喪失する我が宗教心(その1)

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その31)

 

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喪失する我が宗教心(その1)

「あなたが自分を、インド人、イスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人、あるいはその他の誰かと呼ぶ時、あなたは暴力ををふるっている。あなたはそれがなぜ暴力なのかが解りますか。あなたが自分を、信条か、国籍か、伝統かで他者と区別する時、それは暴力を生んでいる。したがって、暴力が何かを理解しようとしている人は、いかなる国、いかなる宗教、いかなる政党または個別的制度にも属さず、彼は人類全体の理解に関心を持つ。」――ジッドゥ・クリシュナムルティ〔インド生まれの宗教哲学者、神秘家 1895-1986〕

宗教は、もっとも典型的には、組織化された信念、慣習、そして世界観の基幹的総合体と定義され、人間を、霊性とともに、宇宙の原因、性質、そして目的と結びつける。したがって、AからZまでのすべて、つまり無神論〔Atheism〕からシオニズム〔Zionism〕までのすべてが、この範疇上の定義に入る。だが残念なことに、霊性と超自然の統合した理解という、人類至高の目標であるべきものが濫用されている。即ち、宗教は長い間、人々を統一し統制する方法であった。宗教はすべての戦争の原因ではないとはしても、人間は特に戦争から利益を得てきた。歴史が示すように、人々は信仰について非常に熱狂しやすく、彼らは宗教の名において人殺しをする。

宗教は、お互いを助ける共同体の経験であり、信仰を互いに共有し、かつ、個人的な霊性に目を覚ますことができ、また、そういうものであるはずである。私たち自身の霊的経験は、往々にして、信仰のコミュニティ内で形成されることもある。そう考えないでは、仏教と道教は宗教としての資格を持たないだろう。なぜなら、その中核は両方ともに自己経験に基づく哲学であるからだ。古代ギリシャ人がそう唱えたように、哲学、すなわち「知恵の愛」の学問は、思いやりのある心を創り、育てる。こうした肥沃な心は、アリストテレスが示唆したように、それを真実と受け止めることなく、思考を繰り広げることができる。だが、いったん神性を明確にし始めると、それが主となってしまう。

真剣に考察して見ると、宗教は、遠い昔に意味深長な話を残して亡くなった人の、神秘的経験ではないことに気が付く。また宗教は、私たちがより良い人間になり、何らかの永続的な平和を見つけるのを助けるためにのみ興ったものでもない。さらに、すべての宗教団体というものは、人間の創造物であり、政治的および身分的性格を有するもので、通常、財政的または他の要求への服従と引き換えにした安穏な感覚を取引することを目標とする。問題は、宗教団体は、啓蒙を促進することができるのか、それとも、不可避的に隷属化を進める装置なのではないか、ということである。真の宗教は本質的にどのようなものであり、その歪んだバージョンから元の教えを引き出すことができるかどうか。宗教団体は、なぜ世界的に衰退しているのか。そして、何がその空隙となった場所を埋めるのであろうか。

ほぼすべての宗教は、霊性的な未知、つまり、私たちがなぜここにおり、なぜ死を経験するのか、という人々がもっとも恐れるこの二つの質問を、権威ある方法で説明しようとする。宗教は、未知のものが恐ろしいものではなく、また死が最終的なものでもないということをその信者に与えることによって、彼らの恐怖につけこんで人々を引き寄せる。存在するすべての宗教団体は、これをある程度まで行う。それは宗教の概念に内在している。霊性について話すとき、不快で恐ろしい深刻な理由はないはずである。おそらく宗教を判断する良い方法は、それがその信仰外の他者によっても楽しむことができ、その信者が犯罪に巻き込まれないかどうかである。

