第2章 二重の「二重性」

「アベノミクス」云々と、どこか「ケーキミクス」を想わせる甘くふわふわした“キャッチ”が席巻している足下で、フリーター労働者の一斉の「逃散」によって、名高いチェーン系列の店が、閉店とか見せかけの改装とかに追い込まれるケースが続出しているという。「逃散」などといっても、江戸時代でなく今の日本の話。だが逃散した先に、彼ら彼女らを抱えてくれる「かけこみ寺」でもあるのだろうか。季節は春に向かい、外はだんだん寒空ではなくなっているにせよ、いずれ新種のブラック職場に取り込まれざるをえない、彼ら彼女らの心境やいかん。

 

この章では、前章の比較リスト中の順番をやや入れ替え、その二番目を先に採り上げます。そこで本章のタイトルは、「二重の『二重性』」です。

では議論のまずはじめに、前章であげた三つのリストより、該当の第二項目をあらためて列記してみます。

 

《古典力学の場合》

 2.物質の性格には大きく「波」と「粒子」の二つがある。

 

《量子力学の場合》

 2.物質には、「波動と粒子の二重性」がある。

 

《新学問の場合》

 2.人間の存在には、「二重性」が避けられない。

 

この列記より、ここにともあれ、「波」と「粒子」そして「二重性」という三要素が浮かび上がってきますが、では、この三要素がこうして挙げられるということは、一体、何を意味しているというのでしょうか。

まず一見して、「二重性」とは、物理学上では、波と粒子のことらしいと見て取れます。ならば、新学問上の「二重性」とは何のことなのでしょうか。

またその一方で、本章ではそのタイトルを「二重の『二重性』」としています。ならばこの「二重」の「二重性」とは、何と何であるのでしょうか。

そこでですが、その最初の「二重性」とは、「波と粒子」があぶり出した物理学における「新旧」という「二重性」です。そして第二のそれは、私たちの日常の生活の基底に常に横たわる、私たちの身辺の「二重性」です。

そこでまず、「学問」の対象としてはいかにも縁の遠そうな、またこの新学問の重要な特徴でもある、後者の日常的な「二重性」から話を始めます。

 

 「二重性」が生む「反学問」

まずはじめに、冒頭に採り上げた「一斉逃散」すら起こりうる現世相に象徴されているように、私たちの日々の生活とは切っても切れない、《労働》についての歴然たる事実から見てゆく必要があります。

読み手によっては、なにがしか唐突感を伴う採り上げとなりましょうが、それは、今日、すでに子供時代から始まっている、なんとも苛烈に「二重」なあり様です。すなわち、《自分に付された「値踏み」》と、そういう「烙印」を、いかようであろうと受け止めねばならない《重圧を受ける自己意識》という、自分にまつわる逃れがたいジレンマ、すなわち「二重性」です。

人間存在に執拗に伴うこの新しく、かつ、古典的でもある懸案は、片や哲学的な「主観と客観」という二重性から、自己自身の「物質性と精神性」といった二重性、さらに日常的には「演じている自分とそれに白ける自分」、そして卑近な言い回しでは「本音と建前」とか「義理と人情」といった二重性まで、広く、多彩なバージョンをもって、それは私たちの日々の有り方に強力な方向付けを与えています。あたかも《支配君臨》しているかのごとく。

一般に、人は、この何ともわずらわしい「二重性」から逃れようと、様々なこころみを繰り返してきました。また、それを量的に繰り返すばかりか、そうした「二重性」自体を質的に「悪」としたり「ナイーブ」としたりして否定的に扱い、あるいは、逆にそれを解消することを「善」として手なずけようともしてきました。

この「新学問」が提唱しようとするものは、そうした切実な「一重化」への努力やこころみを、往々にして事実を隠すことにもなる弥縫策として捉えます。そして、現行のような市場経済が続く限り、少なくとも経済的二重性は自明なものであり、いたずらな「一重化」や「解消」を目指すこころみは、やむなく現実と自意識と「二重化」し、時には分裂すらした自己の実態に合わないばかりか、目をつぶるものとさえなっていると見ます。

