容がいったん受け入れられ、適用されれば、私たちは自らを、この地球に、根本的に異なった方法で住む道を見つけようになる。想像してみよう。もし私たちが反重力、空間移動、自由エネルギー、タイムトラベル、そしてエネルギー・ヒーリング、さらにいろいろな技術を獲得した時のことを。要するに、このシリーズは、平和と繁栄の真の「黄金時代」を開始するに必要なすべてを要約しているのである。それに加えて、私たちは現在、古代文明の隠された知識に分け入る深い洞察力を得ており、我々が我々と考えるのは誰かを理解し始め、我々が実際に誰かについては、両極に二分化さえしている。それどころか、私たちは、自分が何かについて、記憶喪失状態で生きているようでもある。だが、情報の水門が開放され、私たちの多くがそれを「入手」し始めて、それも今や終わりつつある。陰謀論は、長きにわたって秘密とされてきたことの発覚がもたらす不安な心理をはじめ、多くの事実に陰謀の烙印を押してきた。だが時とともに、私たちは犠牲者集団との感覚を通じた認識をもって、今やその責任を果たし、新たに発見した自らの力を感受している。

隠されてきたこととは、主流の思潮界によって避けられてきた事柄で、この「東西融合東西融合〈涅槃〉思想」シリーズにおいて、「対抗言説」と呼んでいるものである。それは、私たちに向けられてきた嘘や、恐怖を用いた操作に対抗するものである。私は、一人の「偏向なき研究者」――科学的研究に従事する人たちに与えられる名称だが、私の場合、本書や他の自書の出版に当たっては、いかなる既存調査研究組織の影響や支援受けることなく、私自身の独自性に立っている――の道筋をたどることで自らを啓発してきた。とかく私たちは、研究に際しては、その結果に経済的利害を伴う(つまり、「利害の不一致」をおこす)、外部者からの財政的支援に、不用心にも、あまりに馴染んでしまっている。そういう次第で、研究結果が、その支援組織の意向を反映したものとなるのが通例である。

「偏向なき研究者」に徹することとは、その研究に、いつ、いかなる題材を採り上げようとそれは私の自由であり、あるいは、得られたデータに食違いがある場合、いつでもその研究を打切ることがという意味である。この私の「使命観」は、私が、代筆者や提携企業(研究の“毒抜き”を求める)を持たず、真実以外に何ものも題材としない、という趣旨を宣言するためのものである。「偏向なき研究者」は、自分の内の不動の計画を除いて、他になんの計画もないがゆえに、風のように自由である。科学の歴史は、科学の分野における新たな発見の大多数が、大学や調査研究機関の援助のもとに働く職業的な科学者によるものではない、と言うことを明らかにしている。もっとも革命的な考えとは、科学の進歩の方向を変えるもので、それは主にこうした偏向のない、時に無名の研究者による拘束のない活躍からもたらされる。同様に、微妙な問題に取組む恐れに動じない著者たちは、人間社会に最大の貢献をなす可能性を持つ人たちである。ペンは剣よりも強し。ジョージ・オーウェルはこう述べている。「ジャーナリズムが出版していることは、他の媒体が出版を望まないことである。それはすべて、宣伝である。」

ところで、開かれた理論物理学は、「東西融合〈涅槃〉思想」の視点以外では問えない根本問題、ことに、その起源はもちろん、その目的といった宇宙の謎に関し、そうした他では扱いきれない事柄の幾つかについて答えている。しかし、私たちの意識の覚醒は、今日の水準の物理学にもとづく限りではごく限られてしまうのだが、個の成長や心的進化によってもたらされるものについてはそうではない。その理解の基礎となる概念は、宇宙とは一体の膨大な生命体で、統合された愛・意識とそれを支える宇宙のすべてのメカニズムの両相を包含する、というものである。この愛・意識と宇宙のすべてのメカニズムがどう描かれるかは、いわば、「神の法」が統治原則とされることに似ている。これこそが、真実を知る道が体験的であるということであり、生命を新たな形で理解することであり、永遠の倫理の知識を得ることであり、そうしてたちどころに、永遠の生命を受け入れることである。すべての個人の目的は、愛と光明に自らをささげ、それを人間関係レベルで知り、そして、永くこの地球上の常態とされてきた、暗さと怖れを消し去ることである。

