時間の無い世界 (MOTEJIレポート No.3)

両生 “META-MANGA” ストーリー <第9話>

地球時代、たしか聖路加病院の日野原重明先生がそう言ってたと思うのだが、「命は時間」だった。あの先生はまだ生きてられて、もう105歳にもなっているはずだ。たいした長寿だしその活躍ぶりだ。

一方俺は、その命を早々と収めちまってここに来てMotejiとなり、いまは、その「時間」の無い生活をエンジョイし始めている。ただし、それが「生活」と言えるものかどうかは判らん。

ともあれ、時間というものが無くなってみて初めて、「目からうころが落ちた」感じを多々みつけている。そう胸を張って言えるのは、ここに「先に」やってきた、そういう強みがゆえだろうね。

思い起こしてみれば、時間とは、何とじれったく、涙が出るほどにいじらしいものであったのかということだ。だってそうだろう、たいていの並みの人生では、待ち人は来らず、学校や会社ではやれ遅刻するな、やれ時間を守れとせき立てられ、挙句の果ての、後生大事とまでしてきたはずのその時間からも「はいお終いとなりました」と宣告されて、この早死にという始末じゃないか。

だからね、そこでひるがえって考えてみれば、時間があるから動きというものがあり、動きがあるから距離というものがあり、距離があるから大きさとか空間というものも同時に生まれ、位置とか量とかといったもろもろも生まれてきたという事に思い至るわけさ。

だから、その元の時間さえなくなってしまえば、こうした間尺のあらゆるものがあり得なってしまう関係だったということなんだな。

と言うことは、時間がそれらすべての生みの親で、ひっくりかえせば、悪名高き「下手人」ですらあるってことだ。そこで、時間さえひっ捕らえてしまえば、量や価値の大小もなくなり、未来も過去もなくなって、嘘や偽りさえ皆無となる。ひいては、お金といった価値の尺度や貧富さえも空虚なこととなり、欲望すらも無意味な行いとなる。

いうなれば、地球上の悲劇も喜劇も醜聞もロマンスも、あらゆるものが、この時間という舞台があってのドラマであったということだ。

だがね、その地球を後にしてきたここでは、すべてが今であり過去であり未来であり、すべてがここであり、向こうであり、そして遠い彼方でもある、ということなんだ。あらゆる「もの」や「こと」がこの瞬間に収れんし、そして無限に拡散してもいる。なんという違いだろうというわけなんだな。

こうした「時を忘れた存在」だと言ってもまだ忘れ切れない、そんな無量な「対比」が、生きていることと、死んだのちのこととの違いなのさ。

俺は「その境目」を通過して以来このかた、この途方もないギャップを実体験してきている。

どうだい、凄いことだと思わないか。

 

さて、そこでなんだが、出来ん坊主の俺なんかがこう言うと、頓珍漢による「見当外れの妄想」とさえ聞こえるだろうが、今日の最先端の物理学でいう素粒子とか量子といった「粒/波一緒くた存在」すら、俺に言わせてもらえば、そういう《時間のトラップ》に捕らえられた者たちがゆえの話であり、そうした寸足らず世界からのメッセージに過ぎないと、独りほくそ笑んでいるということなんだ。

つまり、そうそうたる科学者たちが、現実世界の元の元をつきつめて行ったその先で到達した、その一ミリの一千万分の一とかそれ以下の、もはや《物の寸法》といった概念すらなじまない、まさに《元源世界》で発見したものは、もう、地球俗界の考えではまったくつかみきれない、それこそ、粒でも波でもあり、そしていて、そのどちらでもない、もはや「もの」と「こと」の区別さえつかない、そうした何かなんだ。

そう、それはもう「形而上な存在」というしかない、すなわち、俺のいう《メタ世界存在》っていうやつさ。

だからこそ、俺はここにやってきて、その《メタ世界存在》をこう見ているんだ。

すなわち、《メタ世界存在》というのは、それこそが霊の世界であり、真の世界であり、その世界をつかさどる「ことわり」が霊理であり真理じゃないかって。

これはいわゆる言葉の「トートロジー」ではないね。そうじゃなくて、これまではふたつ別々のものとされてきたことが、実は一体のことだったという発見なんだ。

言うなれば、ふたつに分けて考えてきたその考え方が、見当違いだったという気付きなんだな。

俺がなんで、「目からうろこが落ちた」と言っているのか、見当がつくだろう。

 