つまり、「二重化」とは、私たちの身辺の赤裸々な事実であり、誤解を怖れずに言えば、それを包み隠さず直視し、その現実に立った実務策に徹すべきだとするものです。でなければ、この世はあまりも閉塞的です。言い換えれば、人間の可能性は、そうした正しい現実認識に立った、さらなる新次元の思考力に拠るところに切り拓かれ、結実されるもの考えます。その出発点が、この「二重性」の有りのままの認識であり、それを「新学問」と呼んでいるわけです。ある意味では、何も新たな学問ではありません。

さらに、この『新学問のすすめ』は、前章でも触れましたが、フリーで発行しています。これも、その「二重性」に対応する実務策です。つまり、生活の「二重性」をそのまま担いつつ、また、少々煩雑で苦しいながらも、そうした「二重生活」であろうと自分の譲れない部分は、フリーだからこそ発揮できるという、そうした工夫です(リタイア生活者は、そういう意味で、またとない可能性をもっているはずです)。

そこでもし、こうした出版方式に有効性があるとするなら、そこにかもされる「ラディカル・コネクティビティ」と「デジタル・ナルシズム」「松岡正剛の千夜千冊」『ビッグの終焉』参照)が接合する微妙な接線上に、こうした逃れ難い「二重性」から自立してゆく、《 i 2 =-1》つまり「反学問」があるだろうとするものです(この数式の持つ意味は、二重となった自分のうちのひとつの自分「 」ともうひとつの自分「 i 」を掛け合わせたもの が、対抗自立力「-1」となるというものです)。

 

日常生活での「二重性」

私たちの現実生活に伴うこの二重性は、それをあえて二重性と意識する必要もないほどに、どこにでも、誰にでも存在する、あたかも車やTVのような存在です。そうでありながら、ただそれに依存して生きているわけにはゆかない、その利便性に自覚的でなければ危険な代物です。

さらに、毎日の生活にあっては(自分が“社長”でない限り)、生きるために働く、すなわち、仕事を得る=雇用される必要があります。つまり、自分を売り自分を商品にする、その不可避な枠組みの中で、二重であることにすら気が回らない、ストレスに満ちた生活を強いられるのが常です。

加えて、それは誰にとってもあまりにも共通項でありながら、それが苦く不快な共有物であるだけに、誰もが互いに触れようとしないばかりか、「KY」(空気が読めない)といった殺し文句までも登場して、それを採り上げることを「暗黙の禁句」にすらさせています。

この社会の必須な最大公約数についてのこの「暗黙の禁句」は、上記のように、それなくしては生活持続が不可能な生存必須条件にかかわるそれであり、だからこそ近年、その「禁句同然」状態のもたらす深刻度は、それを車やTVと同列にはしておけない水準に至らせてきています。

そこで、こうした世相にまつわる日本社会の変化をふりかえってみると、かつて、「一業にひいでる」とか「一業をなす」とかと言って、生涯をかけて一職業に徹することを美徳とする文化や、またそれが合理的でもある社会がありました。つまり、そうした「一業に徹する」生き方とは、ここでいう「二重性」がまださほど深まっていなかった時代のものでもありました。

そうした古き良き時代の文化や社会体制は、時代の変遷とともに近代的な雇用関係にとって代わられてきました。ただ、そうした生き方が完全に過去のものとなったわけではなく、今日でも、主に、芸術家や自由業、専門職種、そして大企業のエリート層などで、一業に生涯をかけた生き方は、精力的かつ選別的に推進されています。

つまりそれは、今日にあっては、選ばれた少数の選良にのみ許される「特権」と化しています。そしてそういう意味では、一種の“身分”や“特権階級”が定着しつつあり、大勢としては、一生を一業ひと筋に託せるケースは、どんどん減っていっています。