アブラハム・ヒックス、セス、ブラバツキイ夫人、そして、エドガー・カイセといった著者らや、ならびに、「神の法」、仏教や古代ヒンズーヴェーダーンタといった東洋の諸哲学、そしてバシャーの著書、あるいは、現代の形而上思想体系である『A Course of Miracles』らは、個人の「東西融合〈涅槃〉思想」の開発に役立つ入手可能な文献類である。いずれも、同じことを多く取り上げて述べているが、うち何人かは、私たちが日々を送っている中で、何が現実であり、何が夢想的世界の受容が作り上げたものかの間の明瞭な区別について論じている。こうした議論の中で、本書が目的とするものは、夢から目覚め、私たちの根源とは分離不能な、スピリチュアルな存在としての真の本性に開眼することである。

今日、科学者や宇宙学者が示しうるベストなことは、私たちはおそらく、多元宇宙(multiverse)〔universeのもじり語〕、すなわち、永遠のパラレル・リアリティーに暮らしていることであり、そして、私たちが何を信じ、どう感じるかといった、基本的な揺らぎに立ち返り、さらに、現実のどの面に最終的に同調してゆくべきかを――端的には、どこに焦点を当て、それをどう感じるかを――決定することである。私たちは永遠に、無上の喜びを見つけ自身の真の本質を表すために、宇宙についてのジグザグと移り変わる時代の手掛かりに従い、どこに行き着きたいのかを求め続けゆくのか。それとも、私たちは今後起こるかもしれない潜在的な悪い事柄の上に住み続けるのか。それらはすべて、私たちの自由な意思に関わっており、何に焦点を当て、何を重視するのか、意図的な選択の問題である。手みじかに言えば、ネガティブで災いを体験した状態に住むのか、それとも、私たちの気持ちを転換させ、私たちの真の本性に焦点をあて、真の幸福と平安な心を体験するのかの分かれ目である。

 

歴史の中での「エソテリック思想」

世界の各地の荒廃した遺跡を見る時、古代文明によって、「エソテリック思想」の知識が用いられ、保存されていたかが明瞭に見出される。インドのRig Vedaや、エジプトのピラミッドの文言など、現存する最古の教えは、卓越したスピリチュアルな文面を含み、それらは、アトランティス、レムリア、前エジプト文明、オシリアン帝国などの伝説の古代文明にも見られる。それら以外の遺物は、インド、ペルシャ、東南アジア、南アメリカ、バスク地方、英国など、多くの場所に存在している。最後の氷河期ころに生じた最終の地球的変化は決定的で、世界のもっとも肥沃で広大な土地が海面下に沈んだ。古い土地が水没し、新しい土地が隆起した。神秘家、勅使、権化、預言者らは、神から使命を命じられ、新たにその奥義を伝え、幾代にもわたって世界にその役を果たした。トート、クリシュナ、老子、ブッダ、ゾロアスター、モハメッド、モーゼ、イエス、ケツァールコアートルなどスピリチュアル教祖は、試練に耐えて不滅の教義を伝えた。驚くべき関連性と類似性が、そうした偉大な教祖の訓話に見られるばかりでなく、その生涯に見せた出来事においてもそれが発見できる。しかし、社会がスピリチュアルに退廃し、宗教が強化されてくると、奥義伝道を果たした者たちは、殺されたり、その実践を禁じられたりした。そうした結果、「エソテリック思想」の知恵は埋葬されたり、他界に移されたりした。かくして、その持続的な更新が必要となっている。

 

「白い」ブラック・マジック

「東西融合〈涅槃〉思想」の研究の一定部分は、「フリーメーソン」、あるいは、ブラック・マジック、つまり、black magickと、見世物のmagicにkを付けて区別して綴られるものを扱う。こうした暗闇の神秘術は、悪魔儀式、まじない、魔術、ブードゥー、動物生贄、悪魔の呼び出し、そして他のもろもろの気味の悪い儀式を含む。ただ、私は、こうした野卑で、法外で、人類が用いる物の誤用である事項には、何らの関心も持っていない。私は、いかなる意味においても、人類や動物を傷つけ、そして地球自体を破壊するいかなる考えも、それを促進するつもりはない。しかし、もしそうした事柄を何らかの脈絡で議論する必要がある際、私はそれから尻込みするということではない。例えば、ブラック・マジックは、それが「普段のままの場で」行われる時、より効果的であるかと思う。だからこそ、恐怖の感覚を取り除くためには、魔術に頼らず、すべてを明かすことがその秘訣なのである。だが、もし私たちが高等な文明人として生き延びようとするなら、将来のユートピア時代に、むろん、暗闇の施術は無用である。その来る黄金の時代、だれもが、「自分のために働く」のではなく、「他人のために働く」ことを目指すようになる。人を支配、隷属、傷つけることは、もはやありえないことなのである。

