喪失する我が宗教心(その2)

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その32)

 

== 本書の《もくじ》へ  「もくじ」の中の《本章》へ ==

 

喪失する我が宗教心(その2)

 

 

 

カトリック教会は普遍的

以下に述べることは、カトリック教会の告発のように受け止められるかもしれないので、まずはじめに、数千の献身的なカトリック信者や信徒労働者が、救済組織、ミッション、ボランティア、病院、手助けプログラムを続けており、極貧な何十万の人たちを支援している無私の活動があることに留意しておきたい。熱心なカトリック教徒や他のキリスト教徒、そして、あらゆる宗教の個人信徒は、貧困者に食事を与え、病人を慰め、ホームレスを安らがせ、貧乏人に宿泊所を提供し、中毒者や見捨てられた者に愛と思いやりを与え、そして、何も持たぬ数十万人にもそうした活動を行っている。彼らの信じる神が誰であるかを問わず、人々が無私に他者に奉仕することは、つねに、素晴らしいことである。

そのように、カトリック教徒は世界への奉仕者として仕えているということは一方の真実であるのだが、他方、そのごく一部は小児虐待者としてさえも知られている。重要なポイントは、カトリック教会のような厳格な身分階層が存在するところでは常に、組織を運営している人たちによる重大な人間虐待の可能性があるということである。彼らの大多数は、どんな虐待にも気付いていないかもしれず、またその組織を変えることを無力に感じているかもしれない。だが教会は、マネー・ローンダリング、ルシファー崇拝、犯罪金融組織、そして小児虐待などの問題をかかえ、その批判者からは、身内を守るために罪を隠蔽していると、繰り返し告発されている。

およそ1,700年にわたる歴史の中で、カトリック教会は現存する他のどの組織よりも人の不幸に責任を負っている。ローマ法王アルバン二世〔1042-1099〕は、彼の治世の間に1000万人以上の人々を殺すことを命じ、それは1976年のタイム誌の「歴史上で最も邪悪な男たち」にリストされた。その異端審問により、12万人のCathar村のすべての子供や女性が、Albigensian十字軍として知られているカトリック騎士団によって組織的に殺害された。あるいは、法王ニコラス五世〔1397-1455〕は、奴隷貿易を奨励するために、キリスト教徒には「異端者を売買する」ことが受け入れられると神が彼に告げたとうそぶいた。

また、教会の慣習や儀式の大部分は、それ独自のものではない。キリスト教の起源を遠くさかのぼればのぼるほど、私たちは、他の異なった宗教とより多くの類似点を発見するようになる。西暦325年、コンスタンティヌス皇帝はローマ帝国を統一させるため、異教徒をキリスト教と融合させて、異教徒とキリスト教の両方のコミュニティをなだめた。そして文字通りに、バチカン自体が、ローマの古代異教の聖域の遺跡に建てられた。組織されたキリスト教が異教に根をおいていることは間違いない。コンスタンティヌスが新しい信仰を導入してから数十年後、ギリシャの著述家セルサスは360年「この最近の宗教(キリスト教)は新しくも見知らぬものでもなく、単に以前の異教信仰の淡い反映である」と述べた。コンスタンティヌス皇帝はまた、キリスト教の聖なる日を、ローマの異教徒の太陽神ソル・インビクタスのそれに対応させて日曜日に改めた。実際、イエスの “復活”は、初期の異教の共通の神話であった。18人以上の異教の「神の息子」が彼が復活したと言われたのであった。「五書」とも呼ばれるモーゼの五冊の本は、少なくとも紀元前3000年から古代エジプトで敬われていたエジプトの「タロット」から実際に盗まれたものである。聖書のイエス・キリストは、12世代後の子孫で、12人の弟子がいて、「最後の晩餐」をともにした。興味深いことに、ヒンズー教の神クリシュナも何千年も昔のことである。最後に、すべてのキリスト教の祈りの後に付けられる「アーメン」という言葉は、紀元前3000年のエジプトのメーソンの、「隠されたもの」を意味する「アモンラ」にルーツをもつ。

 

 

「内輪の恥」

バチカン市国は、世界で最も小さい都市国家である。同市国はそれ自身の新聞、郵便サービス、国旗、スイス人護衛兵部隊、そして刑務所を持っている。バチカン市国は、世界の約20億人を支配している。シェル石油やゼネラル・エレクトリックなど、世界最大の銀行やトップ企業への大型投資家でもある。ロスチャイルドのイングランド銀行の保管庫には、数十億ドル相当の金塊が預けられている。カトリック教会は、地球最大の財政力、最大の富裕層、そして最大の財産所有者である。法王はこの巨大な富を支配する目に見える支配者であり、彼は地球上で最も豊かな人物の一人になっている。何世紀にもわたってカトリック教会は豊かさと知識を蓄積し、そうすることで、その一群は基礎教育を拒否してきた。世界中の人々の大半が1日2ドルで生活している時に、膨大な寄付金を集めている。

 

バチカン市国の紋章は、世界の鍵と英国の王冠を描いている。ローマ・カトリック教会には、600以上の教区教会、軍事大臣、使徒行政官、使徒行政区、使徒代理人、領土と個人の高位聖職者、そして世界各地のミッションの司祭など、3,000以上の教会管轄区域がある。「カトリック」の文字通りの定義は、ラテン語のカソリックスに由来した普遍を意味するが、ローマのバチカンにとっては、それは資源を共有することにほかならない。バチカンの富についての最良の推測は、「貧しい生活」に徹してすら、100億〜150億ドルに値する。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)

 