言い換えれば、「転職」とか「兼業」という働き方が、「ひとつの仕事を勤め上げる」といった働き方に代わる一般的な趨勢となってきているわけです。

またこれを、雇用制度という面で一望すれば、ひと昔前までは、終身雇用制とか年功序列賃金制とかという「一生一業型」雇用慣行が、日本型労使関係として肯定的に取り上げられ実施されていました。しかし、日本の高度および低経済成長期が終わり、長期停滞経済に入る頃から、日本企業の国際的競争力を高めるとか、海外進出のための実情に合わせるとかの必要から、そうした慣行は見直され、それに伴い、一生涯に一つの職業を勤め上げることが社会の規範とされることも薄れてきました。

すなわち、「労働市場の自由化」という近年の政府方針が、あきらかに、そうした伝統的美徳に背を向ける性向を助長する政策であったわけです。

こうした動向はまた、日本の雇用慣行や労働市場の欧米化とも言ってよいもので、それまでの自生のものがあえて「日本型」と呼ばれるようになり、グローバル化の趨勢の中で、そうした特殊性が修正され、国際基準に準拠し、つまり欧米化が推進されてきました。

 

このように、世界の先進経済諸国では、労働に関わる「二重性」を促進する政策が採用され、それは極限にまで追究されたかの感があり、そして今日、それが一巡して行き詰まり、むしろ伝統的な職人職種や農業等が見直される回帰現象すら見られる傾向も生じています。

つまり、「二重性」の極をきわめた結果の産物である私たちの自身のいっそうの分化現象は、振り子が逆向きに振り戻る振り子運動のような自然の循環のひとつなのか、それとも、川の流れのように、再び元にはもどらぬ一時代の終わりをつげるものなのか、いずれにせよ、変貌の予兆は顕現化しており、その行方の見定めを必要とする時にさしかかっています。

さらに、視点は変わりますが、高齢化という、先進社会の成功がゆえとも言える産物は、社会の中に、歴史上かって経験したことのない“新世紀”を作り出そうとしています。つまり、「出口期」という身体的には消滅に向かいつつ、その一方、充分長い人生経験に支えられた知恵と熱意を堅持しているという、過去においては、実在は言わずもがな、そうした時代がありうるとも実感されることのなかった、膨大な人的資産を生み出しつつあります。

それは、量的にも社会の四分の一を越えようという規模をなし、また政府の政策の面で見ても、そのマイナス面をプラス面に転化することの実益面の大きさも考慮しながら、そこに蓄積された知的・情操的な《非物質的“資産”》をいかに解放し活用するかが問われています。

その成功の鍵は、人により様々であれ、そうした「二重性」を知り抜き、克服してきた精神的資産の引き出し方次第によっています。つまり、そうした「資産」の存在を認めることを皮切りに、その働きに道筋をあたえる明瞭なアイデアとその実践です。それには、死生観ばかりでなく、さらには、死後の世界へとも踏み込む次元を新たにする発想にも支えられた新想念が必須とされるでしょう。

またさらに、極めて日常生活的な別角度からの視点として、人間存在に関わるもっとも根源的二重性に、男女の性別があります。これは、生殖行為という生命の存続原理とからんで、人間存在の基本分野を形成する「二重性」であり、そういう意味では、上記の社会的なそれとは分野を異とするものです。

しかしそうではありながら、これもそれを無視して人間社会はありえず、日常生活や個人意識の根底に根差すこの性的「二重性」は、上述の「二重性」とも合わせて、人間性の深淵さや両義性の謎をさぐる意味でも、視野から外せないものといえます。

 

物理学上の「二重性」

ではここで、話を物理学上の「二重性」へと転じます。

物質の元が「波」か「粒子」かをめぐる物理学上の論争は、もう、一世紀近くにもわたって続いてきているもので、この論争こそ、物理学の新旧――古典物理学と量子物理学――を分ける分水嶺となっているものです。ただ、繰り返しますが、その経緯をトレースするのはここでの目的ではありません。