もちろん、神は存在しないという無神論は常に存在する。無神論は、何もないところに何もなく、そして何も起こらないという信念であり、したがって、何の理由もなく、何も不思議に爆発もしなければ、すべてを創り出しもせず、そして、すべてのものは、理由もなく自己を不思議に組み替え、それが恐竜であろうとも、自己複製してゆく。それが無神論者――論理と哲学をのみ使用して世界観を作って行く――のなす仕事である。無神論は、何を言われたかにかかわらず、道義が正しいことを成していると説く。だが宗教はその信者に、何が正しいかに関係なく、何を言われたかを成させている。

 

優先事の根本的変化

ここ数十年の間に、宗教団体に属さないことを選ぶ西洋人たちが増えている。そうした人たちが宗教団体を捨てる理由は、そのような組織が偽善と不寛容を生み出すと信じているからである。また他の人たちは、構造化された形の崇拝に従うことは、あまりに複雑すぎていることを感じ、現代社会からは離れてしまっていると見ている。宗教団体を、神と人びととの間の余分な「仲介者」としてだけでなく、個人的精神性のより個人化された概念に求めている人たちもいる。宗教の喪失は、ゆっくりとだが確実に現れているため、新しい世界の現実になりつつある。2009年のアメリカの宗教生活に関するAP通信の調査では、15%の回答者が宗教を持たず、1990年の8.2%、2001年の14.2%から、恒常的に増加していることを明らかにした。宗教を持たないアメリカ人の数は、どの州でも、ゆっくりだが着実に増加している。

2012年10月に公表されたピュー・リサーチ・センター調査によると、米国民の5分の1および30歳未満の大人の3分の1が宗教に無所属で、これまでに最も高い割合を示した。過去5年間に限れば、無所属者は米国の全成人の15%強から20%弱に増加した。彼らの一群には現在、1300万人以上の自称無神論者と不可知論者(米国人の約6%)と、特定の宗教的無所属(約14%)の3300万人が含まれている。米国が建国されて以来初めて、プロテスタントの数は50%を下回り、2012年のピュー調査ではアメリカ人の48%にまで下がった。この成長するアメリカ人集団は、宗教的集会への出席の頻度や、彼らの生活の中での宗教への重要性の度合いを含め、多くの従来の慣習において、一般よりも無宗教的である。

保守派の眼目パット・ブキャナンでさえ、2011年の著書『超大国の自滅』で、カトリックが直面する信仰的危機による喪失を認めている。彼はこう書いている。「半世紀後には、災難が顕著となろう。1958年の堅牢で自信のあった教会はもはや存在していない。カトリック系大学は、カトリックとの名のみで残っているだけだ。宗教立小学校や中学校は、1950年代に開校された時のように、急速に閉鎖されている。修道女、司祭、神学生の数は劇的に減少した。大衆集会はかつての3分の1の規模である。元議会議長から副大統領に至るまで、カトリックの政治家は、その必要上から、人工中絶さえ支持している。」

これにとどまらず、米国の教会は、2008年の金融危機と住宅バブルの崩壊の結果、過去最高の閉鎖数に達し、上記の宗教教育機関のそれを追っている。全国の教会は、多くの不動産所有者と同じように、不動産ブームに便乗し、建物の拡張や施設の改善のために追加の融資を受けた。それが今では教会に行く人が減り寄付が減るにつれて、彼らの融資は不履行となり、破産に直面しており、建設拡大の必要はあらぬ期待であったことが明白となっている。〔不動産調査会社〕CoStar Groupのデータによると、2010年以降、ローン不履行により270の教会が売りに出されており、その90%が銀行による差し押さえの結果であった。そのうち138件が2011年に起こり、年間記録となっている。それを、ローン不履行による教会の販売がわずか24であった2008年、あるいは、それまでの10年間に数件であった数と比較してみるとよい。

 

世俗界の迎合

現代社会が最も痛感している損失は、以前はユダヤ・キリスト教文化に広くみられていたコミュニティの喪失である。私たちのコミュニティ意識を何が蝕んできたのかを理解しようとして、歴史家は、19世紀後半よりヨーロッパとアメリカで開始された宗教的信念の私物化にたどりつく。それは、私たちが地域社会として私たちの神々を敬うことをやめたとき、私たちが隣人を無視し始めたことを示唆している。私たちは礼拝と教会グループの必要性を排除することによって、無慈悲な匿名者となって、無意識の交換の中でも、重要で緊密な近隣を失ったのだった。