スピリチュアル性の教育のためには、明るみと暗闇の両方を学ぶ必要があると感じる人がいるかもしれない。暗闇の研究、あるいは、それに光を当てることとは、その暗闇を変え、そして、その探究を行う人にとっての光を変えることである。充分な教育と経験がある時、私たち一人ひとりは、反射的反応や恐怖にもとづく感覚的判断によらず、知恵にもとづく行動を選べる。というのは、私たちは、支配集団がいかに世界の人々を操っているかの深さと詳細に気付くことなくして、どうして、深いレベルからの真の許しと思いやりを与えることができるだろうか。その転換が行われる重要な窓開けの時期が切迫した時、現在がそうであるように、私たちは、なしうる最高の頻度をもって行動する必要がある。私たちはみな、各々の方法により、この今からそれに備えはじめている。それは対抗行動のように見えるが、私たちは真実の愛をもって受け入れる敵にのぞみ、永続する根本的変化を最初に私たちの心に据えるがゆえに、それは共有され、そして、その共有され(誰もの気持ちが集まった)経験の中で肯定的に実現することができる。 

私は、長い期間にわたって、単にそれが作られた信念と考えるがゆえに、ブラック・マジックの分野を軽視してきた。だが私は、今日に生きる秀でたマジック実践家、ロン・ミロ・デゥケッテと会うことによって、その秘密術の二面性を知ることができた。そして私はいくつかの質問をし、疑問をぶつけ、最終的には、彼の著作の一つを出版する機会を得ることとなった。ロン・ミロ・デゥケッテは十数冊の著作をもち、そのうちの一冊、The Key to Solomon’s Key: Is This the Last Symbol of Masonry? をCCC出版〔本書の出版元〕を通じて2版にわたって出版した。黙示的意味についての私の間違った理解のように、ロンの本は、マジックの実践はすべて、人的活性化であり方向付けの問題であるということに開眼させられることとなった。私たちの誰もが、光をもたらす決定ができるように、暗闇の力を呼び起こすことを選択する自由を持っている。ロンは明白に、他者に良いことをする意図を持っており、したがって、私が彼に与えたニックネームは、「白い魔法使い」であっ 本当のマジックとは生命を神聖なものにすることだと私が言ったら、ロン・ミロ・デゥケッテはそれに同意するだろうと思う。〔それは〕純粋で単純かつ愛すべきものだ。

本当のマジック家は、自分自身のやっかいな生活を、包み込まれた何かへと変換させてゆく。それには、自分の趣味を生涯の仕事へと変化させ、至上の喜びと楽しみの人生を生きることをはじめ、暗闇をはるかに超えて希望と夢を実現させ、限りない可能性の場に花咲く創造をもたらすことである。私たちが経験できるもっとも美しいことは、神秘的である。それは、すべての科学と真の芸術の源である。

 

情報の三つのポイント

私は本書を、「通常の言説」と「対抗の言説」という対比を描くために提供している。「通常の言説」とは、私たちが、それをすべて現実として受け止めていることである。すなわちそれは、主流報道であり、政府記者会見であり、そうした諸機関の主がそうありたいと望むところへと関心を導く、ねつ造された知識構造である。これは、そうした情報が常に偽りであると言っているのではなく、それは、決定的な情報を削除したり、歪めたりしたものであるということである。