そういう次第で、そうした二つに分ける「二元論」に立って言えば、俺は俺のうちの、命という時間部分を亡くして、その残りの部分のみになって、ここに居るってことになる。

だが、ここにやってきて判る実感に立てば、その時間という「ローカル要素」を失くして、それほどに《普遍化》が成ってきたということなんだ。

むろんここには空気すらないが、ここでできる深呼吸の、なんと清々しいことか。もはや、物でも事でも、まして人でもないんだからね。

心底から勧めたいね。みんな、早くここにやってこいよ、ってね。

むろん、命やそれを演じさせる時間も、それはそれで美しいが、そんなウエットな美ではない、ここにしかない美がある。それはも、膨大で透徹していて、そりゃあ、すさまじい美さ。

どうだいみんな、この清々しい世界で、その美をつまみに飲んで、大いに気勢を上げようじゃないか。

そうしてね、さらに秘密を明かして言えば、ここには、ここにしかいない「美人」もいるね。

 

そこでなんだが、そういう「美人」の話に入る前に、ちょっと言っておかねばならない説明がある。

つまり、そういう下手人たる「時間」って奴だが、それはどうして生まれたんだろうという疑問への俺なりの考察だ。

どうもそれには、この地球という惑星の《回転》、つまり、それのもたらす《周期》というものが原因ではないかと思っている。

すなわち、地球に自転とか公転があるから、一日とか一年がある。もし、そうした回転運動がなければ、同じ状態が戻ってくるという「一回り」、すなわち、周期という概念も生れようがない。

むろん、そうした概念どころか、昼と夜、夏と冬という違いも存在せず、昼なら昼のまんま、冬なら冬のまんまの、常に同じ状態が続き、変化や刺激といったものの生じる理由もまったくなくなる。

そうした世界において、そうした《周期》がつくる微細から巨大にわたる変化や運動が生まれ、あげくは、それらが結集して、いわゆる生命の、その原初の種のようなものも、そこから発生してきたのではないか。

したがって、こうした回転や周期――別な定義から言えば、振動や振幅――が、「生」の世界と「死」の世界を分けている原因であるということとなる。

そして、生命とは、そういう回転や振動――いわばそういう《繰り返し》――から生まれた無数の運動の集成体であり、それを、どこまでも尊重し、それに則ってゆくことだろう。そういうウエットさや優しさが、奥深く地球的なことなんだろう。

思い起こせば、暮らしや家族、あるいは学校や仕事も、そうした《繰り返し》の王国だったね。正直いって、そりゃあもう、ウンザリさせられるほどに。

そこでまあ、あらためて俺様の存在意義を披露させてもらえば、そうした「王国」には、専制や腐敗や堕落や抑圧がつきもので、この《非生命》の世界からの透明な声を《対比》させねばならん、ということかな。

 

そこでなんだが、こうした宇宙霊理界に居続けていて、その奥にしだいに見えてきたこれまた興味深いことがある。上で言った「美人」にも関わる話だ。

それをこう言うと、地球の日本に生死した俺には、何やらそうした東洋の古典に舞い戻ってきたようなどんでん返しにも聞こえるが、この《非生命》世界にもあった「陰と陽」とでも表現される、何やらそうした《対》となった組み合わせだ。

それを「プラスとマイナス」と言い換えれば、二元論に固執してきた従来の科学者たちには親しいことなんだが、この「陰と陽」という《対》は、二元論的二要素というより、むしろ、生命でいう雌雄というのに近いもののようだ。

まさか、宇宙にも男女の「セックス」があったということではないだろうが、そういう《対》なす要素の結合があるということなんだ。

「真理は一つ」といった観点すらも単純すぎる、《対》なす要素の均衡状態といったようなものなんだろう。

俺のいう「美」も、そんなところに絡んでいる。

ともあれ、この先は、また追ってレポートしてみたい。

 

 

 

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