「明示的か黙示的か」再考

  憲法改正考(その28)

もう6年ほど前、『天皇の陰謀』訳読の解説で、「明示的か黙示的か」という記事を書きました。日本の天皇制を「黙示的」体制の最たるものとすれば、著者のバーガミニは、それを「明示的」に述べることに努めたというものです。

今、それを読み直すと、日本文化の特徴が天皇制にそうした「黙示的」性格を与えたというその見方は、相当に、身びいき過ぎる甘さがあります。

アメリカをはじめ、今日の諸国家を見渡してみれば、程度の差こそあれ、政治あるいは国家運営そのものが、その権力の維持のために、「黙示性」をもつことが不可避どころか必須手段と化す度を深めています。そしてその程度に応じ、国民のこうむる苦難もその程度を顕著としています。

すなわち、執行責任の所在不明や、公開すべき情報の隠蔽、そして国家安全保障を理由とした秘密部門の拡大、正当を標ぼうしたやらせ(緊張や戦争)の横行などなど、政府による国民をだます方策は、いまやもう後戻りをさせないかのレベルに達しています。

逆に、「明示的」な政府とは、誰もが参加可能な民主制度が十分に機能している政府であり、公正平等な選挙をはじめ、政府情報の公開から、権力を批判する報道の自由の保障まで、政府権力と国民の権利が健全なバランスを保っている国です。

上記の記事の主旨によれば、今日、日本政府が「黙示化」し「戦前化」しているのも、伝統的日本文化の特徴がゆえにであるということにもなりかねません。

私は、日本的であることは、明示的になれないことであるとは思いません。ただその在り方が「subtle」なだけです。

 

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