「対抗の言説」とは、私たちの受容現実の境界を広げるもので、たとえばスフィンクスとか大ピラミッドとかは永遠の命をもつといったものだ。現在の科学知識はこうした認識構造の存在を充分に認知も解釈もしていないが、何千人もの人たちはほとんど同じような個人的体験を報告している。そのため、困惑のままに放置するか、それとも、さらなる探索を実施するかの選択を残している。真実は何かとの問いは、伝えられる情報についての注意深い直観や洞察力ある見識といった、質的に多彩かつ多様で明らかに知恵に富む、より大きな構想を希求している。それはまた、いっそう厳密な文書化を求めてもいる。神秘主義的事柄の暗号を解き、それを文書化するために、私は、厳密に同一の情報に含まれた、少なくとも三つのポイントを見定める試みを行ってきた。あらゆる逆情報には何らかの真実を含むという事実に立ち、つぎには、そこに何らかの独立した有効性がないかどうかについて、厳密に吟味する。

こうした真実の探索における要注意点であり、私たちには発想することすら困難なことは、私たち大衆が信じ込むように教育された、そしていまなおそう教育されている諸事実が、単に巨大な虚偽、すなわち、」〔ナチスの〕第三帝国でなされたような「大きな嘘」であることである。それは歴史的でも極めて有効な大衆宣伝技法でもあり、中世の教会でも、またそれ以前やそれ以後のあらゆる強欲な権力によっても用いられたものである。その目的は、権力と支配の維持であり、驚くべき破壊的な没頭である。私たちは嘘をつかれ、信じる範囲外の途方もなさであり、あまりに巧妙かつ潜在意識下に働きかける情報がねつ造され、私たちに押し付けられてきた。そしてその犯行者は、私たちが長く信頼を置いてきた人物や機関であるがゆえに、それを信じることすら難しい。こうした欺瞞は、その規模においてあまりに広大かつ深く、またその巧妙さにおいて、真実とするにはあまりに信じがたいことである。しかし、不幸なことに、私たちがより綿密にかつ漏らさず調べれば調べるほど、こうした操りの基本構造の証拠があばきだされ、毎秒、毎分、毎時間、夜明けから夕暮れまでのこととして、あるいは、毎年そして何十年さらには何世紀にわたって、続いてきている。

だがしかし、問題をひるまずに見極めることに、第一に解決の方法がある。第二に、私たちは、出現してくる新たな真実の情報を、人類として築かれてきた共同の進化が与えた知恵をもって、恐れることなく見なければならない。第三に、それが私たちを、犠牲者から前向きな変化の唱導者へと前進させる。こうした三つの要点は、妄想の巨大な暗闇にともされた一点の光である。一度、人々がこの素晴らしい協業に共に参加できれば、私たちは対置の言説――私たちの進化を早め、より高い人類の暮らしへと導く――を築くことを開始することができる。  

本書の「コントロール」の部の主題のいくつかは、いかに富裕なエリートたちが人類にやさしいテクノロジーの使用を乗っ取ってきたかを検証する。電気技師のニコラ・テスラは、中央銀行の良識のなさを怯えさせてしまった。そしてその銀行家たちは、彼の計画の意味を知った。エネルギーの独立とは、大衆に対する支配のほとんど全面的な喪失を意味した。ともあれ、エネルギーは、地球上で最大の産業であり、自由エネルギーとは、この体制を完璧に破壊する恐れがあった。中央銀行の銀行家たちは、また、連邦準備銀行の発効する紙幣――不換紙幣で虚偽の通貨――をもって、私たちを支配していた。米国政府やその支配システムを、今や、「アメリカ・ファシズム」と呼ぶのは決して過激すぎることではない。また、〔消費者〕運動家のラルフ・ネーダーはこう述べている。「私たちの最低賃金は西欧世界で最も低い。私たちは、最大量の消費者金融負債を抱えている。私たちは、最も深刻な貧困子供、最も深刻な貧困成人、膨大な失業者、消え失せる公共事業を持っている一方で、膨大な億万長者と途方もない利益をえる企業を持っている」。こうした事実は、「大きな嘘」と闘うことを必要としている事実である。それは、巨大ビジネスによる政府支配になるもので、私たちを負債を通じて中央銀行やIMFに隷属させ、すべての最大の嘘の製造元である致命的システムを生み出している。

 

誰のための真実か

真実は、人が信じる限りを条件するものでも、人がそれを描写するための言葉によって変わるものでも、そして、それが無視されたために傷つくものでもない。それは単に真実であり、真実はいついかなる時も不変のものである。それは、隠されたり歪曲されたりする恐れはあるものの、変わらざるべき柱であり、最後には、真実は常に生き残る。真実を発見することは、個人的仕事である。しかしだからと言ってそれは、人によって異なるということではない。私たちは、真実の形態が変わることは経験しても、その内容は変わらずに残っている。

