二人の自分

私の健康エコロジー実践法 =実遭遇編= (その3)

 

Day 21 (4月8日) 「継続監視」を選択

昨日(4月7日)、専門医と再び面談し、生検結果の詳しい説明を受けました。

生検の組織病理レポートによると、前立腺の八か所で各2個の標本をとり、計16個のうちの4標本から、ガン細胞が発見されています。

そのタイプは、グリーソン・スコアーの総合スコアーで6となっており、ガンの悪性度で言えば、5段階の内の、軽い方から2番目の状態です。

神経周囲の浸潤、血管浸潤、前立腺外転移のいずれも見られないとなっています。

16分の4の発見率で、まだ初期と考えられ、緊急の危険度も低ということで、自分としては即座の全摘手術は避け、能動的監視を続けて経緯を見たいとの希望を伝えました。

専門医の返答は、4ヶ月後の8月に、MRI(磁気共鳴画像)をとって進行状況を検査し、その結果次第では、再度、生検を行う場合もある、との意見でした。また、こうしたモニターをしておけば、いわゆる手遅れになることもないだろう、との意見でした。

こうした次第で、ともあれ、今の段階での全摘手術は受けない判断です。

むろん、4ヶ月後のMRI検査次第で、どういう発展となるかは判りません。

対医療機関との関わりとしては、以上が当面の方向ですが、その一方で、私自身の取組みとして、今後、生活習慣の改善を通し、ZGの原因を自分なりに推定し、できるならその除去につとめ、自力での回復がならないかと計画しています。果たして、こういう自分や自分の身体との付き合い方、実りがあるのだろうか、完璧な試行です。

理想的には、4ヶ月後のMRI検査で病巣が縮小していることが確認されることです。そして、これはもう“超”のつく理想論ですが、それが消滅していたとの結果が見られれば、私の健康法論は、もはや申し分ないということとなります。

そこでまず、すでに一部始めていますが、ZGの原因のひとつとして考えられる食事の西洋化への対策、つまり、肉や乳製品の摂取を控える食生活に入るつもりです。

(米国では、ZGは、男性で今や肺ガンに続いて二番目に多いガンに浮上してきており、そうした傾向はオーストラリアでも同じです。そしてその原因が、肉や乳製品など、脂肪分の取り過ぎと指摘されています。私にしても、オーストラリア在住という環境要因は無視できず、その対策が必要と考えられるからです。)

 

Day 22 (4月9日)

かくして、あと四ヶ月間、外部の医療機関においての治療としては何も受けないこととしました。

つまり私自身としては、こうして、自分の身体を全面的に自分の裁量下に置ける一種の「自由」を得て、いよいよ、自分なりの対応に入るところです。というより、すでに、その一部に取組み始めています。

それは、私がこれまでに健康増進として取り組んできた持論の実際適用です。すなわち、自分の身体の持つ潜在力を信頼して、その本来の力をなんとか呼び起こしてみたいというものです。

神だのみでもなく、薬や手術だのみでもない、自分だのみの方法です。

またその一方、私の身体にこうしてガン細胞が発生したということは、そうした健康能力への信頼とは裏腹に、少なくとも過去に、それだけの何か原因を作っていたわけです。むろん、それには外的なものもあるでしょうが、無意識な対応も含め、私のこれまでの行動や習慣に、それを発生させるに足る何かがあったはずです。

こうした観点で、いま、自分の日常生活の洗い直しをしています。これまでも、それなりの見直しに基づいた行動はとってきたつもりですが、それが十分でなかったことが、これで明らかとなったということでもあります。

以上のようにして、発見された病像も明確となり、いわば「汝の敵」を知ったというのか、それを知らぬが故に漠然と恐怖していたような、そうした状況ではなくなってきているのは確かです。

ただ、たとえそうではあったとしても、最悪の場合、ZGを引き金とした「旅立ち」はありうると考えるべき段階にあります。

そのひとまずの目安は、8月のMRI検査によって提示されます。それまでの4ヶ月間、《最善と最悪の間の可能性を心する》という、私の人生でのそいいう初体験が始まっています。

