「人類みな兄弟」も正しかった

  憲法改正考(その13)

いま、世界が必要なことは、敵をつくることなのだろうか。

地球がこれほど狭く、人の行き来は頻繁になる一方であり、しかも、ネットを通じれば、一人の発言が瞬時にして世界に伝わる時代というのに、どこをどう間違えて、そこまで角突き合わせなければならないのだろうか。

敢えて言えば、各国は、その舵取りの間違いから閉塞し、その苦しみの中から過剰防衛に走り、だれかれかまわず敵扱いして身構えしている。

あたかも、壁に映った自分の影におびえる幼児のごとくだ。

ここで一つの引用をしたい。前回から始まった二回目の「訳読」で、原著者が「資本主義の破綻」と題するセクションの結びとして述べていることです。

進行するこうした体制変化の兆しに大銀行家族がどのように反応するか、考えてみよう。ひとつのありえる想定は、ポスト資本主義の「世界新秩序」計画の中においては、企業家精神が悪魔化することである。これは忌々しきことである。というのは、それが人々に、貧困と戦時態勢化を受け入れるように操ることであるからだ。

確かに、ご近所付き合いは容易ではない。ひとそれぞれで、生き方も考え方も同じではない。

しかし、自然界を見れば、その無限の生物多様性の中で、すばらしいバランスをなして、この惑星は豊かに美しく生存してきたはずだ。

文化や社会の違いを生かし合って、民族の多様性を花咲かせるしかないし、それが自然の摂理であるのではないか。

 

昔、笹川良一という競艇界のボスがいて、金権絡みのいかがわしい存在であったが、ただ、世界を相手に、ひるまずに彼が言いづづけていたことがあった。「人類みな兄弟」。また、電柱や塀といった街のいたるところに、なぜか貧相にそうしるされたシールが貼られていた。

今となっては、その”罪滅ぼし”行為は、正鵠を射ていたと思う。

 

その舵取りの間違いをただすために、前回に掲載したように、「お金が消える時」を考えてみるのもよい。

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