聖ペテロ大聖堂は、イタリア、ローマのバチカン市を支配している。聖ペテロ大聖堂は法王の主教会で、ほとんどの法王の儀式は、その大きさ、法王邸宅の近く、バチカン市国の壁の中にあることから、そこで行われる。それはバチカン市で最も顕著な建物であり、そのドームはローマのスカイラインの支配的な特徴を形成している。その聖堂の中心は、聖ペテロを埋葬したと言われる場所の上にある祭壇である。聖ペテロはイエスの最初の弟子の一人でありながら、マタイ伝14章〔31節〕にあるように、「信仰薄き者」の範例でもある。イエスはペテロに「私の後に続け、サタンよ」と言ったが、彼は最終的にはイエスを三度否定した。興味深いことに、すべての法王はその上に自身の名を彫り込んだ聖ペテロの黄金の輪を身に着けているが、それはサタンの輪と考えることができよう。

キリスト教の創設者であると言われているイエス・キリスト――彼の教えは現在の教会組織の中からは認識しえない――は、貧しい人々の中で最も貧しい者であった。彼の教会であると主張しているローマカトリック教徒は、地球上で最も豊かな富裕層の中で最も豊かな人々の組織である。なぜ、それは、その旅する説教者――その望みは枕の上に自分の頭を休ませることですらなかった――と同じ名前で君臨しているそのような組織が、今や、その敵対者とも言うべき富裕者――もっともすさまじい金融トラストともっとも有力な産業巨体ともっとも繁栄している世界的企業――であふれているのは、まさに恥とすべきことである。

世界の約20億人のカトリック教徒のうち、教会の歴史を研究した人で、教会の不可謬を主張するものはほとんど誰もいない。幾世紀にもわたり、幾人もの法王がかかわった殺人、隠蔽、迫害そしてさまざまな犯罪があった。カトリック教会が無数の無実の人々にあびせた激しい迫害――カトリック教会の権威のもとにさえ入っていなかった Catharsと呼ばれたキリスト教宗派の残虐な皆殺しをはじめとし――を理解するためには、人は異端裁判を参照するだけで十分である。しかし、それは現在の生の歴史の範囲からは離れすぎている。ならば、この百年間ではどうでであったのだろうか。

敬愛される法王ヨハネ・パウロ2世――今日、カソリックの聖人と見なされている――と、ドイツの化学会社のI.G.ファーベンとの間には関係がある。この話は証明可能ではないが、事実としてしばしば話されている。1940年代初頭、I. G. ファーベンは、ポーランド人の化学者でセールスマンを雇用していた。彼は、アウシュヴィッツの大量の人々の撲滅のため、シアンガス――Zyklon B、Malathion――をナチスに販売していた。戦争後、このセールスマンはカトリックの司祭に任命され、 1958年、この野心的な司祭はポーランド最年少の司教になった。法王ヨハネ・パウロ1世が在任33日間という非常に不審な死を迎えた後、その元シアンガス販売員――その名をKarol Wojtylaという――が1978年10月に新法王ヨハネ・パウロ2世との名で法王に選出され、 法王の歴史中、二番目に長い統治をつづけた。

2000年3月、法王ヨハネ・パウロ2世は、その戦争への努力についてではなく、キリスト教の堕落について、公に謝罪した。彼は、多くの事項の中から、プロテスタントの迫害、十字軍の犯罪、そして教会のガリレオ抑圧を謝罪した。許しを求める彼の嘆願はまた、「真の奉仕における暴力」――異端審問によく用いられる虚弱でやっかいな言及――の使用への赦免を求めたものであった。法王ヨハネ・パウロ2世によって読みあげられた謝罪は、28名の神学者と学者による委員会の4年間の作業の結果であり、主要な宗教の指導者による果断なに一掃行為であった。また、2000年に、法王ヨハネ・パウロ2世は、新世界秩序に沿うかのように、次のように語った。「この10年の終わりに際し、私たちは世界の中で初めて存在した単一世界政府のもとで暮らしてきた。単一世界政府は不可避である」。彼の後継者であるドイツ生まれの法王ベネディクト16世は、2013年2月の非常に珍しい辞任まで、新世界秩序のための強力な提唱者であった。

 

主教管区の外交

主教管区は、カトリック教会の普遍的政府であり、主権と独立をもつ領土であるバチカン市国から運営されている。法王〔教皇〕は、主教管区とバチカン市国の統治者である。主教管区は、カトリック教会の政府の最高組織として、国際法の下での主権法人である。主教管区は活発な外交を行っており、国連に加盟する176ヵ国と正式な外交関係を維持している。バチカンは「オブザーバー国家」として、国連非加盟の台湾、クック諸島、パレスチナとマルタ騎士団との関係を持っている。主教管区は、欧州連合と「特別な」関係を持っている。こうした78の恒久外交使節は、主教管区に認定され、ローマに居住している。それ以外は、二重認定されたイタリアの外に使節を置いている。主教管区は106の永久的外交使役を国民国家に置いている。加えて、主教管区は、ブリュッセルの欧州連合に別の恒久外交使節を維持している。主教管区はまた、パレスチナ解放機構との特別な関係を持ち、カイロのアラブ連盟に代表を置いている。国連内での主教管区の活動は、国連の決定と勧告に影響を与えることである。国連はますます世界単一通貨を提唱している。同様に、バチカンもその提唱に参加し、金融市場における抑制を求めている。別のバチカンのシンクタンクは、金融市場を取り締まる世界権威を望んでいる。

主教管区は、特に国際組織間で活発に活動している。それは以下の諸国際機関の常設オブザーバーである。国連。世界保健機関(WHO)、国連食糧農業機関(FAO)、ワシントンにあるアメリカ国家(OAS)組織、アフリカ連合、世界観光機関、世界貿易機関、世界食糧計画、国連教育科学文化機関、国連環境計画、国連国際薬物管理プログラム、国連人間居住センター、ラテン・ユニオン、国際移住機関、国際労働機関、国際農業開発基金。なぜ、ひとつの宗教団体に、それほどの政治的権力を与えられているのか、人はいぶかしく思う。