頭を土の中に突っ込んで隠そうとするには、膝をつかねばならない。後述の「スライブ」の部で取り上げるように、従属するのか自由であるのか、そのどちらを選ぶかは、私たち次第である。ブッダは言った。「長くは隠せない三つのものがある。太陽と月とそして真実だ」。すべての真実が、みっつの段階を経ることを覚えておこう。第一に、それは笑いものにされる。第二に、それは暴力をもってつぶされる。第三に、それは自明となった時、受入れられる。自分の思い込みを失いたくないため、人は往々にして真実を聞くことをおそれる。人間とはそういうものである。私たちは、根深くそうした思い込みに捕らわれており、そこにこそ自分の安泰があるものと、誤解している。

「両極性の普遍則」は、両反対極は、同じものが持つ二つの極端であることを告げている。生命は、循環の繰り返しである。この世界には、幸福も不幸もない。あるのはただ、一つの状態と他の状態の比較である。善も悪もない。あるのはただ、知恵か無知かである。知恵をもとうと望む者は、真実を求めるところから始めなければならない。ジュリアン・アサンジは言った。「私たちは真実を起点にしなければならない。真実は私たちがどこにでも見つけられる唯一の道だ。なぜなら、嘘や無知の上にたったどんな意志決定も、良い結論には達しないからだ」。

もし、私たちが、世界の人々が陥っている幻想を通して見れば、もとに戻ることはない。〔旧約聖書〕の箴言12:19によれば、「真実は、時の試練に耐えるが、嘘はすぐに暴かれる」。すなわち、言わば、大衆が明らかにされた真実を固く確信する時、彼らは何も失うものを持たない。その時彼ら彼女らは、権力にとって、危険な人々と化す。政府は、私たちの意向を怖れる。なぜなら、私たちはもはや、国の悪行や操りに従わないからである。政府はもう、私たちの目をくらませることはできず、安楽をもってそそのかすこともできず、力をもってしても抑圧することすらできないからである。そして結局、誰かを「陰謀論者」と呼ぶことで、批判的かつ偏見のない人たちを脅し見下そうとする。それは、あまりに度々に試みられる、中傷のレッテル張り行為以上の何ものでもない。私たちはいまやこうした光景を目撃している。そして、これこそが、覚醒した市民が彼らの犯罪を指摘し裁きを求めるようになるがゆえに、支配者がもっとも恐れることなのである。

また、私たちの隠れた抑圧者たちは、恐怖感の武器を用いて、支配を持続しようと懸命な闘争に乗り出すだろう。だが私たちのように、恐れをものともしない者たちは、もはや不公正を許さず、もはや欺瞞を放置できず、もはや頂点に位置する少数特権階級の重荷を負担できず、幻想を越えて立ち上がるであろう。私たちは、こん睡から目覚め、自らが望みない犠牲者であったという認識を改めつつある。私たちは、隠れた支配者に、非暴力の戦略をもって、取って代わろうとしている。そうした現代の自由の闘士のために、私は、抵抗の詩を贈りたいと思う。 何ものも恐れず、自らが信じる根拠を前進させる。 今や、立ち上がる時であり、自由な精神を持つ者と数えられる時である。 これはもはや、意識の革命である。

 

誰のための使命か

時の経過が与えた教訓が、どこにでも、何にでも役立てうる使命というものをもたらす。そこにおいて、「教訓」がキーワードとなる。使命とは、体験してきているその教訓を私たちの真の本性を目覚めさせるために置換えたものである。時間と状況は常に変化しうる。そこにおいての根本原則は、真実に、誰をも傷つけず、見下げないことである。以下のような譬えの意味とは何だろう。鳥は生きている時、蟻を食べる。だが、鳥が死んだ時、鳥は蟻によって食べられる。人はいま力を持っているかも知れないが、忘れてはいけない、時間は人よりもさらに強力である。一本の木から、何百万本ものマッチ棒を作れる。しかし、時がやってきたら、一本のマッチで、百万本の木を燃やすことができる。ゆえに、常に親切であり、善をのみ行おう。ところで、いかなる理由であれ、意図の方途を選ぶことは、完璧な反社会的征服者を志そうとしない限り、まったく無意味で非建設的なことである。私が信じるのは、もしこの方途を選ぶのであるならば、人に行うすべてを、慎重かつ厳密な精度を伴った、使命感をもって報いられることのみに尽きるということである。

