輪廻転生(その1)

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その42)

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私を非現実から現実へと導け。私を暗闇から光明へと導け。私を死から不滅へと導け。」――ブリハッド・アーラニヤカ(ヒンドゥー教のウパニシャッド哲学の最初期・最古層の一文献)

 

輪廻転生への信念は長く、かつ、いまだに継続されており、東洋の宗教的伝統における明瞭な特徴となっている。この教義は、インドの大部分の宗教的伝統――ヒンズー教をはじめ、ヴィシュヌ教、シバ教、ジャイナ教、シーク教、そして様々な東洋ヨガ――の中心的な教えである。同じアイデアはまた、いくつかの古代のギリシャの哲学者たちにもた抱かれた。特定のエソテリックなキリスト教の伝承では、イエス・キリストが輪廻転生について語ったとしている。現代の多くの非キリスト教徒も、前世を信じており、それらには、ニューエイジ派、スピリチュアリズム、サイエントロジー、特定のアフリカの伝統の信者、そして、カバラ、スフィズム、グノーシス主義キリスト教の哲学者などがある。仏教においての生まれ代わりの概念は、しばしば輪廻転生と呼ばれるが、ヒンズー教の伝統やニューエイジ派の信念――生まれ代わるべき「自己」または個々の魂はない――とは大きく異なっている。

輪廻転生の現象は、文字通り「再肉体化される」ことを意味する。それは、教義あるいは、形而上学的信念で、死んだのちに新たな身体に生まれ代わるという、生きとし生けるものの根源的な部分をなすというものである。その根源的な部分は、しばしば精神あるいは魂と呼ばれ、いわゆる、至高または真の自己、神聖な生気、あるいは単に自己である。それぞれの再生の度に、新しい人となりが現実世界に生涯として展開されるが、自己の一部はつねに、前生のすべての命より残り続ける。

輪廻転生は、すべての知性のある存在が不滅の精神的存在であることを意味する。 「過去の生涯」の物語は、おのずから「未来の生涯」生涯をもたらす。これは特に人間にも当てはまる。「精神」は生まれるのではなく、死ぬのでもない。個々に仮定された独特な実体という受け止めが存在しているのである。そのように、すべての精神は同じではない。それぞれは、アイデンティティ、力、意識と能力において完璧に独特である。西洋の宗教的伝統の典型的場合には、前世の記憶はなく、終わりのない過程の理解の進歩を助ける発想もない。

それにもかかわらず、私たちの「過去の命」は、永久に閉ざされた別の時代の死んだ遺物でもなく、私たちから永久に密閉されてもいない。私たちが魂として、そして意識的な目覚めている人格として、自分が以前に誰であったかによって強く影響されている。私たちは、ほとんどの場合、自分の人格がどこから来たのかを知ることはできないが、無意識のレベルではことに、自分が誰でありどう行動するかが形成されている。このような前世の影響と思われること――類まれな才能をもって生まれてきた子供は、無意識下で前世を記憶している――には、多くの肯定的な側面がある。また、前世において、私たちがだれであり、どう他者と分かち合っていたかを完ぺきに説明している。私たちの業のいくつかは、私たちが十分に強くなり、有益な方法で処置することがきるまで、「漂って」いなければならないようである。前世からの問題と弱点は、私たちがうまくそれをやり遂げ、前向きな態度を示せるまで、幾度もやってくるのであろう。

 

因果応報の輪

私たちが過去の人生をよく理解するために、また、なぜ私たちは生まれ代わる必要があるのか、〔そのためには〕カルマ〔因果応報〕の理法を理解することが不可欠である。カルマについての最古とされる著作は、インド哲学の中核をなすウパニシャドに見られる。それは、口述伝承の教義を書き取った膨大な集成であり、ヒンズー教のヨギ師、シュリ・オーロビンドが「インドの精神の卓越した文献」と適切に表現している。ウパニシャドに発見されるのは、ヒンズー教の中心となる根源的な教えのすべてで、カルマつまり因業、サムサラつまり輪廻転生、アナタつまり幻想的自己、モクシャつまり涅槃、アニカつまり無限、ダクハつまり不明瞭な精神による苦悩、アタマンつまり魂、ブラフマンつまり絶対全能者といった一連の考えである。それらはまた、自己実現や、ヨガと瞑想によるヴェーダ教の主要な原則を述べている。ウパニシャドは、人類と宇宙に関する思想の頂点であり、人間の思考を極限にまで高めるものである。