 

 

 

 

 

エリートは、自分の君主的なイメージをもって敵を作り出す。 彼らは自分たちの建物や官僚に対抗してもテロ行為をした後、生け贄を選ぶ。

(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)

 

 

司教の小児虐待

聖職者による性的虐待犠牲者たちは、ジョン・パウロ2世の後継者である法王ベネディクトの2011年11月の主張に激しく対応した。その主張によれば、小児虐待は1970年代のような最近では「絶対的な悪」であるとは考えられないというものであった。ローマで働く枢機卿や職員への伝統的なクリスマスの演説で、法王ベネディクト16世は、児童ポルノはますます社会によって「正常」とみなされていると主張した。「1970年代に、小児性愛は男性や子供にさえ、完全に従えるものとして理論化されました」と教皇ベネディクトは述べた。「カトリックの神学の領域内でさえ、それ自体が悪いことでも良いことはないということが支持されました。 “より良い”か、より“悪い”かだけの問題です。それ自体は良いことでも悪いことでもありません」。

誰もが男性である教会身分階層の長きにわたる厳格で秘密の不健康な文化は、いかなる費用を払おうともその保持に固執し、その権力――世界中の人々の上に彼らが保有している――にしがみつくことに必死であるように見える。最近の論争は、ドイツのシュピーゲル誌が、1980年代初めに小児虐待者として知られている司教が子供と一緒に働くことを許したという前法王の任務を調査し続けていることから発生した。小児への性的虐待の正当化は、前の法王ベネディクトにとって、信仰を捨てる信者の記録的な数を費やしても教会の役割を保つという、最終的な追い詰められた努力であった。

法王ベネディクトは、2010年の虐待の暴露が「想像を絶する次元」に達し、それは教会に「屈辱」をもたらしたと述べた。教会内で虐待がどのように発生したかを質して、法王は上級司祭に「起こった不当なものを可能な限り修復するように」とし、キリスト教徒のより良い在り様を通して犠牲者を癒すことを助けるようにと呼びかけた。「こうした出来事が明るみに出た今日の時代の流れについて、私たちは沈黙し続けていることはできない」と述べ、児童ポルノの成長を挙げて、「それは、社会によって何とか、段々と正常と何とか考えられているようだ」と語った。

現在の法王フランシスは、法王ベネディクト16世に置き換わったが、長く封印されてきた窓を開きはじめているようで、ついに、教会の堅固な暗闇に光を差し込ますことを許している。彼は同性愛者への同情と同胞化を呼びかけ、また、教会の中絶問題に対するバランスを欠く執着に注視している。ある時、彼はこれらの論争について尋ねられ、「それを裁くのは私ですか(Who am I to judge?)」〔「それを裁くのは神のみである」との意味と一般に解釈されている〕と答えた。この発言は、小児虐待司祭問題に関する煙幕とる者もおり、彼の尊大な態度と見解は必ずしも、彼が小児虐待を正しく取り上げることを示唆はしていないだろう。むしろこの発言は、同性愛問題についても〔「それを裁くのは神のみである」と〕判断回避するとも解釈される。「それを裁くのは私ですか」という返答は、「法王の無謬性」の真逆である。主な新聞によると、こうした法王フランシスの公式声明の骨子は、彼の前任者であるジョン・パウロ2世やベネディクト16世の「教会の厳格な教義の硬派保守路線」からの変化を表していると注目している。枢機卿会議によって選挙されて以来の6ヶ月間の彼の諸宣告は、世界中の献身的だが絶望的となっていたカトリック教徒たちを、驚くべきことと喜こばせている。誰もが、大きな高揚の声を聞くかのごときである。その一方、教会の保守的な勢力は動転している。新しい法王はフランシスコ修道会士――貧困層への慈悲と奉仕を旨とする――である。これは文化的目覚めの有望な兆候のひとつ――世界的変化の現れ――とも言え、隠れた操作勢力に包囲されているかにも拘わらず、希望を失わせないひとつの理由でもある。人間は希望を捨てないものであり、見方の変化の現れは、実に重要なことである。

 

宗教とファシズム

「宗教〔religion〕」という言葉の語源は、ラテン語ではreligareであり、re-bind〔再び縛る〕を意味する。何があなたを再び縛るのだろうか。束や団結だろうか。だが団結とは何か。それは人の束ではあるが、他方、ファシズムでもある。定義によると、ファシズムは過激な権威主義の国家主義の政治家イデオロギーである。ファシズムには、一国家や民族の覇権主義への信念が含まれがちで、強力なリーダーへの服従を強く主張し、強力な宗教的アプローチを採用する。トーマス・ペイン〔英国系哲学者、1737-1809〕は、「人類に影響を与えるすべての専制政治のうち、宗教における専制政治は最悪である」と警告している。

最悪の場合がキリスト単意論――例えば中世で実践された――で、誰もの考えを一元的に支配する。中世では、誰かが正式なカトリックの教義を信じない時、その人とその家族全員が彼らが自白するまで拷問され、通常、生きたまま火あぶりという残酷な形で殺された。この暗い時期では「異端審問」と呼ばれた。

異端審問の精神は今日でも続いていると言う者もいるが、むしろ明白な手段の使用より、イルミナチが用いたような、腐食的な手段が利用されている。物理的な拷問ではなく、精神的な拷問が採用されている。エリート支配者の目標は、現代において、組織化された宗教を支配したり崩壊させるだけではなく、私たちの民主的、社会的システムをそうすることである。彼らはメディア、銀行業界の支配権を握り、マネーサプライに手をのばす。彼らは、賄賂、殺人、宣伝を通じて組織的に私たちの民主的システムを乗っ取り、それが隠されたファシスト体制になるまで、一見目に見えないグループのメンバーによって操つる。

