続・再び孤立の道を歩むのか

憲法改正考(その7)

 

憲法改正議論からはやや離れますが、むろん対外的に関連して、日本の「移民政策」についてです。

いってみれば、日本に一番定着しにくい政策議論の代表が「移民問題」でしょう。

昨年7月に、「憲法改正考(その5)再び孤立の道を歩むのかを論じた際に、調査捕鯨をめぐって、少なくとも日本政府は、世界の情勢の中で孤立の道を進んでいるのではないかとの心配をのべ、それは今年3月末、国際司法裁判所での敗訴によって現実のものとなりました。

つまり、日本の政府に、世界情勢の「KY(空気読めない)」なところがあるのは明らかで、それの第二の実例が、この「移民問題」となるのではないかとの再度の“心配”です

 

「移民問題」といえば聞こえはいいのですが、これまでにも幾度か触れてきていますが(例えば「メタ・ファミリー・・・/偶然(4) 」参照)、それは要するに労働力対策の国際的解決法ということです。つまり、人手不足が国内的に対応しきれないとき、一時的か恒久的かの別はあれ、それを輸入に頼るという政策のことです。

むろん「移民問題」には、世界の難民問題への貢献という人道援助の面や、最後に触れるように人口増確保そのものとの目的もあります。

いずれにせよ、世界の先進諸国では、いまやこの《労働力対策としての「移民問題」》を活用していない国はないといってよく、オーストラリアもその例外ではありません。

ある意味で、世界の先進国の《労働力対策としての「移民問題」》は、非常に巧妙に計画、実施されており、一面、偽善的なところさえもうかがえる、柔道で言えば「十段級」の技量が必要な分野です。

ひと言でいえば、ワーキングホリデー制度も、留学生制度も、その裏側では、もはや否定しようもない、事実上の低賃金労働者の供給制度となっていることです。

私の身辺でも、日本の「雇用氷河期」のため、オーストラリアで長年(十年を越える例さえまれではありません)、“ワーホリ”や“ビザ学校通い”ですごし、日本がようやくにして人手不足になってきたとのニュースを知って、帰国を始めている日本の若者たちが幾例も見られます。彼ら彼女らにとっては、日本経済も、やっとにして、自分たちの面倒をみてくれそうになったかの気持ちのはずです。

さて、そこでです。ようやく日本も、求人倍率が1を越え、人手不足の声もさかんに聞かれるようになり、政府としても、高齢化と人口減という現実をかかえ、確実に減少を始めている労働人口問題があり、いよいよ、その対策としての「移民」への取組みの重い腰を上げ始めています。

その取組みにおいて、またしても、いわば「世界の常識」においての日本政府の「KY」ぶりが露呈しそうという懸念があります。

つまり、日本はこれまで、移民嫌いの国民性を勘案して、《労働力対策としての「移民問題」》には、国際援助の一環としての顔をもって、開発途上国の労働者に技術訓練を与えるとの建前に立って対応してきました。

上記のように、もともと《労働力対策としての「移民問題」》には、どこの先進国にも偽善的な面はうかがえるのですが、それに輪をかけて、いわば二重の偽善性ともいうべき、技術訓練生という「低賃金労働力」をあてにしたとも受止められかねない政策でありました。

それはあたかも、商業捕鯨としての本音を隠すために科学的調査捕鯨との看板をかかげていたと判定されて敗訴した失敗を、別の分野において、またしても繰り返しそうであるという懸念です。しかも今度の相手は、鯨ではなく、貧しい国の人々に対して。

つまり、国際援助というきれいごとを掲げてその背後で、実態は低賃金労働力を確保し、相応の賃金も払わないで弱い立場の人々を酷使したといった、偽善どころか非道行為としての非難を免れないない恐れもあります。

今後、政府がいかなる具体的政策を打ち出し、どういう形でその問題点が顕在化してくるのか、その予想はつきませんが、すでにそうした訓練生がその劣悪労働に反発して抗議行動を行ったとの報道もあります。

オーストラリアという移民ベテラン国でも、この《労働力対策としての「移民問題」》は、今でも摩擦がさけられない実に微妙な問題です。だからこそ、それを円滑化させるために、ワーホリとか留学とかという手の込んだ“糖衣錠”にして、だれもが呑み込みやすくしているのです。

はっきり言って、技術訓練などという看板をかかげる《労働力対策としての「移民問題」》といった姑息な対応はやめるべきです。さもないと、日本のKYぶりを輪にかけて自己宣伝し、もはや先進国といった地位すら疑われる事態を招くことにもなりかねません。

 

最後に強調しておけば、オーストラリアが順調な人口増を続けているのは、その増加分のほぼ半分を移民でまかなっているからです。いわば、国の存立条件の重要な柱のひとつです。

つまり、成熟した経済国の国民は、もはや人口を伸ばすまでの出生数をもたず、もし人口増を政策として選択するのであれば、それを「移民」つまり外からの「輸入」によってまかなうしかありません。

むろん、それには、外から見て魅力的な国でなければ、いくら移民受け入れの看板を掲げても、看板倒れに終わります。

くわえて、言語も国際語ではなく、まして、核汚染の現実が隠されているかもしれないとの心配なぞあれば、移民どころの話ではなく、さらなる《孤立》を招く事態になるやも知れません。

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