エンタングルメントな生き方(MOTEJIレポートNo.13)

両生 “META-MANGA” ストーリー <第19話>

MATSUよ、今度のクモ膜下出血からの生還体験は、確かにそのように、ひとつの成功例となった。それはそれで結構なことで、ことに地球上では、めでたし、めでたしの話なのだろう。だが、両界を知る俺としては、それは序盤戦どころかほんの取っ付きで、これからが本番であることを話したいんだ。つまり、前回レポートの「人間エンタングルメント」が実際の現象であるとするならば、その実用や汎用を、量子コンピュータなぞにとどまらず、もっと俺たちだれもの生活や人生の身近な“デバイス”として、活用すべきだし、それができるということなんだ。だから、スマホなどどいう微々たる代用品に目先を奪われる必要はない。言うなれば、“デバイス”を体外装置とする考えを変え、そうした能力を自分自身に取り込んでしまう、《エンタングルメントな生き方》をエンジョイしようってことなんだ。

そこでまず、問題はその活用の方法なんだが、今度のMATSUの体験がそうであったように、その現象は、現実世界では一見、偶然の出来事のようにして、それとなくやってくることだ。決して、派手に仰々しくはやってこない。そこがノーベル賞だの新商品だの、出世だのボーナスだのとは違う地味なところだ。

それはなにせ、ミクロの世界のエンタングルメントが発端となっている現象なのさ。そのレベルのごくごく些細なことだが、世界中、宇宙中に飛び交ってはいる。それに、どんなマクロな存在とて、そうしたミクロの集合だ。

だが、それをキャッチするには、現行の工学技術的には、それは極限ほどにまで精密かつ膨大な装置を必要とする問題で、だからこそ、そうした分野ではまだ、遠い未来の話となる。だが、工学技術上ではどうであれ、今度の俺とMATSUとの場合では、それが実際に行えたのは事実だ。つまり、それは人間に内蔵されている“装置”の活用上の問題で、そのキャッチは、その活用による共振とか共鳴という形で実現する。そしてその共振・共鳴をえるには、同調できる波長や振動がこちら側であらかじめ用意できているかどうかによる。そして、その共振が始まりかけた時、それに気付き、それにエネルギーを傾注する反応が決め手となる。言い換えれば、自分の内の《エンタングルメント性》を高めておく必要がある。

それは、一見、偶然の出来事のようにして到来してきていることに、それを偶然として見過ごさずに、それを糸口として取り上げ、その発展を自ら広げてゆけるかどうかにかかってくる。そういう連鎖反応を芋づる式に自分で追求しないでは、その最初の偶然も、一回ぽっきりで消え去り、ただの偶然でしかなく終わってしまう。

またその一方、その共振・共鳴を乱し、妨害する波長やノイズは極めて多く、時に強烈でもある。そしてそれらが奔流となって、俺たちはそれにチューンすることを強いられ、いわば不必要な情報の受信に駆り出され、無駄にエネルギーを消耗させられている。

今日、一部の人たちの間で、禅やヨガの瞑想の効用が認識されつつあるのも、そうした共振・共鳴の準備として、それがそうしたノイズをスクリーンするのに有効であることに気付かれはじめているからだ。

俺が見るところ、その共振・共鳴を現代工学技術上でこころみている例が、日本ではカミオカンデのニュートリノ粒子の検知であり、アメリカでは、LIGOという施設での重力波の検知だ。どちらも、膨大な実験施設を用いた、超微細な現象の検知である。

しかし、そうしたこころみは今に始まったことではなく、遠い古代でも行われていたんだな。例えば、エジプトのピラミッドは、意外にもそうした装置であったのさ。ファラオの墓だなんて説は、おおきな見当違いだと思うね。

要点を言っておけば、量子理論では、物体の「位置」は実際に測定されるまで値がない。ということは、こちらから自分の位置を特定すれば、相手の位置も決まってくるということだ。偶然とは、そういうことなのではないか。つまり、これを人間作法的に言えば、自分の位置を顕示できないような者には、相手も対応の仕様がないとうことではないのか。だから偶然もやってこないということだ。すごく常識的で分かりやすいことじゃないか。

セレンディピティっていうのも、こういう現象のことを言っているのだと思うね、MATSU。

直観だって、それが自分内部で生じていることさ。

 

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