悪は、あるレベルでは、単純に文化的な構造物である。イースター島民は、窃盗はもし成功するならば、善行であると信じた。これは、資源の希少な小さな島においては、多分、再分配のための社会的な仕組みであった。しかし、戦争、大虐殺、テロリズムのような悪は、即座にそう認識されうた。なぜ、全知全能の神がそのような恐怖を許すのそかといった問題は、最も難しくかつ明らかな、宗教的な問題であった。

著作家アレクサンダー・ロマノフ――自称ロシア皇帝の子孫で、元イルミナチの創設の主――は、世界の金融制度を支配するロックフェラー家やロスチャイルド家などの「旧世界秩序」と戦っていると主張する。彼は論争を呼ぶ多くの声明を出したが、以下のものほど燃え上がったものはなかった。彼はファシズムを西洋の三大宗教と明確に結びつける。ロマノフは、数千年前のイルミナチの秘密を明らかにすると主張する。曰く、「アブラハム神、ユダヤ人の神、キリスト教徒の神でありイスラム教徒の神。アッラーと神とヤハウェと、三冊の文書、『トーラー〔注記を後述〕と『聖書』と『コーラン』を通して、神はまったく神ではない。そうではなく、神は実際には悪魔である。それは私の本666に示されており、私の本『6th Dimension』に数学的に証明されている。コーラン、聖書、トーラーは、古代の嘘にすぎず、2000年前からこれらの本を信じる人々は、旧世界秩序による支配の目的で、欺かれ、洗脳され、操作されてきた」。さらにロマノフは次のように述べる。「イルミナティが保持している巨大な秘密は、アブラハム神は、実際には悪魔である。古代のユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒の神はあなたの悪魔の他ではないことを、古代グノーシス以来、私たちは何千年も前から知ってきた。しかし、イルミナチが守ってきた14,000年間の本当の秘密は、技術的に進歩した洪水前の文明の存在を明らかにする証拠である。それはアトランティスのことである。彼らは私たち自身の技術と同等であったが、それは私たちの歴史から完全に消えてしまった」。

第二次世界大戦に至るまでの時期、バチカンはナチス党と同盟関係にあった。 この写真では、「ヒトラーの法王」ピウス12世が指導者アドルフ・ヒットラーと面会している。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)

 

私たちが信じる神

私たちの世界の未来をよりよく計画するためには、まず宗教や他の文化の歴史など、世界の歴史を理解しなければならない。多くの古代の知恵は、失われたり忘却されたりして、文明はあたかも原始的状態にまで悪化している。古代ギリシア人は、哲学、錬金術、数学を発展させたことが知られており、〔その過程には〕改めて気づくという〔知恵の〕初期の兆候を示していた。その錬金術師の基本的な物質変質の目標には欠陥があったが、より深いところでは、その錬金術の仕事も物質の核心の変容に迫っていた。そうして彼らは、円周率、フィボナッチ数列、黄金比を発見した。そうしたギリシャ人に続いて、今日の西洋の宗教が始まったのである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の各宗教は、それまでの理解や文書に基づいていた。それぞれの宗教は、最終的にはより意識的な理解から生まれたのであり、したがって、これらの宗教を見下すことはできず、私たちはただ、その時代まで立ち返ってみるべきなのだ。

現代へと戻ってみると、今日、多かれ少なかれ、すべての宗教には次の3つの共通点がある。(1)すべてが文字通り人造物である。(2)人間の低レベルの動物性をならすような行いを正当とする。(3)現金と身分階層的な権力にまみれている――これは、人間の基本衝動を責任あるものとするという目的とは矛盾している。この世界は、すべての生き物にとって厳しい場所になりうる。加えて人間は、それを誰にとってもいっそう悲惨にすることを意図して欲する唯一の種であり、きわめて頻繁に、宗教すらそれを律するようには使われていない。正直言って、人々が何を信仰するかは問題ではない。それが他人に害を及ぼさないなら、その信仰が何であろうと、それは良いことである。しかし、これは、何世紀にもわたって何十億もの人々が宗教の「名をもって」抹殺させられたことを鑑みれば、現在知られている宗教については当てはまらない。毎日を終える際には私たちは、「宗教」は「神」とは何ら共にしておらず、もっぱら大衆を支配する方法と手段であることを認識しなければならない。

それゆえ、宗教は、実際に作られたものであるか、それとも、少なくとも人間による影響を大きく受けているものと結論づけるのが理にかなっている。どのようにして神のような存在を作ることができるだろうか。私たちは、神とは完璧に人間が作った考えであり、「創造主」という当初の考えは誤った理解であると結論づけなければならない。さらにややこしいのは、多くの宇宙レベルの創造、様々な段階の意識や理性があることである。神は私たちの「外にある」離れた存在を暗示しており、私たちはそれを崇拝し祈らなければらならない。私たちの「唯一無窮の創造主」やすべての宇宙理性や法則は。人間の礼拝を求めない。それらは私たちに、創造とその内の私たちの場を、生きた共同創造者として理解するよう求めている。究極的には、「唯一無窮の創造主」の形で「至高の存在」ではあるものの、私たちはその一部であって、その従者ではない。この至高存在に与えられた名前は、いかなる宗教によっても真の名前はないが、一つの至高存在、すなわち無窮の創造主が存在するという点は、適切なものである。それは、それぞれの宗教が基づいている諸文書から導き出されるものとは、異なる概念のものである。

