こんな今だからこそ、「9条理想論」の出番

  憲法改正考(その11)

マレーシア航空機の「誤撃墜」や、中東地域での紛争の悲惨な泥沼化を見るにつけ、世界のキナ臭さはつるべ落としに、やむを得ない危急事態どころか、無益と言うことすらはばかれる、それが事実とは信じがたい事態へと迷い込んでいっています。

互いがそれぞれ、武装にぬかりなく往行すれば、それぞれが丸腰であるより、偶発、あるいは暴発――さらには軍事的策略――の事態の生じる頻度が高まるのは理の当然で、世界の理性はいまや、粗野な腕力の理屈に牛耳られているのも同然かの事態です。

身を守れるはずのアメリカの「銃の保持」保障も、社会の安定の万全な時代では、かかげられた権利条項のひとつに収まっていました。しかし、その安定が揺らぎはじめ、重石の利かない社会にいたれば、これまた、余りにも愚かしい「偶発/暴発」事件が続発し、身内を理由もなく“犬のように”殺された親族の「Enough is enough(もうたくさん)」との叫びは痛々しいほどに切実です。そして、事態の根本的解決を望んで、それを「権利」とする主張を疑問視し、そうした時代錯誤した保障に頼らない、本来の人間社会の理念の定着を訴えざるを得なく至っています。

危急の事態に備えるとする防衛論も、個別、集団を問わず、その備え以前に、腕ずくで紛争を解決することを違法と宣言する、今日の市民社会では常識の理念が国家間でも保持されているからこそ、その次善策として用意されるはずのものです。さもなければ、それは自らを自分の都合で腕力をふるう野蛮国――それこそ「ならずもの国家」――と宣言するに等しく、国の内と外で矛盾するダブル・スタンダードを標榜する政策にほかなりません。

世界が、先導的な覇権国の仕切りに期待できない時代に至っているのなら、個々の国々は、他人頼りにならずに、お互いに、「国家間紛争の解決のために武力にうったえない」との相互確認とその堅持に立ち返ることが、いまこそ必要な時代になっているということでありましょう。

一日一日をかけがえなく生きている一市民が、しかも何百人も同時に、他に何の理由もなく、ただ「誤射されたミサイル」――これもまだ未検証です――で露と消されるような時代が、さほど長く続くとはとても信じられません。「Enough is enough(もうたくさん)」は、世界の誰もの思いであるはずです。

仮に“万歩”譲って、そうした危急を想定した防衛論を容認するにしても、それは、そうして得られるかもしれないものが、狭隘で独り善がりな国益でしかないことを前提とし、加えてそれ以前に立ち帰るべきこととして、より普遍的な理念の定着した平和な世界が広範で深い共益であるということを挙国一致して確認の上、充分なる制限をもって縛られるべきのものでしょう。そして、今日までの憲法は、まさにそのように機能してきたと思います。

まさしく、いまこそ「第9条」の出番です。いわんや、いずれの国の「狭隘で独り善がりな国益」に立つ国策には、決して引きずられるべきではないはずです。

折しもこの7月28日、世界は、第一次世界大戦勃発百周年を迎え、その痛みを再度胸に刻む数々の式典が世界各国で催されているところです。

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