第5章 「新学問」の独自な方法論(上)

 これまでの章で強調してきたように、そもそもこの「新学問」の拠って立つところは、私たちが日々の生活を自力で生き抜いている体験実感への学問的な着眼にあります。言い換えれば、ひとつの生命が自らを生存させ、それを自己実践して体験し、そしてそれを統合した上での世界観に、学問的な対象と意義を見出すものです。

ちなみに、本サイトが言う「両生学」とは、自流のものではありながら、そうした対象と取り組んできたひとつの学問的、少なくとも実学的な分野であります。

そうした統合された世界観を、ひとつの生命にねざす物質と意識の織り成す一《単位》とみなすとすると、それとたとえば物理学上の一単位、すなわち「量子」との間に、たとえマクロとミクロといったサイズ上の差異はあるとはいえ――全宇宙と地球との間にさえ、それくらいの差異は存在する――、そうした単位同士のふるまいの関係を探究するのは、荒唐無稽なことではありません。

というのは、物理学上の宇宙というマクロと素粒子というミクロの両世界において、ヘビが自分の尾を呑み込むように、互換し合う相互関係が発見されてきている今日、こうした二種の《単位》に着目してそれらを並置し、相互の関係を考察することは、いってみれば、科学のやり残してきたニッチな新領域であるとさえ言えましょう。

私は、還暦を終わらせたこの時点から自分の人生を振り返って、そうしたひとサイクルを、逸話的脈絡における自分史としてではなく、一個の生命体としての個体史を振り返る学問的視点が見出せるのではないかと観測しています。

それは、それぞれの個人の持ついわゆる個体差を取り除いた、すべての個体に共通する生存要件を採り上げ、言うなれば、個体の持つ特徴を系統や類の広さにおいて、一単位視するものです。

そしてこうした一単位を、《ヒューマン子》と名付け、「量子」や「素粒子」と相並ぶ、同列なユニットにしようとするものです。

この《ヒューマン子》とは、ある意味では、様々な角度から採り上げられる「ヒューマニティー(人間性)」といった概念と対関係をもつ、それの現実的対象となりえる元単位とも言えます。

さらに、その《ヒューマン子》を見る視角を大きく転換すると、たとえば仏教思想上では、人がそうした《単位》たる自分を発見することを「悟り」と呼びます。一方、西洋世界では、余りに「神」の君臨が顕著なためか、こうした単位はとかく見えにくいばかりか、その絶対性に従属すべき従僕としてしか見られず、文学的あるいは哲学的に、その私的存在を主張するのみのようです。

別の角度で見れば、人類は、科学という手法を発見したために、自らを分析視し、客観的対象とする知恵は得たものの、その反面で、世界や自らを余りに切り刻み、それを総体として扱う視野を失ってきました。この点についての深淵な反省は、前章で見た、著名な物理学者たちの肉声で指摘されてきた通りです。

もちろん、一種の全体性を採り上げた場合もありました。それは社会性という視点とともに、人間に伴う物的側面に焦点をあてたもので、唯物論という哲学と相まって、その物量化視には貢献しましたが、そこでは、個体がもつ意識や主観という面は、全体化されたイデオロギーの下に、一色化される傾向がありました。

ただ、生活者としての無数な人びとの存在を《ヒューマン子》ととらえ、それを単位とする本「新学問」を、多様で無数な人々にまつわる複雑な要素を画一化する、かっての全体主義に並ぶ行い、と見る目もありましょう。

しかし、あえて無味乾燥な言葉を用て言うのですが、そうした無数の生活者の生存要件に関する「最大公約数」は間違いなく存在するはずですし、そもそも人間社会のミニマムな目的たるものは、誰にでも、そうした共通する要件の保障であったはずです。

一方、分析的個人という伝統を持たぬ東洋文化、ことに禅思想において言うと、禅の世界でははなから、私とか個性といったものは眼中には置かれていません。そこに、超越無私となった存在はあっても、個人主義などが発生する余地は一ミリとてありません。たとえば「心頭滅却すれば火自ずから涼し」といった表現には、肉体とか「私」とかと言った発想は完全に取り除かれた上で到達した総体にやどる、究極の意識のみとなった一単位の存在がそこに確認されます。 