私たちは無窮の創造主を「崇拝する」必要はなく、むしろ、私たちを存在させるために、そしてこの創造された驚くべき世界のために、感謝の念のままにそれに奉仕して生きよう。私たちは、創造主として記憶し、そう自分自身を再認識するために、本当に自分が誰であるかを忘れるかもしれない。私たちの誰も「運命」付けられてはおらず、私たちの魂は「救い」を必要とせず、誰の魂もそうである。それから「救う」ものも何もない。私たちの無窮の創造主は多くの使いを抱えており、私たちはだれも、集団的目覚めをすすめる独自の方法でともに生きるのである。

 

神秘主義の混合

一般概念としての神秘主義は、何千年間も存在してきており、それがヒンズー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教、キリスト教あるいはユダヤ教などのいずれであろうと、一般的な信奉者は何らかの形の瞑想、エゴの消失、または神性への献身をおこなっている。ある人にとっては、神秘的な道が、禁欲主義、官能的な快楽や物的富の蓄積を控える厳しい生活様式につながっている。それはまた、幻想の自己との決別につながり、したがって、自分の内心または高次元の自己にアクセスすることができている。これらの慣習は何百万人もの人々の心に根付いている。最も興味深いのは、神秘主義の最も深いレベルでは、宗教的教えがどこにでもあることだ。宗教の教義、聖書、そして霊魂的な教えとも無関係になることが頻繁に起こる。以下は、今日の世界最大の諸宗教とそれらを生み出した神秘主義者たちについて概観である。

『タナハ』は、ヘブライ語の聖書――正統派ユダヤ人の精髄をなす聖典――である。タナハの最初の5部の文書〔創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記〕は、「モーセ五書」とも呼ばれて『トーラー』〔「律法」と訳されるがその意味は「教え・指示」〕を構成し、これは神よりの霊感の下でモーセによって書かれたと伝承され、古代ユダヤ人の中核的聖典である。現代の学者は、タナハは紀元前1000年〜400年の間により古い伝統に基づいて4人ないし5人の著者によって編纂されたと考えている。また『カバラ』は、ユダヤ人の神秘的思考の長期的発展の成果思想であり、タルムード編集時代の神秘主義であるエッセネズとメルカバ、あるいはチャリオットから始まる。タルムードは、ユダヤ人の法律や伝統の膨大な集大成である。タルムードを学ぶ過程は、禅宗の公案瞑想の実践と対比される。ネオプラトニズム、グノーシス主義、瞑想的なキリスト教などの流派は、すべてユダヤ教の神秘主義による影響を受けている。

禅宗と神道は日本文化の神秘宗派である。ほとんどの日本の仏教徒は、「自力」とよばれる自分の力と、「他力」と呼ばれる他者の力との二つの実践があるい。しかし、両者に共通するものがあり、それは信徒だけが感じることができるものである。 禅と「真宗」枝派は、仏教の偉大な神秘主義の宗派に属すると言うことができる。 禅は啓蒙の達成において体験的な知恵を重んじる。このように、理論的知識より瞑想と宇宙原理の実践を通じた直接的自己実現を強調する。真宗は今日、日本で最も広く実践されている仏教の枝派とみなされている。

コーランはイスラム教の原典であり、西暦610年の初めに預言者モハメッドに提示され、年644年から656年の間で聖典に認定された。コーランはイスラム教を理解したい人にとって必読である。コーランとは、アラビア語での「吟唱」を意味する。その物語によると、天使のガブリエルはモハメッドに「吟唱する」よう命じた。ズーフィゼムは、神秘主義的なイスラムの信仰システムである。それは、世界の文学と敬虔な物語への貢献で名高く、それには、ルーミ(13世紀の詩人)の詩のような深い洞察力を持った美しい象徴的な詩が含まれ、19世紀にヨーロッパの学者や旅行者によって翻訳された。13世紀のペルシャのWhirling Dervishes は神秘的なイスラム教を演じ、恍惚なダンスによって変換状態を表現している。この実演は、ことにトルコの〔都市〕コンヤで今も続けられている。

聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラムの3つの主要な世界宗教によって聖典とみなされている。多くの敬虔な信者はそれを文字通りの真理と考えている。 他の人はそれを大切には扱うが、それは人間によって書かれたものであると考えており、それは複雑でしばしば矛盾する文書である。私たちは聖書について話すとき、その「良書」は集成であり、共同作であり、一つの談話ではないことを忘れるべきではない。聖書は、ヘブライ語、ギリシア語、アラム語の3つの言語を用いた多数の著者によって書かれた多くの本から成り、多数の解釈を持ち、ローマ人や多くの人々によって何度も書き直されている。新約聖書は、黙示録の神秘的な聖ヨハネの預言的な啓示を含む、西暦60年〜110年の様々な著者によって編纂された。新約聖書の内容は、アレクサンドリアのアタナシウスによって367年に公式化され、最終的に382年に聖典化された。