世俗世界は、宗教的生活から有益な教えを引き出せないのだろうか。宗教は、世俗的な社会が成就できない二つの根源的必要に貢献する。その第一は、私たちの利己的で暴力的な根本的衝動に対し、調和のとれた共同体で一緒に生きるための生得的な必要性である。第二は、つらい人間関係、愛する人の死、職業上の失敗、そして来るべき自分自身の病弱と崩壊といった苦痛を、人間的にサポートする必要である。私たちが宗教的な優先性を欠き、そしてコミュニティの喪失の拡大によって、私たちは見知らぬ人を新たな友人に変えられなくなっている。

多くの西洋の宗教は、かつては壮大な意味を持ち、そして今日までの歴史を通して、多くの人々に数え切れぬ慰めをもたらしてくる一方、いまだに、恥や罪や邪悪と支配に専念し続けている。彼らは人生や尊敬や個人的な神秘的経験に専念し続けているだけでなく、自己責任にも専念していない。彼らは、かってなかった分裂を作り出している。先進的な霊性的な教えは、本質的に誰も罪人ではなく、人は正直な間違いのために恥じる必要はないと説く。むしろ、私たちは肉体に宿る霊性的存在である。しかし、政府や西洋の宗教はそれを認めない。人々は長い誤魔化しから目を覚まし、新しい認識に達しつつあり、まさに「ニュー・エイジ」に入ろうとしている。無神論者のリチャード・ドーキンスはこう述べる。「無神論者は、敬虔なキリスト教徒が、ソール〔北欧神話の神〕やバアル〔旧約聖書中の雨の神〕や金の子牛〔旧約聖書の『出エジプト記』32章に登場〕について感じているように、ヤハウェ〔聖書中の神〕について感じているだけである。私たちは、人類が今まで信じてきた神々のほとんどについて無神論者である。ある一部の人たちが、一つの神を神としているだけだ。」

宗教的な冷笑も新しいレベルに達している感がある。車に張ったあったステッカーはこう言っている。「宇宙のユダヤ人ゾンビは、あなたの命を不滅にできる。ただしそれは、もしあなたが彼の肉をもっともらしく食べ、彼をあなたの主として受け入れることをテレパシーで伝えた時に限られ、彼はあなたの心から邪悪な力――彼の肋骨から生まれた女が話す蛇にそそのかされて木の実を食べたために、人間の宿命となった――を取り除くことができる、と信じるのがキリスト教である。完ぺきだね」わずか数百年前に、もしこんなことを言ったなら、あなたは火あぶりにされただろうが。

 

自分の宗教を見つける

あなたはもう、自分の神を見つけているのだろうか。世界には、大きな宗教的バラエティーがあり、およそ900の異なった宗教がある。世俗主義者は疑い深いものの、信心ぶかい。私たちは、「信仰からの脱皮」をもって霊性を探している時、用心深くなっている。そのため、多くの人が懐疑的な態度を取る。最悪の場合の宗教の例としては、カトリック司祭〔の児童虐待〕や「イスラム教徒」自爆テロの場合が挙げられる。では、いかに判断を中断し、自分の目を開かせることができるのか。神は到達地ではなく、方向でなければならない。