ここで採り上げる視点は、物質の元の元を追究して行ったその長い探究の結果に到達した、量子レベルにおけるその「二重性」です。

物質の元をなす量子や微粒子は、波としての特性と粒子としての特性のその両方をもっており、どちらか片方とのみ特定することができません。

もちろん、私たちが現実の世界で目にし、手に取ることのできる諸物質は、光や音や液体などにみられる「波」と、様々な物体を分子として構成している「粒子」から成っています。これは、私たちの実感にもそうもので、かつ、そうした一連の知識に基づく運動力学の法則によって、私たちの現実世界のほとんどすべての諸要素が決定されています。

言い換えれば、近代世界を形成してきた既存科学の骨組みを、こうした古典物理学の知見が提供してきたと言えます。

また科学ばかりでなく、その派生や応用の結果に組み立てられてきた様々な学問体系が、今日の社会の価値観の枠組みを形成し、さらに物的な基盤を築いてきてきました。

そうした古典物理学が、量子物理学の登場で、大きな見直しにさらされています。言うなれば、そうして築かれてきた世界は、世界のほんの一部でしかなかったという発見です。

すなわち、量子物理学は、物質を構成する微粒子というミクロの世界を解明することで、逆に、通常の物質というマクロ世界を左右する法則から自身を分化し、そうして、新旧の物理学を互いにそう限定させたのです。

こうしたミクロ物理学の発展により、マクロの世界のそのまたマクロの世界とも言うべき宇宙科学の面において、宇宙の起源と物質の根元要素という、極大と極小の両次元が結びつき、双方の発展に双方の知見が欠かせない時代となっています。つまり、マクロとミクロの両世界は、あたかも一匹のヘビが自分の尾に喰い付くように、循環し合い、相互に“呑み込み合って”いるのです。

こうした物理学上のミクロとマクロの両端世界の結合により、人間世界つまり、生物学や医学、あるいは経済学や社会学などに、今後どういう影響がおよんでいくのかは未知数です。

しかし、上に述べた私たちの日常世界での「二重性」との関連で言えば、物理学上の「二重性」は確立された事実であり、その事実に立った、新たな思考法――続く各章で述べてゆきます――を生み出しつつあります。そうした思考法が、今後の私たちの意識の面にも、かってあったように、大きな影響を及ぼしてゆくはずです。

 

こういう表現は、厳密な「科学的」見地からは、軌道を外れた「擬科学」――これこそが本「新学問」の特徴です――となりますが、そうした「二重性」を物理学上の発展の核心と見るとすれば、物事の本性を《あること一つ》と見きわめることに馴染んできた精神を見直し、《相反しながらも二重の性質》を本性として採り容れて行く精神の起こりです。それこそ、上に述べた《 i 2 =-1》が「反学問」だとするものです

後の章でより詳しく論じるように、量子物理学では、こうした「相反する」本性をとらえるために、《確率》という手法を取り入れています。

たとえば、二十世紀の初め、時代の先端をゆく物理学者の間で、この確率の考え方を採用するのかどうかをめぐって一大論争がありました。そこで、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」とその採用に反論したのは有名なエピソードです。つまり彼にとって、本質は一つとの信念がそう発言させたようですが、今では、確率論を取り入れることによって、新たな次元での「統一」がはかられようとしています。

また私たちの身辺においても、分野は異なりますが、「降雨確率」とか「リスクを取るビジネス」とかと、広く「確率」を取り入れた考え方は浸透してきています。

そしてそうした日常面ばかりでなく、私たちの生き方の次元において、それこそ「一業をなす生き方」を見直すのであれば、「失敗を受け入れる」とか、「やり直しのきく社会」とかという形で、「一回ぽっきりでない人生路」をゆく選択が保障されなければなりませんし、そうした風潮は育ってきています。

ひと言でいえば、私たち一人ひとりが様々な生き方を追求する、《一事に安住できないしそうしない、多様性ある生き方の時代》を迎えているということでありましょう。

 

以上、各項目にわたって「二重性」の様相に触れてきました。しかし、いうまでもなくそれは「新学問」の要点のひとつにすぎず、本章のみではまだその全体を描くにまでは達していません。続く各章での展開にご期待ください。