ともあれこうして、到来した「命にかかわる問題」に対峙しつつあるところです。

 

Day 26 (4月13日)

そういうZGの未知の原因を考えるにあたって、これは医学上の病理学的射程には入っていない分野だと思われるのですが、何か精神的、ことに心の有りようというか、“自分の身体に対する自分の人間性”といったような領域があります。たとえて言えば、私は自分の身体や臓器に対し、あまりに“専制的で思慮を欠いたあり方”をしてきたのではないか、そして今回のZGは、そういう“非人間性”に対する、その臓器による“抗議”とか、“暴動”とかといったような、そういう事態なのではないかというとらえ方と、そしてその反省行動です。

なんと言うのでしょう、この対応は、ある種、自分の家族や配偶者といった親しい対人関係における失敗やその反省にも似ています。つまり、そこでの過ちによって、かけがえのない誰かを失ったり、失う寸前の場に至った時、それをきっかけにして、自分の過去の行いを深く反省させられるという経験です。そしてその反省がうまくいったとき、仲直りができるだけでなく、その人と、以前には考えられなかった、はるかに親密な関係が結べるようになったといった成功談です。

もし、自分の身体でもこれが一理あるとすると、それは医者や治療に頼っていられるような次元の話ではなく、自分自身だからこそ可能ということとなります。

 

 

Day 27 「二人の自分」そして「両世的『二重性』」

こうして、今、あれやこれやの「自己治療」を初めている最中です。

そうした数日の中で、どうにもこうにも、こういうのって初めてなのですが、自分の中にいる、《二人の自分》に戸惑わされています。

むろん《二人の自分》と言っても、そういった葛藤は何も今に始まったことではなく、物心ついた時から思春期をへて現在まで、多種様々な《二人の自分》を経てきてはいます。

そうした過去のバージョンを「心理的・哲学的《二人の自分》」とでも呼ぶとしますと、この新たなそのバージョンは、「健康・病理的《二人の自分》」とでも言えましょうか、これまでのものとは根本的に違うものです。

それを端的に言うと、「10キロはじろう」をしている自分と、「ZG持ち」の自分、という二人です。

つまり、前者の自分は、こうした今に至ってもいかにも健康で、「はじった」後の感じも、快い疲労や空腹があって、眠りも爽やかで、思考の展開もきわめて爽快なのです。以前とまったく変わりはありません。

それに対し後者の自分は、そのように医学的に宣告され、あたかもレッテルを張られたかのように、まだ切迫した状態ではないものの、発展によっては命の問題にゆきつく場合もありうるはずで、そうした今後に予想されるある終末の時点から、逆算的に考えられてくる今という自分です。

そういう「明快と不明快」のなすコントラストなのです。

 

それこそ、別掲の『新学問のすすめ』ではありませんが、ここには、その「二重の『二重性』」のその先で遭遇している「第三の『二重性』」があります。

つまり、この世を楽しんでいる自分と、いずれの旅立ち(Departure)の準備へと引っ張りこまれている自分という、完璧に新遭遇な「両生的『二重性』」です。

そしてこの「両生」とは、地理的それでも、思想的それでも、形而上的それでもない、ひょっとすると、「この世とあの世」といった、そうした「二世」をまたにかけるような、そんな「両生」に通ずるものです。つまり、これはこれで、言ってみれば新たな《発見》にも近いものです。

そういう次第で、私はこの新遭遇の二重性に「両世的『二重性』」と名をつけました。読み方も「りょうよ的」とします。いうまでもなく、これはまったく新しい体験です。 

すなわちこの「両世的『二重性』」とは、先の「未知多次元空間」と「移動生命体」に述べた「《固定生命体》と《移動生命体》」にまたがる「二重性」ということとなります。

つまりこうして、この世の《固定生命体》から、あの世の《移動生命体》へと飛び立つための、《翼を生やす工程》を準備しているのかも知れません。

 

 

 

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