人は、望む限り広く徹底した研究を、たとえばもっとも薄汚い陰謀を対象として、成すことができる。しかし、愛の力を上回る秘訣を見つけることは難しい。恐怖の対極として、愛について考えてみよう。そこには私たちが面すべき二つの姿勢がある。愛を与えることは、啓発の道としての充実がある。それは実に単純明快なことである。それはただ愛に関しており、愛ほどに強くあり、また将来もあるであろうものは他にない。それはまた、使命を償うものでもある。誤った自我構造は、自分に近いわずかな者を愛させはするが、他の人たちには混乱を与え、孤独や怖れの土壌となる。したがって、私たちが開かれた愛をあらゆる他者に与え、機械的な独断と猜疑(いずれも人間の条件反射的怖れの反応)を止める時、私たちは、機能をなさない政治、経済システムをただすために、どんな抗議行動がなすものより、いっそうの実の貢献をしていることとなる。

それを念頭に置いた時、それは人生においては、実際上、わずか二つの違いでしかなく、わずか二つの選択を問うことである。一つの選択は、他の人々を、弱く、哀れで、愚かで、恥かしく、完全に価値なき人々と見なし、同時に、自分を明らかにかついかにも、優秀であると見、自分への利得がない限り、他者の気持ちには何らの関心を示さないというものである。神の法の用語によれば、これは、支配の道であり、自分自身への献身であり、否定的二分化である。もう一つの選択とは、許しを与え、忍耐し、愛し、受容し、親切で、あらゆる他者を育成するものである。神の法の用語によれば、これは愛の道であり、他者への献身であり、肯定的二分化である。

それを考えるにあたって、もし貴方の道の方向が自分自身への献身であるとしたら、一つの論理的結末を持つ。もし、貴方が反社会的征服者になろうとしていないならば、その選択をする意味はまったくない。これは、自己支配がそうであるように、「支配」が悪であると言っているのでもなければ、自分を助けるのが悪いと言っているのでもない。この「支配の道」や「自分自身への献身」という言葉は、「自分自身の利得のために他者を操り支配すること」を意味するものである。どっちつかずであったり、誤った意図をもった選択を表す行動上の特徴はたくさんある。それを挙げれば、ナルシズム、自己陶酔、レッテル付け、嫉妬、怒り、我がまま、操り、批判、不忍耐、あら探し、反社会的・犯罪的行動などがある。

「使命の車輪」は、誰もが支配の道なぞ、もはやほんの僅かでも選ばないといった地点に到達するまで回り続ける。その車輪の最初の一回転は、自分が「世界の頂上」にあると感じ、すべてが成功していると思った時から始まる。その貴方は、完全にハイになっており、人を寄せ付けず、もはや留まるところを知らない。しかし、その車輪が回り始めると、典型的な「精神の闇夜」に達するまで、諸事がうまくゆかなくなるばかりとなる。この「精神の闇夜」で生じる代表的なことは、自分の人生体験について、圧倒され、意欲を欠いた、途方もない不幸感に捕らわれることである。そしてそのみじめさに耐える限界に達すると、私たちはついに、自分の置かれた場に対応することに動かされ、よりよい道があるに違いないと考え始める。よりよい道を見つけようと決心した者は、実際にその実践にとりかかり、「使命の借り」を減らそうとし始める。生涯は、その過程が完成するまで、学ぶことの連続である。もし私たちが最高を望み、暗い夜や疑いに抗うならば、ついには、壁に到達し、深淵な受容をえることとなる。私たちは、これが車輪の回転の終わりかと思いがちであるが、そうではない。私たちは、「自らを拾い上げ、塵を払い、すべてを再び始める」。私たちが全面的に許す教訓を得るまで、永続して、輪は回転を続ける。そして、それをもってしてのみ、それは、もうそれ以上の回転を必要とすることなく、真実の頂上に立つこととなる。

