もし私が首相だったら、いっそのこと

  憲法改正考(その21)

昨年10月の「戦後70周年《宣言》」に引き続き、もし私が日本の首相だったら、この際、ゼロ金利だのマイナス金利だのと姑息な回り道などしないで、いっそのこと、仁徳天皇ではありませんが、税金を――ゼロにするのはこの先のために残しておくとしても――、一斉に半分位に大減税してみるでしょう。

今の経済は、ともあれデフレつまり需要不足です。しかもそれは全世界的傾向で、どの国も通貨の引き下げ競争に躍起となって輸出に殺到しています。そのように世界のいずれの国も過剰供給経済ばかりなのですから、輸出の伸びはまず期待できません。

つまり、こうした総すくみ状態の世界経済の中で、外に頼れないなら、少なくとも短・中期的には、《内需》に眼を向けるしかないわけです。そこで、その国内需要を拡大できる、それこそ真に「異次元」な政策が避けられないとするなら、それは、大幅減税(ことに消費税は先行してゼロにする)による、自国経済への“カンフル《輸血》”しかないだろうということです。

むろん、そんなことをしたら極端な歳入不足に陥り、今でさえ深刻な国債頼りの国庫運営をますます借金漬けに陥らせてしまうばかりか、経済の大破綻にさえ瀕してしまうとの反論があるでしょう。

ならばはたして、日本経済を本当に自滅に向かわせているのは、いったい、どちらの政策なのでしょうか。しかも、いずれ自滅の淵に立つという点では、世界のどの経済も同類です。そしてその脱出の突破口が、どの経済にも見えないからこその総すくみであり、最近のきな臭い世界情勢の深まりなのです(きっと他の国は、日本のこの試みの行方を見守った後、これはいけると追随するのでしょう)。

要は、マネー(という“錯術”)への過度の依存とそれがゆえの自縛に陥っているのが世界の実態です。今や、その自縛の悪循環を断つ、根本的治療法が求められているのが実情でしょう。「金を使っても、金に使われるな」との鉄則が、はたして、どのような策をもってすれば実践されるのか、その瀬戸際にあるのが今です。

そこでですが、今日の経済のつけを将来世代へまわしているのは、なにも今に始まったことではありません(自民党の長年の常套手段)。もし日本が永劫の未来をもっている国であるならば、そこで視点を変えて、未来という文字通り無限の《資源》に真に着目することです。そしてその将来の繁栄から限定的な借り入れをしてみても、決して非現実的なことではないでしょう。

むろん、それは「ばくち」です。しかし世界の経済が、リスクという名のもとにばくちにふけっているのは周知のことで、むしろ、何をめぐってのそのばくちであるのかということです。

すなわち、同じ借金経済という《輸血》の手段を選ぶにしても、金融の量的緩和という“超”マネー依存の(つまり金持ち優遇の)方法によるのではなく、広く万人にその恩恵のおよぶ減税(あるいはゼロ税)により、現実経済全般の活性化の方が、国民広くにははるかに有益と判断されます。今のアベノミクスが、増発した国債を日銀に買い取らせ、銀行資金という国民の財産を使って事実上の隠れた増税をおこなっていることとは、真反対の国民救援の政策です。その分「首相、お気は確かか」と揶揄されるでしょうが。(仁徳天皇の故事が伝えるところでは、人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことに気づいて、彼はその後3年間、租税を免除したといいます。

そもそも、税制度とは、単年、少なくとも数年の期間枠内での富の再配分ですが、その期間枠をさらに拡大した巨視的再配分構想もありえるはずです。

未来つまり《時間と言う無尽蔵資源》を活用した、低あるいは無税経済の出現(ちなみに、サウジアラビアはそれを石油資源を用いて実行)とは、マネー――作為的に希少資源とされ、それに拘束されるように作られている――に支配された社会が根底的に変革することを意味しています。(しかも、地下資源頼りとちがって、枯渇がありません。)

つまり、その無尽蔵の供給に視点を定めることは、マネー不足つまり貧乏という制約――金の貸主はつねにうるさく注文をつける――からの解放の可能性でもあり、お金がないために断念しているもろもろの事柄の解消への展望でもあるわけです。そのようにして、経済的ネックをなくした社会が、私たちの本来の必要を満たしかつその結果が実った社会――真に人間的かつ自然豊かな社会――へと変貌した時、それは日本の将来を支える強固な現実基盤となり、手続き的な借金返済問題をこえて、それこそ「異次元」な繁栄実体としての恩恵を将来にもたらすでしょう。

私は、個人的見解として、日本の経済は、その一部はすでにマネー経済への依存を逸脱した、そうしたより高次な人間本位経済の段階に踏み込んでいるとみています。

たとえば、昨年以来急激に出現している来日中国人旅行者による日本商品の「爆買い」を見ても――おそらく今後は、中国国家指導者の思惑とは裏腹に、商品に終わらない広範囲な日本産の「爆買い」や「爆関心」へと移ってゆくでしょう――、それは、日本の商品のもつ奥の深さにおいて、中国産商品とは(その安さを勘定にいれたとしても)比較にならない、価値の差が歴然としているからの出来事です。そういう意味では、経済の質や総力として、勝負はすでについていると見れるわけです。

ただし、ここで自重自戒しなければならないことは、日本は、原発被災による核汚染をみずからおこし(厳密には、そういう“悪魔の技術”を米国よりおしつけられて)、その実態をいくら隠蔽したとしても、すでに起こってしまったその汚染の事実は、今後の長期の問題――たとえば癌や奇形児出産の多発――として顕現してくるのは、悲惨なことながら避けられないことであることす。そしてそれはこの先、数十年、数世代、ましてや核汚染物質の毒性の消滅についていえば数十万年の問題です。つまり、日本はそうしたきわめて長期にわたるネガティブな現実をかかえているという意味でも、短絡的対症療法をこえた、《超》長期の視野に立つしかない実状にあるのです。

 

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