ナザレのイエスは教師ならびにラビで、新約聖書に記されているような神秘家と考えられている。彼は旧約聖書の全ての定めを、2つの新しい戒めにまとめた。すなわち、すべての人の心と魂と意識をもって神を愛すること、そして、隣人と自分を愛することである。多くの人は、彼を魚を食べる以外は菜食主義者だと信じ、貧しくあることを誓ったが、それを「崇高」とはしなかった人物と考えている。彼は、女性を平等に扱い、平和主義者で、動物が魂を持っていると信じ、業因と生まれ変わりの考えを提唱し、無条件の愛を実践し、自己への寛容そしてその自然な延長として他者への寛容も最高の薬であると教えた。他の多くのキリスト教徒の神秘主義者も、数世紀後にイエスに従った。多くの研究者によると、地球上での彼の空白期間――、寺で教えた12歳からパレスチナでの彼の使命を開始した30歳まで――の歴史的記録は、ギリシャや地中海を旅行した時で、仏教やヒンズー教の教えを吸収した時期と言われている。キリスト教の神秘主義は、キリストへと到達する道で、彼の教えの別の解釈――「自分自身のために地上に財宝を積み上げるのではなく」、長続きするものだけを価値あるものにする――に基づくよう、その追随者に求めている。イタリアのアッシジのサン・フランシス――フランシスコ会修道僧の創設者――は、貧しい人々に奉仕するための彼の心からの献身、動物とのコミュニケーション、そして聖書研究をすべて軽蔑するということで有名であった。スペインのアビラの聖テレサは、1577年に、7つの邸宅をもつ城の形の中の水晶球の神からの啓示を受けていた。そのビジョンに対する彼女の解釈は、神との出会いに終わる7つの段階を通じた信仰の旅であるとした。聖テレサは、浮上することが目撃された。過去二千年にわたって、ここで言及するにはあまりにも多くの神秘的なビジョンを持った修道僧、聖職者、キリスト教徒がいた。

初期のキリスト教が広い幅をもっていたことは、ますます明らかとなってきており、カトリック教会や他の権威当局によって、その記録はしだいに忘れられたり抑圧されたりした。初期のキリスト教徒は、聖書やキリストの磔刑像を瞑想することを通し、それを「キリストを知りうる聖霊からの贈り物」と理解しつつ、預言、ビジョン、およびグノーシス〔霊的直観的認識〕を掘り下げた。グノーシス派は、古代のエソテリック宗教、ピタゴラス派、ヒンズー教などの古代の信仰と深い関わりを持っていた。グノーシスの理解は、グノーシス派――少数者にしか提供されないエソテリックな知識に焦点を絞った――によって開発されたものと同じではなく、邪悪な世界からの開放を可能とした。

 

ピタゴラスは、不朽の数学的天才で、菜食主義者であり、かつ、高い名声をもつ哲学学派の創設者であり、「秘密主義科学」について学ぶためにエジプトにも行った。彼が宗派に入ることを許可される前、大祭司と呼ばれ、彼は町の外で監督の下に約40日間の断食を取り組まなければならなかった。そして彼はこう告げられた。「あなたが教えらるものを理解するためには、40日の断食が必要です」。〔章末の図の説明を参照〕

(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)

 

エソテリック宗教

いくつかのエソテリック宗教では、その入門後、新参者には秘密の知識が与えられ、特別な地位が与えられる。彼らの教師は熟達者と呼ばれる。新参者の古代的意味は、「新しく植えられた、あるいは、生まれ変わった」という意味である。より高次の入門は、事実上、次の段階への上昇する高まる信義心と欲求である。入門とは、信義を誓った後、信頼できる野心的な学生に報いを与える手段である。その身分階層は、上になればなるほど、その地位を所有する人数は少なくなる。そのため、ほとんどのメンバーは最高レベルに進めず、そのグループの本当の秘密の目的を学べない。秘密の宗教とその神秘な気風の望ましくない影響は、時にはそれが異常な団体であるという評判や、どう見ても奇妙な人々のグループであるという印象を与えかねないことである。その聖なる科学は、太陽の働きに基づく古代の科学であり、その「余りに高く、それほ低い」科学は、世界の宗教が提供すべきものをはるかに超えた知恵と啓蒙を成し遂げることができる。量子物理学は、古代の師匠たちが常に、固体物は存在せず、物質は単に活力にみちた意識の海の中のエネルギーに過ぎないことを知っていたことを確認している。これは〔今日の〕宗教組織が明らかにしていることではない。誰もが師匠であるならば、もはや組織化された宗教は必要ではない。

厳格な身分階層に基づいた宗教は、核心となる秘密が、すべての人々はもちろん、その信者からも隔てられている場合、人間のための真の霊性的な道にはならない。いかなるワンワールド宗教も、すべての人が含まれ、完全にオープンで透明でなければならない。しかし、エソテリックな宗教がだれにも公開されている場合、その良好な能力を得るためには、志望者の努力がその唯一の必要資格でなければならない。知識は常に力である。この力の目に見える形であるコミュニケーション法は、教師、ヒーラー、または先見性の導きとなる。そして、それの人類への価値は計り知れず、その存在の記録は、古代の神話、神秘的でエソテリックな伝統など、あらゆるところで際立っている。未開発な部族における生来の愛と互いに平等な同朋意識は、人類が最終的に再び希求するものである。私たちは、すでに知っていることを発見するために、完璧な円をだどって、戻ってゆくのである。

おそらく、地球の最後の極移動により、人々がそれまでの地を捨てて生きることを強いられる前、原初人の素朴な洞窟壁画にもかかわらず、私たちの太古の先祖は非常に賢明だった。彼らは、宇宙のすべてが幾何学的尺度で測定できることを知っていた。この創生の模様は「生命の花」〔訳注〕と呼ばれている。これは、世界のほぼすべての先進的な文化に見られる円の簡素な模様である。生命の花のパターン内の神聖な幾何学は、宇宙を創造した元の完全な幾何学的対称性である。生命の花は、基本的なパターンであり、すべての数学比率、粒子物理学、光、プラトンの正立面体、そしてすべてのエネルギーパターンの源である。この簡素なパターンの知識は、ようやく最近になって完全に解明されてきており、生命の花や宇宙の他の先進的な幾何学的概念を知っていた初期の古代文明を原初としているのである。

〔訳注〕「生命の花 」(右図)は、複数の均等に区切られて重なっている円で構成された幾何学的な図形につけられた現代の名称。

生命の花に関して、他に類似して注目に値する例としては、「生命の樹」がある。

 