私は、いわゆる「心脳問題」――脳という臓器すなわち物質がいかに意識をもちうるのか――を扱う方法として、この「ヒューマン子」という《単位》は、学問として有効であると信じるものです。

 

では、そうした方法がどうして有効と信じられるものなのか。そうした議論に移りたいと思います。

そこで、前章でいったん中断しましたが、今回より、三つの学問の場合の各六項目にもどり、その相互比較を再開します。そしてその六項目のうち、互いに関係の深い第四と第五を採り上げ、合体させて述べて行きたいと思います。

ではいつものように、それらを以下に列記いたします。

 

《古典力学の場合》

4.物質の運動は、「運動方程式」で求められる。

5.物質は、初期状態を明らかにすればその運動(軌道)を決定できる。

 

《量子力学の場合》

4.物質の運動は、「波動方程式」で求められる。

5.物質は、空間的な広がりをもって確率的に存在する。

 

《新学問の場合》

4.意識の活動は量子的である。

5.意識は、多次元的な広がりをもって確率的に存在する。

 

さてそこでですが、この「新学問」とは、これまでの章でも述べてきたように、いわゆる「心脳問題」へのアプローチにあたり、私たちの生活経験と量子物理学の両核心とが、どこか似通ったものがあるとの着想を出発点としています。

すなわち、物質と意識が分離されず、むしろそれぞれに寄与しあいながら心というものが発生するそのしくみを、本「新学問」では、脳の神経細胞のシナプスによるニューロン・ネットワークの働きに求めているところまでを3章までに述べました。

そして4章では、量子物理学の開発に至る物理学の先端知性は、それまで、世界を二元化するかのように前提とされていた客観と主観の分離に疑問を投げかけ、両視野の融合に到達し、それこそが量子理論の神髄であるところを見ました。つまり、量子物理学という物質の本源への探求が発見したものは、いわば、客観と主観が不分離な、極めて新次元な領域の存在でした。

「我」という「不滅の魂」も、電源という「物質」を失なわせてはならない存在 (D・チャルマーズ 『意識する心』 p.385 より)

 

そして、この客観と主観の不分離あるいは接合という意味では、「量子」は人間による観察が行われない場合、認識としては無きに等しいわけですが、「ヒューマン子」の場合は、自分で自分を観測する存在であって、まさに、客観と主観の接合の典型であるわけです。

「両生学」の場合、そういう「我」を客観性の角度から、いわば「我」を「ヒューマン子」に変換する方法として、《移動》という手段を採り上げてきました。つまり、《移動》による外界との関係の現実上の変化を取り入れない限り、それはどこまでも主観の泥沼の深みにとらわれてしまい、それこそ、文学の対象にしかなりえなかったからです。

つまり、「ヒューマン子」という自己による観測体と、「量子」という他者による観測体は、移動という外界との関係の位相の違いを測定することによってのみ、はじめて、相互の関係性を同列に扱うことができるものと言えます。

私がこの関係に気付いたのは、アインシュタインが特殊相対性理論の基礎となった「運動している物体の電気力学について」という論文の存在に接した時です。もちろん、その論文の物理学的意味が理解できたわけではありませんが、アインシュタインが、それまでの電磁気現象の理論の矛盾を考察している中で、物体の移動という概念に着目したとという経緯に、ある種の類似性を見たわけでした。

そうした考察の結果、上記の三つの場合の比較に見られるように、古典力学の場合の「運動方程式」に代わって、量子力学の場合の「波動方程式」という公式が打ち立てられました。

そこでですが、こうした二つの方程式の登場に言及する以上、本「新学問」の場合も、真に両力学との関連性を探るためには、それに相当しうる学的類式を提示する必要がありそうです。

そこで、こうした結びつきを論じるために、いよいよ、本「新学問」の真骨頂である、物質と概念の双方にわたる、次元の異なる世界を見る新たな視野の登場が必要となってくるわけです。

(以下、次回につづく)