嘘つきな「歴史」

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その55)

本章の冒頭で述べられている歴史全体への疑念は、私見ながら、私が自分の人生でも体得してきた強く指摘したい見解のひとつです。もちろん、「史実は支配者にとってのもの」とは、頻繁に耳にしてきた言い回しですが、それを誰かによるそういう説として受け止めるということと、身をもって学んだということとの間には、千里の開きがあります。平たく言えば、教科書を信用してはいけない。それは、支配者に都合のよい記述です。そしてそもそも、教育自体が国民総体を包摂し尽くすためのものです(たとえば日本で、このサイトが検閲され強制消去されるということはありませんが、それも、そういう方法では、その徹底を図ろうとしていないだけです)。

そういう訳で、私のこれまでの人生で、物事を考えていて、いつの間にやら歴史にゆきついていたということが、いく度もありました。

まあ、誰にとっても、人生の途上では、毎日が初体験です。ですから、最初のうちは、何か言われても、そんなものかと聞き置くしかありません。しかし、時を経て、同じことに幾度も接するうちに、何が真実かがつかめてくるわけです。ことに、それをつかむ早道は、同じことに、場所を変えて接してみることです。私はそれを、「複眼視あるいは両眼視野」と呼んできました。

ただし、本章が採り上げる議論は、歴史一般ではなく、こと人類の進化の歴史というテーマについてであり、しかも、私たち今日の人間にとって、極めて衝撃的な内容です。

いわゆる進化途上における化石証拠上の「欠けている環」は、まだ未発見であるだけのことか、それとも、そもそもあるはずのないことであるのか。

その進化論最大の謎に関して、本章では、さまざまな角度からの証拠提出がこころみられています。

それでは、「歴史再考(その1)」にご案内いたします。

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