極めてエソテリックなエソテリック論

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その49)

禅問答のようなタイトルとなりましたが、この「イントロ」が述べていることは、各テーマについても実に両義的で、読み進めていても、一体、肯定なのか否定なのかどっちなんだ、といった困惑にさえ捕らわれます。たとえば「唯我論」に関しても、それをすべきかそうでないのか、といった具合です。

というよりむしろ、本書の核心は、そのような両義的なテーマに関し、それを「二元論」的な視点からその黒白を判別するのではなく、その両義をよく理解した上で、その統合された全体的視野をもつこと、それを論じているのだと、私はとらえています。だからこそ、それは「エソテリック」な発想であるのです。今回の訳読部の末の「量子思考者」といった表現も、量子論特有の「もつれ合った」両義的発想者のことをそう呼んでいるものと思われます。

手前味噌な話をさせていただければ、私のいう「両方を選ぶ二者択一」も、同じような発想に触れているものです。

ともあれ、さっと目を通した位ではすんなり頭に入ってはきてくれない議論であることは確かです。

ゆえに、「極めてエソテリックなエソテリック議論」ということとなります。

 

ところで、今回も、訳読にあたっての、用語のコメントを述べておきます。

今回の訳文の中に、「局所的」「非局所的」あるいは「局部的」「非局部的」といった用語がかなり頻繁に出てきます。

この「局」とは、字義上は「限られた」という意味で、したがって、「非局」とは「限られない」という意味となります。

つまり、本書の議論の中では、「局部的」とは比較的に狭い対象を言い、人体のうちの特定の部位に限った――例えば脳のある部分――といった意味です。また、「局所的」とは比較的に広い対象をさし、今回の訳読の多くの文脈では、「個人に限った範囲」との意味となり、「非局所的」とは、「多くの人におよぶ範囲」といった意味となります。

本書という、部分と全体を同時的に考慮するいかにも「エソテリック」な議論において、部分を意味するのが「局部」や「局所」であり、全体を意味するのが「非局部」や「非局所」ということとなります。

言ってみれば、《あなたは「局所的」人間なのか、それとも「非局所的」人間なのか》、その辺を問いかけてくる、原著者の述べたい要点にかかわっている用語です。

 

それでは、「本書へのイントロ(その2)」へご案内いたします。

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