ウパニシャドには、偉大なインド人の心の働き――どんな宗教的ドグマ、政治的権威、または世論の圧力にも邪魔されなかった――を垣間見ることができる。それらは、真実を求めている人たちの一なる献身によって書かれ、それは思考の歴史の中ではまれなことだった。ドイツ生まれの文献学者マックス・ミューラーはこう指摘している。「たとえヘラクレスやプラトン、カントそしてヘーゲルを認めない哲学者であっても、その誰も、嵐や雷を恐れることなく、これほどの尖塔を建てようと献身しなかった」。バートランド・ラッセルは、こう述べてにその均衡のとれた視点を正しく認定している。「人間の知識ほどには知恵は増えないがゆえに、知識の増加は悲しみの増加につながっている」。疑いなく、知識の増大は私たちの人生の因業の輪の会得にしか結びついていない。

カルマの不朽の公理は、人はしばしば、他人より受けた扱いを表すという因果応報である。優しさは優しさを育てる。残虐性は残酷を生み出す。慈善は受容を許す。暴力はより多くの暴力を作り出す。残念ながら私たちは、往々にして残酷で暴力的な二元世界に住んでいる。無垢な人々を傷つけることを防止するために、知性がほどこされた力の行使を希求し、それができなければならない。しかし、最初に、残虐行為を引き起こした悪意に圧倒されることなく、その残虐行為を効果的に防止するためには、特別な理解、自己規律、勇気が必要である。誰も、カルマと呼ばれる人生の中での行為は、ある程度、将来の人生を変えることができるものの、人類の運命を変えるためには、人々の大きな決定的多数が必要である。

ブッダによれば、無常、苦しみ、そして死は、この世にあるものの常である。何ものをもそれを得るために、我々はすべてを失わねばならない。死は再生につながる。すべての神秘宗派、あるいは内向きの宗教にとって、輪廻転生やカルマの考えは、常に共通のテーマであった。仏教のチベット修道僧、イスラム信仰のスフィス、キリスト教のエッセネ、ユダヤ教のカバリスト、原始部族のシャーマンらは、違う言語で同じことを伝えていた。輪廻転生は、仏陀が同じ教義をとなえる以前も、インド文化の一部となっていた。

 

因果応報の輪の完結

この世は二元的で陰性もあるとはいえ、そもそもどの新しい生涯も、その魂が陽性を選択することで進歩する。もし地球に主唱者がいなければ、人間の魂は「善」や「悪」を選ぶきっかけは得られず、他者以上に死後の運命に値する証しを示そうとはしなかったであろう。また、もし私たちが陽性のみを選ぶ機会しかなかったならば、多くを学ぶことはなく、私たちの魂は自分を証明する機会はなかったろう。地球環境に属する私たちや、事実上すべての生命にとって、私たちが進歩へと挑戦するためには、この世に際立った二元性があることを必要とする。私たちの選択の自由はまた、陽性な選択とその結果に向かわせる機会となる。私たちが因果の輪を知るようになった時、私たちを傷つけたい人であったとしても、思念の強い支配により、その力を失なわせるであろう。

因果応報を「克服する」ことはできない。そのためには、「努力して除去」しなければならない。言い換えれば、もしあなたが誰かを、肉体的、感情的、あるいはそれ以外の方法で傷つけた場合、将来のいつかの時点で、その誰かが受けたことを体験しなければならない。この因果応報の理法は「罰」ではなく、個人の成長と発展を促すために設定された学びの方法である。もし私たちが自分の行動の結果を感じることを強いられる場合、次回は別の道を選択する可能性を生む。またそれは、自他の相互に働くことを知っておくことが重要である。したがってあなたは、毎日出会う「他人」にとってのあなたの存在の効果を、陰性なものにしないことを追求してみることができる。関係するすべての人にとって、最も、陽性的で有益な結果に焦点を当てよう。