おそらく、もっとも重要な神の法が告げることは、「許すことの中に、使命の車輪の完成が潜んでいる」ことである。この種の至高の許しは、他者あるいは自分の源泉といかなる形であれ分離しようとする私たちの信念の転換、すなわち、一体という私たちの本性の確認、と定義することができる。したがって、他者を許すことは、自分自身を許すということでもある。いったん、この許すという魔法の贈り物を与え、他の人々の自由な意志を支配しようとする必要あるいは要望を実践すると、もはや「使命の車輪」へと縛られない場へと私たちを導き、私たちは自身や他者を、永遠に価値ある存在として見ることができるようになる。

 

何という荒々しさか

意識は、与えられた事柄からは発生しない。それは、まず事実の探究を発端に、次に、それを私たちが発見したことに適用したところに発生する。それは私たちの説得力ある真実についての体験だ。そして、私は、世界の人々が本当に必要なことはなにか、それは、自由な社会において自らを成長させる機会であると信ずる。望むべくは、その機会について、貴方が自分の身の回りの人に、この情報を伝える支援をすることができる。アメリカ合衆国の誇り高く独立した人々は、いったん、その多くが国家の職員となった。アルドウス・ハックスリーが書いて有名となっているように、「人々は実際に隷属することを愛するように仕向けられている」。アメリカの人々がこう問われなければならない日が近づいている。すなわち、どこが我々の突破口なのか。いつ、私たちの各々が、自身に言い訳をすることを止めるのか。いつ、私たちは、国家の力を過大視するのを止めるのか。いつ、この国で自分が力を持っていると覚るのか。そして、自分自身に、私たちは、共通の目的に参加するのか否か。 黄金の時代とは、私たちの各々の頭と心の中に創り出される現実である。すなわち、エゴが失われ、限界が消える時である。それとともに、私たちは無限となり、親切で美しくなり、そして誰もがそうなのである。要するに、私たちは、互いに愛し合うために存在し、互いに貢献し合い、そして、互いに向上し合うのである。人が何をしようと、どこに行こうと、誇りの精神と神聖さもった人生への道筋なのである。そして、人は、受け取るものよりはるかに多くの献身を与えるのである。 人生の努力の中で、失われた信頼を取り戻し、幸福を追求しながら、恐れることなく、力強く前に進もう。そしてその最後には、私たちは自分自身に「オレンダ(魔力)」を得、その神秘的力は世界に働きかける能力をあらゆる人々に与え、また、私たち自身の人生を変えるのである。私は貴方の実りあるスピリチュアルな冒険を望む。

 

変化し続ける皆さんへ

ブラッド・オルセン

サンフランシスコ、カリフォルニア州

2013年8月2日

 

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with permission, (c) Brad Olsen, 2015

「地球上のすべてのものは目的をもっており、すべての病気にはそれを治す薬草があり、すべての人にはその使命がある。これが存在についてのインドの思想である。」――モーニング・ドーブ・サリッシュ

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with permission, (c) Brad Olsen, 2015

 人間はだれも、命ある光である。光の科学的表現は、その現れ方が、粒子と波動の両面をもつ。光の構造の直接の顕現であるDNAそのものの物的形態のように、波はつねに螺旋あるいは渦巻状のものと理解されている。もし渦巻形態が回転する点で見られたなら、それは粒子と観察される。また、同じ渦巻形態が、回転の前あるいは後の、その腕状部に関連して見られたなら、それは波と観察される。同様に、光は、プロセスのフェーズが空間や時間の観点でいずれかによって、粒子または波のどちらかとして観察される。

参考文献

全体として

“Somehow tied into the fate of our species, are transcendental objects made

manifest.” – Terence McKenna

Similar to the content of MODERN ESOTERIC, the metric system was designed to be

universal, that is, available to all. The metric system was designed for ordinary

people, for engineers who worked in human-related measurements and for

astronomers and physicists who worked with numbers both large and small. The

metric system was, in the words of the French philosopher Condorcet to be “for all

people for all time.” Such is the reason why the metric system is used in this book.

May they both stand the test of time – always subject to the rigors of truth.

The following are some references that inspired the contents of MODERN ESOTERIC:

私の使命観

Crowley, Aleister. The Confessions of Aleister Crowley. Cape, London 1969.

 

 

 

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Modern Esoteric cover small

Modern Esoteric: Beyond Our Senses,  by  Brad Olsen

http://cccpublishing.com/ModernEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2015

 

 

 

 

 

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