春分時の歳差運動

世界中に発見される他の既知の話題は、春分時の「歳差運動」〔訳注〕の考えである。何らかの不可解な理由により、あるいは何らかの不明な時期において、世界中の古代神話が「共同編成」されたらしい。というのは、著者グラハム・ハンコックによれば、他の適当な言葉は見当たらないからだという。ある古代神話は、春分時の歳差運動に関する複雑な技術的データ総体を載せる役割を果たすよう共同編成された。この天文学上の変動は、地球の回転軸の振れにより、地球の極点のぐらつきを生み出し、私たちに25,920年ごとの春分時の歳差運動をもたらす。地球は72年ごとに角度1度だけ動き、それは人間の生涯でほとんど認識できない。この太陽の現実上の移動は、各々の黄道上の変動を通じ、世界の時代を決定する。各時代は2,160年毎に起こり、それが12時代あって、25,920年となる。

 

 

〔訳注〕「歳差運動」: 地球は回転軸(赤色)の周りを1日に1回(白い矢印)回転する。 この軸自体がゆっくりと回転し(白丸)、25,920年の間に回転を完了する(ウィキペディアより)

 

 

12時代のそれぞれの、あるいは各星座上の特徴は、世界の時代、または「神の夕暮れ」をもたらす。これらの時代の変化の間に、偉大な時代的特色を支えていた柱が崩壊し、時代が変わる。というのは、そうした時代は、新しい世界の形成を象徴する洪水や大災害を特徴としたからである。ハンコックによれば、この〔共同編成された〕情報は、神々が世界中のすべての文化に伝えた「意図的な努力」であり、新しい黄金時代を導くものであった。これはれ、技術の2万6千年分のアップグレードと新しい時代の到来に対応するものであった。最後の変化では、ネアンデルタール人、鋭い歯の虎、多毛マンモスが滅んだ。道具が発明され、人間の経験が新しい時代に移行したようであった。やがてやって来る次の時代とは、私たちが知っている、空間、時間、物質、エネルギー、生物学上の変化によるのだろうか。そして、そこで宗教は生き残るだろうか。

 

宗教はET知識と共存可能か

人間は、宇宙の中での孤独な存在かとの疑問は、何も新しいものではない。居住可能な太陽系惑星がありうるとの考えは、ナポリタン・ジオルダノ・ブルーノまでさかのぼる。1584年、彼はその著書『De l’infinito Universo e Mondi〔無限の宇宙とこの世界に関して〕』で、「無数の太陽が存在する。無数の地球がそれらの太陽の周りを回っている・・・。生きている存在が、それらの世界に住んでいる」と述べた。今日では当たり前のこの単純な見解も、彼の命を奪いかねなかった。彼の異端的な見解を抑圧することを意図した裁判を避けるために、ブルーノは母国のイタリアから脱出しなければならなかった。

現今の進化論や天地創造説への挑戦は、その主張者らがUFOの隠蔽を行う主な理由の一つに一つなる。宗教指導者は、UFOの開示が自らの組織を真剣に危険――すでに喫緊の問題となっている――にさらと認識する。米国の諜報機関の手先は、機会あるごとに、異星人が私たちの創造者であるといった情報を漏洩し、これを拉致報告に関連させている。彼らは、イエスが宇宙人の創造物であり、自分たちに異星人が公開しうる何らかの証拠を提供したということさえほのめかしている。もしそれが本当なら、これらの暴露は多くのジレンマを引き起こす。ほとんどの宗教団体は、人間は神の特殊創造物だと信じている。人間が宇宙科学博覧会どころのものではないという証拠を一般社会に提示することは、私たちの中核的な自己イメージを無と化し、私たちの信念に壊滅的な影響をもたらすだろう。

ユダヤ・キリスト教の宗教的概念は、アメリカ社会の基盤となる枠組みに多くの影響をもたらしている。ETの事実の開示は、キリスト教社会の根幹に影響を与えるだろう。一部のクリスチャンは、イエス・キリストの肉体的な再臨を期待している。ユダヤ人は救世主を待っている。しかし、それに代わる異星人の驚異的な登場は、肯定的な現象として見なされることはまずなかろう。1994年には、ETの存在が宗教に及ぼす影響について、1,000人の司祭、閣僚、およびラビらにアンケートがとられた。そのひとつの質問――ETが「人間の生命を作った責任を宣言した」とすれば、宗教はどのように反応するか――が特に焦点となった。回答者の28パーセントは、宗教的な危機を招くと強く信じると回答した。それをアメリカ国民の28パーセントと見なせば、危機に瀕する人口が8,200万人を超えることとなる。

21世紀が進めば、こうした信念構造への挑戦の影響を受ける人々の数は少なくなると主張されるかもしれないが、現政権における保守陣営の力と影響を考慮すれば、わずかなパーセントといえどもで考慮に値されよう。さらに、宗教的信念はしばしば、対象課題の知識収集やそれを管理する人々に影響を与える。CIAの内部では、原理主義キリスト教徒の工作員は遠隔視を悪魔的であると信じており、その研究に関わることを終わらせたと言われている。

