「神」になった地球訪問団一行(MOTEJIレポート No.9) 

両生 “META-MANGA” ストーリー <第15話>

MATSUよ、ここ黄泉の世界にきて以来、レポートNo.3でも報告したように、地球時代とさまが違う事の筆頭が、ともかく《時間が存在しない》ということだ。時間がないから寿命もなく、従って命もなければ、誕生も死もない。常に今であって、今が限りなく広がっている。時間がないから過去もなく、そういう「時の彼方」を惜しんだり、またそれを逆手どってそこに物事を隠したり、嘘を言ってしらばっくれることもしようがない。つまり、あらゆることが限りなく透明で、見え見えなのだ。

俺は、とことんボケた結果、ここにやって来ることとなったが、そうしてここに来て判ったことが、時間がないとは、昨日も明日もないから記憶も必要ないことだ。信じられないだろうが、誰もが俺に優るとも劣らず、見事にボケている。というより、誰にもどこにも記憶という概念すらなく、瞬時にすべてが感じとれる、そうした優れた感受性のアトモスフィアが行き渡っている。地球ではボケは人間脱落の骨頂かのように言われたが、何のことはない、いずれは無用となるのだから、それは必要な旅支度だったわけさ。

あるいは、とかく地球では、記憶力の良し悪しが人の能力として注目されがちで、一般に、その良さが強みとなる世情も蔓延している。しかしここでは、記憶という言葉すらない次第で、仮に頭の良さという何らかの言葉があったとしても、それはまるで違う品性のことを指している。

 

思い起こせば、地球はとにもかくにも、世知辛いほどに時間が君臨する世界だった。「時間を大切にせよ」との御託宣もあった。それは限りある資源とされて止むを得ない術ではあったのだろうが、学校や職場では、わずかな時間が守れないというだけで、あたかも罪人であるかのような扱いを受けたものだ。

いっそうのこと、地球を「時間の惑星」とでも呼べばいい。むろん、地球から《時空尺度》をつうじて宇宙を見る限りにおいては、火星だろうが土星だろうが、その時間帝国の世間常識においてのこととなってしまう。つい先日も、NASAの土星探査機「カッシーニ」が1997年の打ち上げ以来の二十年間のミッションを終えたとのニュースが報じられていた。つまり、土星の写真やデータを取りにゆくだけで、そこまでの時間の君臨に服従させられるわけだ。探査機の飛行速度上そうなってしまうのだが、しかしここでは、速度どころか、加速度もなくて、微分もなければ積分すらも御用なしだ。そしてただ、無限の多様さが広がっている。

そういう訳で、「無くして知る親の価値」ではないが、俺はいまここで、その時間をあらためて深く考えさせられている。そして地球外の世界からやってきた者たちからは、そんな世界があったのかと、むしろ、驚異の目で見られている。ある輩からはこう言われたよ。「その時間ってやつを、いっぺん体験したいもんだ。」

そこではたと気付いたのだが、まさに時間とは地球ならではの特産物であって、これは宇宙での「売り物」になるってことだ。むろん、ここの世界では、必需品に過不足はなく、まして市場とか売買という制度や慣習もない。マネーさえも無用だ。だから、正確に言えば「売り物」というより、心底の関心や魅力といったものだ。そうした事情で、時間を骨の髄まで知り尽くさされた俺は、その世界の超権威たる存在で、それなりの地位や役割を次第しだいに引き受けるはめとなってきたわけさ。

 

そこで立場柄、思いつくままあれこれ調べてみたのだが、そういう「時間の惑星」への関心やそこへ行ってみたいとの願望は強く、まだ人気沸騰といったほどではないものの、すでにその地球を訪れてみた事例もあるようだ。ちなみに、そうした旅行の際に利用する乗り物とは、地球ではロケット推進の宇宙船がまず思い浮かべられるだろうが、ここではそうではない。それは地球上の名称で言えば一種の「タイムマシン」で、地球のある時代や場所を“入力”して、訪れてみたようだ。

念のために言っておくと、この「タイムマシン」とは、世界から「時間」を除去する装置で、乗り物というよりむしろIT機器に近い。むろん地球上の超限定版それとは比べ物にならんがね。また、地球では、上記のように宇宙旅行にはロケットが不可欠なのだが、そうした化学的爆発の反作用推進機は、この世界から見れば、まるで石器時代の代物だね。だから、土星探査に20年もかかるわけだ。20年なんて言えば、もうそれだけで、人生の佳境が終わっちまうも同然じゃないか。

俺はそこで思いついたのだが、そうした地球訪問を地球人側から見たのが、天空に突如あらわれた飛行体、つまりUFOの出現だったのじゃないかってね。そして、そこから降り立った人々の異様さや、彼らの持つ地球人にはありえない、いわゆる超能力を見せつけられたってわけさ。

