《META交信》の実際例(MOTEJIレポートNo.11)

両生 “META-MANGA” ストーリー <第17話>

MATSUよ、その後の回復具合はいかがかな。なかなか危機感迫る体験だったに違いないし、今でもそれは去っていないだろう。地球上ではそれを「九死に一生を得た体験」とでも表現するのだろうが、実は、それこそが俺が伝えたかった《両界体験》の醍醐味なんだ。そもそもそれは、たとえそのきっかけが「年寄りの勇み足」だったとしても、その本質は、生と死が背中合わせの境界体験のひとつだったがゆえなのだ。

そこで、俺のレポートもいよいよ佳境に差し掛かってきた感があるのだが、前回の「共同合作の第一歩」に続くその第二歩目として、今回のMATSUの体験をひとつの“成功例”として、それが具体的に示している実効性をレポートしたい。

 

そこでその実効性とはどういうものか、それをひと言でいうと、今日、地球上でいわれている「交信」とは次元もスケールも異とする《META交信》であったのであり、それが果たしえた実際性ということとなる。

そしてこの「META」とは、地球上の言葉でそれにもっとも近いものが「直観」なのだが、二者間の距離がたとえ何万光年であろうと、その言語がたとえ異星人相手であろうと、それらとは無関係に瞬時に成立するコミュニケーションのことなんだ。

地球のSF界の言葉では、それを「テレパシー」とか「遠隔視/千里眼」などと呼んでいる。しかし、あえて言えば、何もそんなに“新しがら”なくても、似たことは日本でも昔から、「義」とか「忠」とか「氣」とかと言われてきている。

ただ、今の俺には、それがどういう媒体やメカニズムをへて、互いにそう交信し合えるのか、そのへんのところの詳細はいまだ理解にいたっていない。ただ、おおざっぱな見当をつけて言えるのは、量子物理学領域の粒とも波とも言えない、あるいはその両方である、極超微小世界における何らかの働きによるのだろう。

だが、コンピュータの内部の仕組みを知らなくてもそれを利用はできるように、この世界においても、その実用使用は可能である。(ちなみに、どうやらその極超微小世界の働きの一部を用いて、量子コンピューターなるものが実用化されるのも近いようだ。)

つまり、《META交信》を利用したいと望む者は、心という多面に未解明でありながらすでに俺たちが持っているデバイスの感度を最大限にまで上げることで、このMETA交信上の「信号」をキャッチでき、ある種の情報が「共感」とか「共振」として伝わってくる。だから、ガチガチの石頭な科学者たちは、それは感情や主観にすぎないとして科学の対象から排除しようとするんだな。

 

ちなみにここで触れておくが、そうした「共感・共振」に対し、逆方向に作用しその破壊をもたらすものが、今や地球上の隅から隅までを覆っている、マネーという抽象の力である。これほど、人間を個々に分断したエゴの権化とさせ、人と人の繋がりを奈落に突き落とすものはない。そして、そのマネー力の君臨は、もはや暴力以外の何ものでもない。

ついでに言えば、そうしたマネーを、寄付やチャリティー行為によって、あたかもその暴力が克服されたかに演じられているが、それは新手のマネーロンダリングでしかない。一度断ち切られた繋がりが、その程度のことによって再生されることなぞありない。ありうるのは単に、新たな隷属関係のみである。

 

今、俺がレポートしようとしているのは、そうした暴力にさらに逆向きに作用する、類としての力とそれの作り出す共有の可能性だ。そしてさらに、その力は、個人の物質としての限界を超え、時間軸に沿った縦の、つまり歴史上の共有性として、類の通時的な力をも発揮するものである。

これを俺は《META交信》のサブ概念として、《META歴史性》と呼びたい。すなわち、身体という第一の地球性と、時間という第二の地球性を超える次元である。

そこでだが、この《META歴史性》とは何かを、もっと説明しておく必要があるだろう。すなわち、MATSUの「クモ膜下出血体験」を引き合いにして述べれば、そこには、この《META歴史性》を支える四つのチャンネルが働いていた。

まず第一は両義性のチャンネルで、クモ膜下出血という致死度の高さに遭遇することにより、生と死の両界にまたがる領域を、少なくとも生の側からきわどく迫って、垣間見ることができていた。

その第二はその自由度のチャンネルで、そうした両義性という身体の限度を超える分野にアプローチすることで、現生のもつ即物性・即金性を相対視できたことだ。MATSUの用語を借りれば、「両方を選ぶ二者択一」を持てたことだ。

その第三は、広瀬隆著の『文明開化は長崎から』という道具立てを必要としたが、歴史の歪曲という“事実のかすめ盗り”を正すことで、歴史が個と集団とを結び付けるボンドの役割を示しえたことだ。平たく言えば、「死なば一巻の終わり」ではなく、まだまだ続きがあることだ。(ちなみに、広瀬隆の著作は、その無数の具体的事例を彼流のスタイルで、実に丹念過ぎる程に論証している。)

そして第四は、そのようにしてもちろん、個的にも集団的にも、断ち切られることのない連続的かつ永遠のチャンネルを発見できたことである。

こうした四つのチャンネルを駆使することで、俺たちは、たとえ属人的で地球生命的な寿命が尽きようとも、個的にも集団的にも、時間の制限を受けることのない意志継続の場、すなわち《META歴史性》を共有できることである。そしてそれによる新たなホライズンの登場は、俺たちを地球次元から解放し、その《宇宙マップ》を手に異次元の旅へと誘ってゆくこととなる。それはもはやマップというより、いわゆるタイムマシンというべきだろう。

 

こうして俺たちは、地球的な身体性や物質性――ましてやマネー力――に拘束されずに、自由におのれのエネルギーを燃焼させることができるだろう。そしてその燃焼が人間同士の信頼に基づく時、類としての働きを無限大に発揮するに違いない。

たとえば古代ギリシャの哲学に「ガイア」という概念があった。これは宇宙を生命とみなすもので、それが地球を取り囲み、人間世界を見守っているというものであった。そうした宇宙生命態は、人間の《META歴史性》が宇宙空間に浸み出し、《META交信》を体現しているものと解釈できる。 

そしてこのレポートの結びとして加えておきたいことは、「神」という人間にとっての絶対存在は必要かという疑問だ。つまり、この「ガイア」の考えをかすめ盗り、支配者の権威付けの後光として編み出されたものが「神」の概念であるのだろう。上でいう「類としての無限大さ」を支配者が独占する仕組みであった。想えば、類でありながら人類はその神の名において、どれほど相互の殺戮を繰り返してきたことか。

 

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