誤解される「宗教」

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その67)

私たちはどうやら、宗教というものを誤解してきたようです。あるいは、とんでもない代物を宗教と思い込まされてきたようです。それに気付くためには、現存するあらゆる「宗教」と称されている事々を完璧に忘れ去る必要があります。そして、既存の「宗教」と呼ばれる事々の引力圏から脱出し、いったん自らを無重力の世界に置いた上で、新たな発想と感性のもとに、別物の《宗教》を考え、創造する必要があります。

前回のこのコメントに、「宗教心」と「帰属意識」は同じものではないかと述べ、その創造のためのヒントを述べました。私たちは、いわゆる「宗教」という言葉で、別のものを「宗教」と考えてきてしまっているようです。

実は、そういう私も、宗教嫌いの人間でした。しかし、そこで嫌っている「宗教」とは、どうやら、そういうまぎらわしい名前で呼ばれている、別物であったようです。

もうこの辺で、その誤解を終わらせる必要があります。

宗教とは、人間の観念力にうながされた自らの動的な実践活動です。その創造的働きを、そんな偽物と混同させらて捨て去ってしまうのは、あまりにもったいないことです。

本章は、そのためにはどうしたらよいのか、そのアプローチを論じています。それは容易な作業ではありません。すごくスケールの大きな発想も必要です。

宗教とは何か、その要点を語っているのが、本章末の地球をめぐるあらゆる現存宗教を描いた図に付けられた説明です。お急ぎの方でも、必読です。

 

それでは「喪失する我が宗教心(その2)」へご案内いたします。

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