カリフォルニア州のパシフィック・ルター神学校の神学体系学の教授、テッド・ピーターズは、地球外知性(ETI)が公開された際、世界の宗教に何が起こるかを研究している。既存の知恵によれば、もしETIの存在が確認されれば、地上の宗教は崩壊するだろう。だがピーターズは逆の考えをもっている。「我々の宗教的伝統は、今では時代錯誤となった古い世界の基本信念により形成されてきたのであり、そうした前近代的教えが新しい知識により覆されたからと言って、それは衝撃的なことなのだろうか。宗教信者が地球中心的であるからと言って、ETIとの接触が、私たちの自己意識感覚を弱めたり辺縁化させるだろうか。私たちの伝統的宗教は、私たちを生命の階層構造の頂上に置いているのだろうか。もし私たちが、私たちより賢いETIに出会った際、私たちは自分の優位を失うだろうか。聖書の伝承が述べるように、私たちが神によって創造されたのだとすると、その聖なるストーリーをそうした新たな隣人と共有できるのだろうか」。そこでのピーターズ教授の結論は、地球の主要な宗教に対する信仰は、損なわれずに生き続けるとする。曰く、「神学者は自分自身の仕事を無くすようなことはしない。事実、神学者は、神の創造の新しく広い視野に照らして、古典的な宗教的関心を改革するという新たな課題を見出すだろう。伝統的神学者は、今や宇宙的神学者にならなければならない。・・・私が予想することはこうです。ETIとの接触は、既存の宗教的見方――すべて神の創造物である生き物に満たされた宇宙の137億年の歴史も含め――を拡大し、すべての生き物は愛と慈悲に満ちた神からの贈り物である、とさせるだろうということです」。

 

すべてが一体

一世紀前、量子力学と粒子波理論の父、エルビン・シュレージンガー〔1887-1961〕はこう述べた。宇宙の意識の総数は一つだ。 彼の言わんとしていることは、人間の意識は、すべての存在とともに、単相である。そしてそれは、ブッダの思いやりの心や、すべての宗教における精神の一体性、そしてアメリカ先住民の伝統の本質でもある。

調和した人間性や、自然との一体感を象徴化するように、アメリカ先住民の祈祷師は、現代においてすら、次のように、真実を警鐘し続けている。

偉大な御霊よ、聞いてください。私はあなたの声を風に聞き、その呼吸は世界中のすべてに命を与えています。私は弱く小さく、私には、あなたの強さ、あなたの知恵が必要です。その美しさの中を歩ませ、あなたが創り出した夕日の赤と紫は、これまでに見たこともないものです。あなたが創った物事は私の手を尊び、あなたの声とあなたの言葉は、私の耳を鋭くします。すべての石や落ち葉の下に隠された教訓を学ばせてください。私は強さを求めますが、私の兄弟よりも偉大になるのではなく、私の最大の敵、 自分と戦うためです。きよい手とまっすぐな眼をもって、いつもあなたのところに来る準備をさせて下さい。そうすれば、私の命が日没のように衰えるとき、私の魂は恥ずところなく、あなたのもとに行きます。 アーメン。

一人の個人の意識の霊性的な含蓄、それは、「一つの永遠の創造性」につながる、私たちが抱く一体性である。個々の意識の真の思考は、一体の情報源から発せられなければならない。意識的な心の本当の性質は単一性で、それに逆らうかのように、私たちは自由意志を持っている。おそらく、自由意志は私たちがせねばならない自由選択であり、それは私たちが聞いている内なる声、すなわち分離された自己の小さな自我の声、またはより大きい普遍的な自我の声である。すべての神秘主義者によって話された宇宙的な、霊性的な意識領域は、真の自己が一体であることを一貫して教えている。つまり、私たちとは、すべて宇宙中に多くの形で現れる、すべてが一体となった心である。一体の心がその内実である。あらゆる形と大きさのあまたの存在は、その内実の運び手であり、媒体である。それに気付くことは、人類の普遍的な意識や集団的理解を可能にし、これは本当に地球上のすべての人々の生活を変えるものである。科学と霊性とが結合するとき、私たちは新しい夜明けを見るだろう。究極的には、唯一の普遍的な言語は、数学の抽象的な「様式」にある。

 

 ピタゴラスがポリクラテスの書いた案内の手紙を持ってエジプトに行く際、 彼はその船に同船する神を信じるエジプトの船員達と旅をした。エジプトに到着したピタゴラスは、その国の神秘宗派に入ろうとした。彼は何度も申し出たが、彼が断食と呼吸法の特別な訓練を経なければ、彼はその宗派に入ることを許可されないと告げられた。ピタゴラスは、「私は知識を得るために来たのであって、修行をするためではない」と語った。しかし、その宗派権威は告げた。「私たちは、あなたが異なっている限り、あなたに知識は与えられない。そして、私たちは知識には全く関心がなく、実際の経験に興味がある。それが生きて経験されていない限り、知識は知識ではない。それがゆえ、40日間の所定の断食と呼吸法を続け、ある時点である覚醒をしなければならない」。40日間の断食と呼吸、覚醒そして謹聴の後、彼はディオスポリスの同宗派に入ることを許された。そこでピタゴラスはこう語ったと伝えられている。「あなたはピタゴラスの入会を許したのではありません。今の私は別人です。私は生まれ変わりました。あなたが正しく、私は間違っていました。なぜなら私の全体的な立脚点は知性だったからです。この浄化を通じて、私の中心が変わりました。この鍛錬の前には、私は知性を通じて、頭を通して理解することしかできませんでした。今、私は感じることができます。今、真実は私にとっては概念ではなく、生命です」。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018) 

 

 

 

【本章完了】

 

参考文献

De Botton, Alain, Religion for Atheists: A Non-Believers Guide to the Uses of Religion. Pantheon, 2012.

Hancock, Graham, Fingerprints of the Gods. Three Rivers Press, 1996.
 Hitchens, Christopher. God is Not Great: How Religion Poisons Everything. Hachette Book Group, New York, NY, 2007.

 

 

== 本書の《もくじ》へ  「もくじ」の中の《本章》へ ==

 

Modern Esoteric cover small

Modern Esoteric: Beyond Our Senses, by Brad Olsen

http://cccpublishing.com/ModernEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2015

本書宣伝用リーフレット

Bookmark the permalink.