私たちがいったん輪廻転生の意味を学んだ時、その輪も完結する。もし私たちが同じ誤りを繰り返すなら、その悪循環はそれを告げられるまで繰り返され、そしてその輪は壊れてしまう。つまるところは、私たちの誰もが、私たちが学ぶ必要があることを正確に学び、私たちの誰もが最終的に私たちの「安住の地」を見つけることである。ある人にとっては、他の人よりも長く時間を要しよう。あなた自身の因果を解くには、感知する限りのすべての敵や反対者を許すことが重要である。かれらを愛し、かつ、同情しよう。彼らは、あなたと同じく、自分の生存のために、その遺伝的起源、経験、反応とその選択肢の産物なのである。私たちの大部分がそうであるように、彼らは彼らの限られた意識の資源――競争精神に枠づけられた旧態依然な争い合いで勝ち抜こうとする――を用いているだけなのである。もし彼らがのこの世のすべての秘密を知っているならば、彼らはあなたに悪くはしないだろう。彼らの人間性が何であるかを認識し、彼らをすべて許し、そしてあなたが持っている彼らへの否定的印象を快く消し去ることは、はるかに望ましいことである。そうすることで、今後、あなたが新たな肯定的イメージや自らに対する習慣を得ようとしている際、多くの精神的消耗を減らすことができる。加えて、そうすることは、あなたの古い敵を変えることにもなる。

「スライブ」を目標にし、人間の可能性をフルに発揮するとの観点に立った時、私たちが生まれ代わるとの考えはどういう意味をもつのだろうか。もしそれが、私たちが自分自身よりはるかに多数にかかわることを示すのに役立つならば、私たちの共有の現実を変え、私たちの真実の性状を知ることに役立つこととなるかかわ。したがって、科学的証明はないものの、後述する諸研究には説得力があり、思考を刺激するものである。

 

前世の記憶と母斑

バージニア大学のイアン・スティーブンソン教授は、乳児のもつ前世の記憶と母斑に関する本を出版し、その中で関連する研究論文を考察した。このスティーブンソン教授の著書『Twenty Cases Suggestive of Reincarnation (1980)』により、生まれ代わりに関する私的文書の最も子細な収集が出版された。彼は40年以上を費やして、過去の生活について話した子供を研究した。スティーブンソン教授は、いずれの場合についても、子供の発言を系統的に文書化した。そして彼は、子供がつながっていると話した死者を特定し、死者の生涯の事実を個別に確かめ、どの場合も、子供の記憶とほとんど一致することを発見した。同教授は、彼の厳密な系統的方法により、子供の記憶へのあらゆる「通常の」説明が排除されていると確信していた。しかし、ここで注意すべきなのは、スティーブンソン教授が報告した大部分の生まれ代わりの事例は、生まれ代わりの概念を容易に受け入れる文化圏にある宗教が支配的な東洋社会で発見されたものであった。こうした批判を受けた後、スティーブンソン教授はさらにヨーロッパのケースについての本を出版し、生まれ代わりについて同じ結論を論じた。

さらにイアン・スティーブンソン教授は、ジム・タッカー博士と共同して、自分の前世を覚えているかのような子供の2,500ケースを調査した。これらの2人の精神科医と同僚は、それぞれのケースを個別に調らべ、スティーブンソン教授はその発見を以下のように要約した。「輪廻転生はこれらの唯一の説明ではないが、明瞭なケースにとっては、我々が採りうる最良の説明で、そうしたケースでは、一人の子供は、遠く離れたところの事前に接触したことのない家族について、かなりの数(例えば20または30)の正しい陳述をしている。我々が遠く離れたという時、それは必ずしも物理的な距離を意味するものではない。我々は、2つの家族がわずか10キロしか離れていないのだが、経済的、社会的な違いがあり、非常に離れている可能性がある場合を知っている。

スティーブンソン教授はさらに、母斑や死者の傷や傷跡と、解剖写真などの医学記録と照らし合わせて検証した。スティーブンソン教授の母斑や先天性損傷の研究は、生まれ変わった精神の実証に特に重要であった。というのは、それは調査された子どもや質問された成人のしばしば断片的な記憶や報告よりも、生まれ代わりの客観的かつ図形的証拠を提供するために優れており、それは後になって検証された場合でも、同じ母斑や先天性損傷を施すのはおそらく不可能であったろう。

 

【つづく】

 

 

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Modern Esoteric: Beyond Our Senses, by Brad Olsen

http://cccpublishing.com/ModernEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2018

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