「神」を《宇宙生命態》と呼び代える

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その56)

私的な話題で恐縮ですが、70を越える齢になって、かつて奔走させられた稼ぎとか職業とかと、生存のためのそれこそ無数の物的詳細は、色があせるようにさほど重要には見えなくなり、しだいに関心は、そうした詳細の霧によって見えなくされていた、世界の根本の仕組みといってよいようなものに移ってきています。それを歴史という角度で言えば、千年ほどのスパンでも生き続けているものであり、想念という角度で言えば、広く「神」と呼ばれる最も普遍的な意志めいたものの存在です。

私はこの「神」と総称される存在について、個人的には、《宇宙生命態》と呼び代えたいと思っています。そうすると、いわゆる「神話」とか「創世記」といった話は、語呂は悪いですが、「宇宙生命態メッセージ」とか「宇宙生命態の地球適用」といった表現に置き換えることができるようになります。そしてそうすることで、これまで何とも暗く閉ざされていた世界が、ばっと開けて見えてくるような気分になります。

今日、「なんとかファースト」といったバナーがあちこちで旗揚げし、世界的なその高まりが取り沙汰されています。それは要するに、「ナショナリズム」というアイデアを梃子に、「地球民」を分断して相互の対立をけしかけたい勢力が存在するからです。それと同じように、「神」たる用語の究極的な役割とは、「宇宙民」を分断して、その大きな働きを私的に笠に着たい勢力があるからでしょう。

どうやら「神」という用語には、そういう胡散臭ささが伴っていると私は感じています。

ところで、その最も高次元なところで、そういういかにも膨大でつかみどころのない胡散臭ささを作ってきたのも、歴史の成してきた明白な働きのひとつです。

本章の訳読は、こうした最も高次元なところでの「嘘つきな歴史」を解明してゆくくだりにさしかかっています。

そうしたいわゆる宗教の世界は、それこそ、どの各自をも取り囲む文化の根底にかかわるものでもあり、それぞれに築かれた各々の文化の壁をこえる見解は、それが存在したとしても、まずその理解が容易ではなく、またそれ以前に、それを偏りなく著述した文献も、大いにまれであると私には思われます。

そうした実に困難で見えにくい仕事に挑んでいるのが本書、本章であり、ことに今回の訳読部分です。

お陰で、その訳出に時間を要し、本章を今回で完結することはできませんでした。次回では終わりますが、3回にわたる細切れの掲載を、どうかご容赦いただきたいと思います。

 

それでは、「歴史再考(その2)」へご案内いたします。

 

 

 

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