家主かテナントか(MOTEJIレポートNo.18)

両生“META-MANGA”ストーリー<第24話>

MATSUよ、ここに来て俺は、奇妙な意識の違いを発見している。それを説明するのはいささか面倒なことなんだが、それを手短に言えばこういうこととなる。すなわち、俺が地球にいたころ、俺は俺の主で、その自らの主人意識には、いささかの曇りはなかった。むろん、時にはその自信が揺らぐことや、逆に普遍的人権なぞと大上段に振りかざすことはあったが、それも、その主たる意識があるがゆえのことであった。それがここに来て思えてきているのが、どうやら、俺は俺の主であるどころか、俺という身体を借家して住んでいるテナントに過ぎなかったということなんだ。つまり、家主に出ていけと言われればもうそこには居られず、俺がここにやってこざるをえなかったのも、その家が老朽化し、どう修繕しても、もはや住んではいられなくなったからだと言える。どうだ、面倒どころかえらく突拍子もない話だろう。だが、それが真実のようなのだ。

ところで、近年の地球では、その生命の起こりは、一種の情報として、宇宙からやってきたという説が次第に説得力をもってきているね。日本も小惑星へ探査機を飛ばすなどして、その証拠集めに奮闘している。ということはつまり、そうした発端を持つ数十億年という長い生命の進化過程において、その最末端的な産物ともいうべきものが人間ということだ。そして、その立って歩くことによって結果した、他の動物には見られぬ高度に発達した脳という神経系統は、意識という「自己投影とその鑑賞」装置まで持つようになってきたということなんだ。そのナルシスな審美装置を意識と銘打って、誇大妄想視しているだけなんだ。なんだか、このせつの地球で、民主主義が自分主義の膨大なごっちゃ混ぜと化する中に、機能しなくなってきているばかりか、相互の敵対心ばかりが大手を振っている情勢も、そのナルシスの君臨状態と見れば納得がゆく。

以前に「停電した映画館」のたとえ話したが、この俺のいる宇宙の壮大なる異次元界から見てみれば、それがたとえ偉大な進化と自己解釈されていようとも、地球上の人類のありさまとは、人類が自分でそう考えているほどに、中心的でも、先進的でも、まして普遍的でもない。ただ、そうした進化の先端において灯った意識という偶然的結果に、そうした映像が投影され鑑賞されているに劇場現象すぎない。言ってみれば、ハリウッド産業のような、身内の身びいきのような絵空事。

そうした“俺様中心意識”が、ここではまったく通用しない。それどころか、そんな個別で特異な中心観なぞ、存在のミクロのそのまたミクロな、超極小片りんの事柄にすぎない。それを擬人化して言えば、いま人類がその素粒子物理学において、物質の元となるその極小の単位が意識をもつと唱えられ始めている、その極小単位が、人類であるかのような話なのだ。物理学では、それを「局所的」と呼んでいる。そして人間たちは、物質も俺様のように、意識をもっていたのかと驚いてさえいる始末だ。

考えてみたらいい。もし、その“俺様中心意識”が、その身体に仮寓している独りよがり男のいきがりであったとしたらどうなのか。そのいかにも傲慢で横柄な中心観も、その肉体という生命現象あってのお陰のことだ。その厳密な事実を忘れて、そういういきがり男たちは、どれほど自然の生命現象をないがしろにしてきたことか。まあ、だからこそ死が苦痛で恐ろしくてしょうがないのだろうが、それも身から出た錆ということだろう。それに、近頃の地球では、人間の半分が他の半分の傲慢のほどに我慢が切れて、Me-tooだのWe-tooだのと反撃をはじめている。しごくまともなことだと思うね。

 

ところでMATSUよ、こう言いだすとますます面倒な話となるが、MATSUがMOTEJIと呼ぶこの俺は、そういうMATSUのその意識の産物なのじゃないか。

まあ、いわゆるフィクションとして、そういう架空の存在を設定して話をすすめる手法は判らんでもない。それはそれでストーリーにはなるが、それがMATSUの独りよがりでないという証明はできるのかな。あのニーチェもツァラトゥストラという語り部を必要としたようだが。それとも、この異次元の話を地球化するには、そうしたテクニックも不可欠ということかな。

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