脳の健康を案ずる感覚

自己健康エコロジー=切迫編=その2

Day 1,280+16(10月11日〈水〉)

退院1日目、日常生活はほぼ普通だが、どこか足が地についていないようなふわふわした感触があるる。午後、車を使い、魚市場でサケ一匹を仕入れたあと、店に退院後の姿を見せにゆく。車中、スピードに目がついてゆけないのか、くらくらする。

 

Day 1,280+17(10月12日〈木〉)

シドニー領事館へ出向き衆院選の投票。

 

Day 1,280+18(10月13日〈金〉)

友人とシティーで会って退院の書類を渡し、保険支払いの手続きを依頼。

足を延ばし、店への通勤のみのリハビリ。通勤自体は困難はないが、歩く速度、ことに階段は遅い。

 

Day 1,280+19(10月14日〈土〉)

これまで、体の調子が気になることはあったが、そこには、脳だけを採り上げその調子を気にするということはなく、健康と意味では、脳の存在は影がうすかった(“頭の良さ”うんぬんという意味ではまさに独擅場)。それが退院以来、何というのだろう、傷を負わせてしまった《脳という臓器》の具合いを気にするという、たとえば前立腺という臓器を気にしてきた際、それを「Z君」と呼んで話しかけたりもしたのと同様な、それの「健康を案ずる感覚」を抱きはじめている。そして、前立腺にならって「N君」などと呼んでみるのも一案だが、この臓器の調子の影響は全身どころか人格にもおよぶのだから、その気掛かりは並みでは済まない。

そこで興味深いのは、それでも、自分自身とか「おのれ」というのは別のところに存在していて、それなりのコントロールや威厳を維持していたし、むろん現在もそうである。移送前の病院で手術を待たされ、手足の自由が次第に侵されてゆく最悪の事態の下でも、その「おのれ」は苦境なりに確かに働いていた。

そういう次第で、もし、この脳という臓器が働かなくなった場合、この「おのれ」もそれに応じて消えてしまうのだろうか。「Goodby N君」などと言って、もう一人の「おのれ」が分化する気がしないでもない。

ちなみに、別掲「両生空間」の「META-MANGA」とは、そういう《第二のおのれ》たちのストーリーだ。

 

Day 1,280+20(10月15日〈日〉)

めきめきと脳負傷以前の状態が回復されてきている。ドクターストップがかかって、運動は散歩程度に制限されているのが残念に思えてくる。ただし、すぐに息がはずむところなどは、まだまだ以前とは違う。今は我慢のしどころ。

 

Day 1,280+23(10月18日〈水〉)

昨日から本格的な職場復帰リハビリを開始しました。下ごしらえを主に3時間ほど復帰訓練してきました。やや作業速度は遅いものの、ほとんどが以前同様にできたので安心しています。やや気になるのは、カウンター下の冷蔵庫のものを出し入れする際など、立ち上がった際に、まだおぼつかない感覚が伴うことです。足の力とバランス感覚がまだ十分回復していないのでしょう。

痛い目にあって分かることですが、脳が自動的に果たしている働きは、まさしく自分のコントロール・タワーであり、それが損なわれた支障は計り知れません。馬鹿をやって、奇しくも回復できた幸運をしみじみと噛みしめています。

 

Day 1,280+26(10月21日〈土〉)

今週は、火、木、土の三日間、リハビリ出勤しました。調子は上々で、完全復帰してゆくにあたっての不安感――以前からの腰痛は別として――もありません。ただ、医師の指示もあり、もう一週間、リハビリする予定です。

 

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