人間関係でもそうするように、私たちは信仰の中にもお荷物を持ち込もう。私たちはそれを試してみる必要があり、どのようにフィットするかを見てみよう。そして私たちは霊的な検索を行うために自分自身を謙虚にしなければならない。なんとかして、私たちは遍在する「恵み」に関する宗教状態にオープンになろう。宗教や信仰に適応することは、時間の経過とともにひも解かれる過程である。私たちは旅行がそうであるようには、その目的地に到着することはない。今日、アメリカ人はこれまで以上に宗教や霊性的な道を選んでいる。多くの人が、涅槃を垣間見るんことをもって、恩寵、喜び、安静の可能性に触れている。アメリカ人は、血統上だけでなく、宗教上も、雑種である。それを直視しよう。あなたがもしイスラエル生まれなら、おそらくユダヤ人でしょう。もしサウジアラビア生まれなら、おそらくイスラム教徒でしょう。あなたがインド生まれなら、おそらくヒンズー教徒でしょう。そしてあなたは北アメリカ生まれゆえ、キリスト教徒の可能性が高い。あなたの所定の信仰は、何らかの神的でそして当然の真実によって引き起こされたのではなく、単なる地理の問題であり、あなたの家族の信仰に適応したものなのである。

思慮のなさは、恐怖心、ことにあらゆる感性を駆り立てる死による恐怖をもって、信仰を生みがちである。しかし、自らの死を知り、それでも平和でいられる人たちがいる。彼らはしがみつく偽りの希望を必要とせず、かつ、自分自身を愛することを学ぶことができる。しかし彼らは、他者への有害な効果を見て、宗教とのどんな接触も避けようとする。本当に賢い人は、どんな宗教であろうと、軽率には加入しようとはせず、そのすべてを研究しつくし、「即席粉末ジュース」を飲むのでも、盲目的に従うのでもなく、それを学ぼうとする。

 

身分階層をなくす

政府、教育、企業、教会、軍隊、政治運動といったほとんどの機関は、厳格な階層的な手法の上に出来ている。基本的に、地球上のほぼすべての社会組織の構造は階層構造に基づいている。上司――通常役職とか大司祭と呼ばれる――は、部下よりも力を持っている。ゆえに、階層を定義する関係は、コマンド構造、またはその下にあるすべての人を支配する人的関係にある。

政府や宗教のピラミッド型の階層構造は、その基本は古代ローマを起源としている。古いその皇帝たちは、今日では、法王、大統領、首相である。階層とは、人や物を組織し上下付けるシステムのことで、その各〔人的〕要素(最上位の要素を除く)が単一の他の要素の従属要素となる。ローマ時代は本質的に13の強力な家族によって支配されていた。残念ながら、それらの13家族は今日もなお生き延びている。このシステムは、上位下達意思決定プロセスに乗っ取られ、操作されうる。

現在、この惑星の各政府や大半の宗教は、過酷な社会的、経済的、政治的な階層によって規制されている。秘密の「既存権力」は、階層に基づいた浸透勢力の首領たちである。例としては、ローマカトリック教会、イエズス会、ヨーロッパの君主制、さらには単純な非営利団体もこれに含まれる。運動が何らかの決定力を獲得すると、公金を手に入れた新しい人々が現れ、自身のうちの一人が理事になることを要求する。元の理想主義的な理事会メンバーはすべて疎外され、投票権を奪われ、または置き換えられ、より多くのマネーが多くの理事会メンバーを呼び込む。運動の頭は首を切られ、ピラミッド型の力の構造は簡単に乗っ取られ、その方向を変えられる。そのようなシステムは、以降、権力の乱用のままとなる。解決策は、階層システムを廃止することである。ジョン・レノンは、彼のヒット・シングル「イマジン」で、「すべての人々が平和に生きていることをイマジンしよう」と歌った。「国が存在しないことをイマジンしよう。それは困難ではない。何のためにも、何によっても、殺したり殺されたりすることはない。また、宗教もない」。ジョン・レノンは階層の終わりを讃え、それを中核問題とした。

 

ロンドン市、ワシントンD.C.、そしてバチカン市国は、西欧諸国を支配する「三都市帝国」である。そしてこの3都市にはすべて、その中心近くに支配的なオベリスクがそびえ立っている。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)

 

つづく

 

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Modern Esoteric: Beyond Our Senses, by Brad Olsen

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with permission, (c) Brad Olsen, 2015

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