そうした地球訪問の際には、その訪問先は、むろん、“同時代”である必要はない。ちょっと数字をさかのぼらせて、地球の太古の時代を選んだ者たちもいるようだ。それを聞いて、俺は、なるほどそういうことだったのかとさらに気付かされたのだが、地球で「神」と呼ばれている全知全能の存在とは、そうした超能力をもった訪問者を起源としているのだろう。

地球のどこの国の神話にも、そういう天上人が描写されている例は多い。興味深いことに、旧約聖書の創世記には、何人かの天使の話があって、そのうちの「堕落」した天使たちが、地球の娘と関係をもって、子供をもうけたという話まである。げすびた話に聞こえるかもしれんが、そうして地球を訪れたツアーの一行が、旅行先での現地体験をいろいろ試みているうちに、まるで「旅先の恥はかき捨て」とばかりに、そうした行為に及んだのかも知れない。あるいは、郷に入っては郷に従えと、現地人がしていることを見習っただけのことかもしれん。

日本の昔話でも「かぐや姫」の話や、神話での「天津神」という天孫降臨の物語は、まさに、そうした地球訪問ツアーが引き起こした、天と地の遭遇のストーリーそのものじゃないか。

 

観点は変わるが、そもそも、《時間》とは、《量》を発生させる根源の尺度じゃないかと思うよ。むろん宇宙のどこかには、それ以外にも異なった「量」の概念を発生させる次元はあるのかも知れない。あるいは、量のない世界は、質だけの世界なのかも知れない。だが、そうしたものが何かはむろん知らないがゆえに、コメントのしようもない。

ともあれ、その時間によって作られる世界は線的で、あらゆる出来事が時間の流れにそった一本の線上で起こる。まるで、流行りのラーメン屋の行列だな。

そういう時間という線上のある時点へ、そうしたツアー団が訪れて何らかの体験を残していった場合、それは地球上では、その時に起こった歴史上の一こまとしてそれなりに解釈され、記録されたはずだ。むろんそいう出来事は、地球外からの超能力訪問者のなした事々であり、当然、それまでの純地球上の発展や進化に、なんらかのインパクトやジャンプをもたらした可能性も大いにありうる。そういう「飛躍」を、地球の進化論者らは、解釈に困ったあげく、「突然変異」などと呼んできた。

つまり、歴史という連続した線には、そういう飛躍や不連続がけっこう紛れ込んでいるのではないかな。むろん、特定のそうした線の研究者たちは、それの前後がつながらないため、それを欠けた連続としてその発見につとめているのだが、そういう連続はもともと存在しないのであり、そうした探究も徒労なのじゃないかな。

もちろん、地球を外界から遮断された無菌室のようなある種の“宇宙版ナショナリズム”とするのも一つの設定だが、そこに、地球外からの訪問者がなんらかの「質」を混じり込ませた可能性もあるとするのもまた別の設定だ。それが一種のアクシデントか、それとも綿密に構想された意図のひとつであったのかの違いはあるのかも知れないが、そういう外界からの働きは一切なかったとするのは、なにやら大人げない非現実的願望のように思われる。

 

そこで俺は思うのだが、地球上で一般に「超常現象」と呼ばれている出来事とは、そうして混じり込んできている別の「質」のことではないのだろうか。

例えば、そうした超常現象である「テレパシー」にしても、「テレポーテーション」にしても、時間や距離のない世界においては、むしろ、あることが、あそことここに、同時同在するのは何の不思議もないことだ。

人の能力の喪失現象とされている「ボケ」にしても、逆にそれを、記憶と呼ばれる時間特殊の能力の低下や喪失として見ると、まさに、そうした特殊性が消えていっている一般化の結果と言える。

俺も、その進行するボケを自ら体験しつつ、何で俺は、何から何まで、すべてをこうすんなりと受け入れれるようになったんだろうと思っていたよ。俺もずいぶん寛大になったもんだってね。以前だったら、もっと何かとこだわりがあって、嫌ったり、体裁をつけたり、疎んじようとすることが少なくなかったのだが、そんなものはいつの間にやら消え去っていた。その分、自分の身体的醜態をさらし周囲に苦労をかけることにはなっていたがね。また、それ以前には決して見えなかったことがはっきり見えてきたりもしていたね。そして、その最後に来た受け入れが、自分の命の旅立ち、つまり「時間」への服従からの解放だった。

そうした「線」や「量」の世界が無くなって、今、俺にあるのは、今しかなくそれが無限である、大きく広がる「質」の世界だ。もはやそうした「線」や「量」に追い立てられることない、そういうふくよかさがふんだんにある世界だ。そうした世界を地球表現で何というか、ひとまず「愛」の世界だと言っておこうか。

 

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